島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

陣屋石倉

2014-07-08 | 富江
 
 富江病院から道(国道)を挟んで向かいにある富江中学校、現在は1学年30名程ですが、その運動場はやっぱりかなり広いです。
 富江藩は三千石で大名ではないので、城は持てません。
その代わりの陣屋の跡が、現在の富江中学校の運動場よりひとまわり大きい規模であったようです。
 その跡で今も残るのは陣屋石倉(ジンヤイシグラ)で、この運動場の向こうに写ってるような写ってないような。
 
 なんの案内看板もなく、家の陰にあって周りからもあまり見えず、町の中心の交差点にも近いのに、ひっそりと目立たなくあった陣屋石倉、フークとの散歩の圏内にあったのに、民家の間の狭い道を通って畦道の様な所を通って行くまで気が付きませんでした。
 
 富江藩中興の祖と言われる6代藩主伊賀守運龍(イガノカミユキタツ)(1780~1844・在位1789~1844)が非常時に備えて作らせたと言われるこの陣屋石倉、インカの石組にも負けていません。
 
 幅25m・長さ9m・高さ4mで、壁の厚さは1.15mの富江産玄武岩の切石で作られた立派な石の倉です。
天井は藁ぶき?だったのか、梁ももうなくなっていますが、200年以上経ってもびくともしない(一部壊れているのが写ってますが)ぐらいきれいにしっかり作られています。
 
 正面に2か所の高さ2mの入り口から中に入ると、結構広い空間が広がり、裏面には3か所の高さ50㎝・幅85㎝の高窓があります。
 もっと宣伝して、陣屋石倉の入り口を整備したら、立派な名所になるのにもったいないです。
 
 玄武岩には小さな穴がたくさん開いていて細工しやすいのか、それで丈夫なのは不思議ですが、せっかく家を持っているカタツムリが、何故かその穴を家にしてへばりついていました。
 現在のところ陣屋石倉を積極的に利用しているのはカタツムリだけでした。

     返事
和みさん:なかなか天保をアマヤスとは読めませんよね。
和さん:特に3枚目の写真、畑の中に残る側壁、我ながらいいなあと思ってます。
大雪男さん:溶岩の玄武岩(火山礫)がまたいいんですよ。
和みさん:私より先輩でしたね、失礼していました。
    管理人は、こうして女の人の歳がばれていくのを喜んでいるので、うれしい限りです。
花水木さん:1日早い誕生日おめでとうございます。
     次のクレソン畑を楽しみに待っています。
コメント (4)
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