(今回登った 1300mの高座山(たかざすやま) 忍野村にあり 実質300m登るだけです。)
窪川原発反対運動フイールドワーク参加者の一人に 宮城県出身のTさんがいた。 2011年8月島岡さんの田の
稲刈りを手伝っていた。四万十町は 「仁井田米」ブランドで知られるコシヒカリが収穫される。稲刈りは稲作農家に
とって最もうれしい作業である。彼は5ヶ月前 故郷で大震災に遭遇した。
春休みで帰省し 田植えの準備を家族でやっていたその矢先である。家族は無事で 家も被害は無かったが生活の
ライフラインは全て駄目になった。夜になると何も出来ないが 水は知り合いの家で湧き水を貰いプロパンガスが
あって温かい食事も出来 薪ストーブで暖房もとれた。隣り町は津波で壊滅的だった。
6日後電気が復旧した。しかし事態は更に深刻になった。福島原発が電源を喪失して 爆発を繰り返した。
彼は現代の生活が如何にもろいものかを痛感した。昔ながらの火を使う生活が いかに安定していたか 頼りに
なるものか実感した。
昔は自然にある物を日常に取り込みながら生活をしていた。今は多くの人々が全てをサービスとしてカネを払って
受け取っている。電気一つ使えなくなると 生活が全てお手上げになる。昔の農家では薪を割り 自給用の畑を耕し
水を汲みに行き 夜は夜でわらじを編んだりして 自給の道を確保していた。生活の為の仕事があった。年に数日の
休みしかとれない働きずくめの生活があった。それに較べれば 今の農家も便利になった。社会分業というか他人に
頼る生活 そのための稼ぎが必要になり カネの世界に巻き込まれていった。
しかし震災にような非常時になると 昔ながらの生き方が戻って来る。避難所では皆助け合って 炊き出ししたりして
困難を分け合った。 ボランティアという形で都会の見ず知らずの人々の協力もあった。共助の精神が自発的に発揮された。
人間が地に足を着けて暮らしてきたことが 証明された。そこに力強さがあった。震災にあい 若いTさんは改めて農家が
持つ強さ 土と共に生きる人のたくましさを知った。今日食べる食料がある。季節はどんな事情があっても巡って来る。
植える時に植えないと手遅れになる。今やるべきことがある。祖父は『 今が植える時期だから 農家が食べ物作らないで
どうするべー 』と言い ジャガイモの植え付けを始めたという。父も消防団の活動をしながら 田植えに向けて動き
出した。『 放射能汚染地帯で 稲作をするのは間違いだ!』という声もあった。悔しさが体中にあふれた。
消費者に買って貰う米ではない、『 この田んぼに留まる、狭い日本どこに逃げても同じだ! 田んぼと稲を守る!』と
決めた。
Tさんから見れば窪川の自然の恵みに溢れていた。 放射能汚染の故郷はもう美しいとは言えない・・。
島岡さんは 若いTさんに『 もし窪川が放射能で汚染されても おまんと同じように自分の故郷を見捨てない。
自分が出来ることを必死に考え 死ぬ気で行動する。若いおまんは故郷にしがみついて 行動しろ』と言った。
Tさんは島岡さんの稲刈りを手伝わせてもらって 窪川では 毎年同じように稲が刈れる変わらない暮らしがあって
きれいな川と山があって しみじみ幸せだなーと思った。原発事故が起きて 故郷は状況が大きく変わった。でも
それを自分だけの問題にしてはいけない。
被災地の外にいる 原発の電力に依存している人たちとも分かち合って これからの食を、農業をどうするか、
問題を投げかけながら生きていきたい! 日本人皆が問われていることだから・・。絶望しないで 毎年来る
季節のように 変わらない生活を守り 脅かすものに対して戦う。『 私は故郷の宮城でコメを作ります。
農業をやります。農家は食べ物を育てる 命の担い手です。』
島岡さんも Tさんの言葉を聞いて 熱い『農の心』を感じたという。妻の和子さんも涙したとある。
『 農とは 生きることを分かち合うこと 』 いつも和子さんが口にする言葉である。
忍野村の中心。役場 保健所 図書館 学校などの建物。
途中 富士山も忍野村もよく見えます。 これはファナックという工場用ロボットを造る会社です。
山道も 大雨でえぐられてきています。
そんな多くの人々が登る山ではないので 雑草が道を塞いでいます。
先日よく分からなかった花 くさぼたんです。
竹煮草(たけにぐさ) もう枯れて 種が付いてきています。
先日紹介した 草藤(くさふじ)です。
おみなえしです。 秋の七草ですね。
これも秋の七草 藤袴(ふじばかま)
われもこう。
岩しゃじん。
何故か このすすきは もう種が出来ています。 もしかしたら去年のもの・・?
もう栗の木にも 実がなって来ています。
頂上に着きましたが 周囲の見晴らしは ゼロ !? 苦労の割には ? 少しガックリ !