島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

7-1孝霊天皇

2017-04-26 | 天皇陵巡り
 
 第6代孝安天皇の第2皇子大倭根日子賦斗邇命(オホヤマトネコヒコフトニノミコト)は黒田盧戸宮(クロダノイオトノミヤ)を作って天下を治めました。(奈良県田原本)
この人が今回の第7代孝霊天皇(コウレイ)です。
  
 この孝霊天皇には4人の妻がいて、全部で8人の子をもうけています。
   
 106歳で崩御し、片岡馬坂陵(カタオカノウマサカノミササギ)に葬られました。
  
 この孝霊天皇陵は奈良県王子にあって、車が通る道からV字型になった石段を上がるとすぐにありました。
  
 第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの9代の天皇は「欠史8代」と言って、本当に本当に存在した天皇かどうか怪しまれています。
特に第2代から第6代孝安天皇までは、古事記でも短い内容で終わっていますが、この孝霊天皇からは欠史8代でも少し長く書かれています。
  
 ちょっと前まではこの陵をぐるっと回れたようですが、今はだめなようですので、私も無理はしませんでした。
   
     もう一度勉強の時間:
 600年代後半、第40代天武天皇の国史編纂事業により、以前からあった帝紀と旧辞を検討して、712年太安万侶が古事記を編纂、720年には舎人親王が日本書紀を献上しています。
私の天皇陵巡りの内容も、古事記や日本書紀から成り立っています。
 そもそもなんで、日本の天皇家の始まり初代神武天皇の即位を紀元前660年にしたのでしょうか。
 ここで前回勉強した干支を思い出して下さい。
干支一周の60年を一元と言うのですが、それが21回廻る60×21=1260年を一蔀(ホウ)と言います。
そして一周60種類のうち58番目の辛酉(カノトノトリ・シンユウ)には王朝が交代する革命が、一蔀の1260年に1回の辛酉の年には大革命が起こる、との説が中国にはあったそうです。
古事記よりもっと前の帝紀・旧辞があったのが、それより100年ほど前の推古天皇の頃だとすると、その時代の601年は辛酉の年になります。(601年はたいしたことは起こっていませんが)
 601年頃、日本の天皇家の始まりはいつ頃にしようかと集まって相談した人たちは、その年が辛酉の年でもあったので、それより逆算して「一蔀の1260年前の辛酉の年が、大革命が起こって神武天皇が即位して日本が始まったとするのが、歴史もあって良いのではないか」、「そうしよう そうしよう」になってしまったのでしょうね。
これで日本の始まりは紀元前660年に決まりました、がそれによってそれに合わせないといけないことが起こってきたようです。
  続く

     返事
花水木さん:小布施の栗きんとんとおこわは、
    私には美味しかった印象がありますよ。
     桜も良いですが、梅の良さが少しわかってきた気もしています。
    今はどこも花水木が満開ですね。(満開とは言わないかもしれませんが)
大雪男さん:箱館山は反対側、北寄りの湖西の方向です。
     阪神も少しづつボロが出てきていますね

コメント (1)
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