四天王寺の次は親のリクエストで近くにある一心寺へ。
一心寺といえば骨仏のお寺として関西では超有名で、
特に大阪では創価学会以外は宗派を問わず、
一心寺に納骨を希望されるご本人やご遺族が多い。
そんな一心寺なんで普段から喪服を着たご遺族が多く、
本堂では常に法要が営まれている。
また、御朱印をいただく寺務所でも骨壺を持ったご遺族が普通にいるので、
単に御朱印をいただくため「だけ」に行かれるのは止めておいた方がいいです。
まぁ、そんな御朱印ハンターはそんな事を気にすることは無いだろうけど。
ちなみに一心寺には駐車場がありませんので、
近くの有料駐車場を利用しましょう。
<2011年1月29日参拝>
https://blog.goo.ne.jp/05100625/e/2dfba32f2d22a9c15690fa0162aff576
所在地:大阪府大阪市天王寺区逢阪2-8-69
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:文治元年(1185)
開山:法然上人
札所:法然上人二十五霊跡、大阪新四十八願所
【縁起】
文治元年(1185)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、
法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び荒陵の新別所と称し、
後に源空庵と改名して住んだという。
後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。
当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。
慶長元年(1596)三河国の僧侶であった本誉存牟上人が、
法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、
寿命山観称院一心寺として再興した。
彼の一心称名をもって寺ができた為、一心寺という名になったといわれる。
慶長5年(1600)2月徳川家康の8男仙千代が大坂で夭折し葬儀を一心寺で行った。
住持である存牟が家康と同郷の出身であり、
また家康が浄土宗の信者であったことにもよる。
家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、坂松山の山号とその寺額を贈り、
仙千代の戒名から高岳院の院号も贈った為、一心寺は坂松山高岳院一心寺と改名した。
江戸時代、一心寺は寺社奉行直轄の檀家を持たない特別寺院となったが、
文化文政時代には衰微していた。
だが50世真阿上人が天保年間(1831-1845)の中頃に復興させている。
復興の一因としては庶民向けに宗派を問わずに年中無休で、
無縁の霊を供養する施餓鬼供養を始めたことがあげられる。
これによって当寺は「おせがきの寺」として賑わった。
明治20年(1887)に嘉永4年(1851)から同年までに納められた、
約5万体の遺骨を粉砕して粉にし鋳型で固めて阿弥陀如来像を制作した。
これが骨仏の始まりである。
【仁王門】
【仁王像】
正直このような洋風な仁王像は気に入らないです。
【天女像】
うーむ・・・
【水かけ誕生仏・念仏堂】
【本堂】
ちょうど法要が行われていて、
本堂の内陣には入れませんでした。
この時期でも結構参拝者が多かったです。
【本多出雲守忠朝墓所】
あと一心寺といえば骨仏ですが、
やっぱり遺骨で出来てると思うと畏怖の念しかわかない。
なので写真は撮っておりません。
これにて本日の参拝終了。
一か月振りでしたがお寺の参拝はいいね。