藤原冬嗣の孫ですので、藤原基経とは従兄弟関係になる藤原高藤(フジワラノタカフジ)が15~6歳の頃、鷹狩の帰りに雨宿りした家で、そこの娘宮道列子(ミヤジノレッシ)に一目ぼれし、一夜の契りをむすんだそうです。
その後は音信不通になり、6年後に列子に再会した時の娘が6歳の胤子です。
高藤は騙されていたのかもしれませんが、その後二人の間には定国(サダクニ)(866~906)や定方(サダカタ)(873~932)も産まれていますので、まあ結果良しですね。
この藤原定方は三条右大臣と呼ばれるまでに出世し、この写真の小倉百人一首にも選ばれています。
高藤と列子の一夜の契りの結果の子 藤原胤子(フジワラノインシ・タネコ)(860?~896)は、884年に源定省(サダミ)の妃となり、敦仁(アツギミ・アツヒト)・敦慶(アツヨシ)・敦固(アツカタ)・敦実(アツミ)と柔子内親王(ヤスコ)(34年間も斎王を務めています)を産みました。
伏見の老人ホームからの帰り、ひと山越えて歩き、名神高速道路にまで至り、第54代仁明天皇陵からもう少し行くと、醍醐天皇御母小野陵が見えてきました。
石段を少し上がって振り返ると、名神高速道路のすぐそこに小野陵のあることが分かりますでしょ。
この辺が東京オリンピックの前に開通した、名神高速道路の中でも一番早く出来た辺りですが、うまく仁明天皇陵や小野陵を避けて通していますね。
けっこう長い直線の参道を、名神高速道路を振り返りながら、車の音も小さくなるまで登って行くと、拝所が見えてきました。
夫の源定省が887年、降ってわいたように第59代宇多天皇に成ったので、胤子も更衣→女御となり、長男の敦仁親王が立太子するまでになりました。
しかも、胤子自身はもう亡くなっていましたが、敦仁親王が第60代醍醐天皇になったので、追贈皇太后が贈られ、この立派な小野陵(オノノミササギ)(山科区勧修寺)に葬られています。
この小野陵は、胤子の母の実家にも近く、勧修寺(カンジュジ)までも歩いてすぐです。
この胤子の血縁によって、基経直系ではないのに、藤原高藤の家系 北家勧修寺流は栄えました。
返事
花水木さん:今週末は晴天で、
満開の桜をたくさん観てきました。
俗っぽい私ですので、
やっぱり桜は満開が好きです。