父は藤原基経(モトツネ)、母は忠良親王(タダヨシ)(第52代嵯峨天皇の第4皇子)の娘操子女王(ソウシジョオウ)という藤原温子(フジワラノオンシ・ヨシコ)(872~907)は、同母弟には兼平、異母兄弟に時平・仲平・忠平、異母妹に隠子という、関白基経の率いる藤原北家の秘蔵っ子です。
父基経が天皇にしてやったも同然の第59代宇多天皇には、天皇になる前から多くの妃や子供がいました。
888年阿衡の紛議でいちゃもんをつけた基経に対し、宇多天皇はその日記に「寝られもせず、玉茎(ギョッケイ)は発(オコ)らず、ただ老人のようである」とまで書いたぐらい口惜しがりましたが、基経と妥協するために、娘の今回の温子が入内するのを許しました。
なおこの時の宇多天皇の不能は、源融が献上した露蜂(ロホウ)(蜂の巣の薄い膜)を服用して、回復したようですので、私も蜂蜜をなめるだけでなく、巣も買わなくてはと思っています。
温子は宇多天皇との間に均子内親王(キンシ)をもうけましたが、入内の経緯からも宇多の愛はあまり受けられず、その他には皇子などをもうけることは出来ませんでした。
しかし、第60代醍醐天皇の養母として七条后と呼ばれ、皇太夫人となっています。
36歳で亡くなり、藤原北家ゆかりの宇治木幡(コハタ)近辺の陵墓をまとめたような宇治陵(ウジノミササギ)(宇治市木幡)の制札の筆頭者になっています。
なお今日(4月1日)のブログ記事に一切嘘は有りません。