
( 稲刈りを終わらせた田んぼ。 台風の影響で7~8割は倒れていました。)
4回に分け 島岡さんの原発反対の活動を 簡単にまとめました。旧窪川町の人々には
大変な苦しみだったと思います。そこに生活があり 将来もあるからです。先発の愛媛
伊方原発に関わった人々も同じでした。島岡さんの著書「 生きる 」の中で伊方町を
訪ねた報告が出て来ます。
高度成長期の昭和43年頃 「町に何か大型の事業を取り入れないと時流に乗り遅れる、
過疎の歯止めに」と切羽詰まった思いで町は原発を誘致した。町の将来にバラ色の夢を
描いて取り入れた。住民には安全性の問題や原発の実態について 充分知らせなかった。
説明会を開いたが 住民もあまり関心を示さなかった。原発と言わずに 大型の事業を
すると言って 四国電力と町職員で用地買収を行った。原発の説明よりも用地買収を
優先した。町議会で満場一致(全員保守系)で可決した。(昭和44年)立地が決まり
交付金が入り出したが 町役場に金があるとして 各種の要求が多くなった。住民に
「タカリ」「ネダリ」の風潮が強く 生産意欲を減退させた。
漁業権を八千万円で売り渡した漁業者は 近海のアワビその他の魚介類が 原発より流れ
出た大量の温排水により死滅したことを嘆いた。 周辺の山々のミカン園には 農民が
手入れを放棄した荒れ園も見られる。高い賃金という甘い餌で 多数の作業員を呼び寄せ
結果ガン患者をつくり出し 死なない内に追い払う・・。「 原発は安全 」という思い
込みだけで 安心していた人々が多い。
原発が稼働する伊方町には 全く活気が無い。公民館 体育館 診療所 小中学校など
新しい建物は目に付くが それらを活かす活動がない。町はさびれ おまけに人の心まで
変えてしまった。若い者は暴力団になったり 遊んで暮らすことを覚え 仕事をする若者が
少なくなった。選挙には金をばらまき 買収選挙が人前で堂々と行われていた・・。
昭和30年当時 原発が無ければ日本は農業だけの三等国になってしまう。何が何でも原発だ。
という雰囲気があったという。 私も高度成長期を生きた人間として当時の背景 風潮は
分かる気がします。 そこに人間の弱さ 汚さも垣間見えます。 島岡さんのように
「どんなきれいな言葉で飾られようと 反対してほしい。生命をはぐくむ農業と原子力は
決して共存出来ない。人間が生きる大地を汚してはならない。」という強い思いを持った
人は少なかった。「 いつ果てるとも知れない苦しみだけが残った。」と後悔する伊方町の
老人の言葉が 多くの人々の思いを代弁している。
近く総選挙があるらしい。原発は各地で再稼働される動きにある。6年前の東日本大震災を
風化させてはいけない・・と思う。3.11迄 多くの人々が「原発は 原子力の平和利用だ」と
思っていた。しかし未だ福島原発のメルトダウンの核燃料の処理も出来ないである。核の
ゴミの処分方法さえ決まらない。 「 原発のない社会こそ安全な社会の土台である。」
命を育む安心安全な食と反原発は結びつく。「 美しい故郷の自然と農業を守る。」 という
島岡さんの本気度から学びたい。 島岡さんの著作から 多くのことを学ぶことが出来ました。
感謝です。

しっかり立っている稲もありますが・・、これでは 収穫も苦労ですね。

小諸もそのようですが 早めに刈り取った方が 良かったかも・・?

森の中では 大きな木が倒れていました。 溶岩台地には 土が薄いのです。


栗の木も倒れていました。

国道も落ち葉で 林道のようになっていました。


細いアカマツ。これで100年くらい・・。 それでも台風の風に耐えました。

折れている白樺もありましたが・・。

まだ青いイガ 栗の実も 虫が食っていたり まだ白かったりで 実りの秋とは遠い感じです。

少し前に拾ってきた栗。 実が小さいです。 それでも頑張って皮をむき 明日は栗ご飯 !?

灰色は地衣類。 苔などと溶岩の上に最初につく植物です。 富士山ウオークのガイドさんに教わりました。

富士山研究所であった生態系についての講座。 高齢者が多いでしょう・・。

富士吉田から見た夏の富士山。 もうじき初雪・・、 そんな夢を見ました。