島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

60-3醍醐天皇皇太子慶頼王

2020-04-27 | 天皇陵巡り
 
 私の大学のYMCA寮である橘井寮(キッセイリョウ)、50年以上前とあまり変わらずにまだ、京都市左京区吉田にありました。
 
 橘井寮には私の友人も住んでいましたし、ここに写ってるラグビー部の仲間も寮生で居ましたので、よく泊まりこんで、ダラダラと夢や女のことを話し込んだこともあった、私の青春時代の思い出の地です。
 50年前の試合後の写真の中から、3人が他大学ですが教授になっています。
しかし、鬼籍に入った仲間も2人います。
 
 この橘井寮の裏手、民家の間の狭い通路の向こうに見えるのが、第60代醍醐天皇と穏子の間の皇子保明親王と、藤原時平の長女藤原仁善子(ニゼコ)との間に産まれた、醍醐にとっては孫にあたる慶頼王(ヨシヨリオウ・ヤスヨシオウ)(921~925)の墓です。
  なんとか見つけました。
 
 そっと柵を横にずらして、細長い通路をしずしずと進みました。
同母妹の煕子(キシジョオウ)は後に、叔父である第61代朱雀天皇の女御になっています。
 
 祖父醍醐天皇の皇太子であった、父保明親王が21歳で亡くなったので、3歳にしかならない孫の慶頼王が、替わって皇太子になりました。
なんとしても藤原北家の血を、継いでいきたかったようです。
 墓はぐるっと周囲を、民家とマンションで囲まれています。
 
 しかしそれから2年後には、5歳で慶頼王は亡くなったので、祖父醍醐は、すべてが菅原道真の崇りだと思い込んだようです。
 
 慶頼王は吉田山の麓、神楽岡(カグラオカ)に埋葬されたようですが、そこからほど近い、橘井寮近くの左京区吉田牛ノ宮の円墳が治定されています。
スマホの地図アプリがなければ、とうていたどり着けない、分かり難い墓でした。

 2016年8月から始まった、あまり人気のないこの天皇陵巡り、やっと半分ぐらいまで来ました。
4年もかかって、予定をはるかにオーバーしています。
あと4年もかかると、私の命の問題も出てきそうなので、残り半分は2~3年で終わらせたいと思っています。
コロナを生き延びたら、その後の予定は、チョット実現不可能なことをやってみたいとは思っています。

      返事
花水木さん:黒田の百年桜;
    山桜の突然変異で、
    10~12枚の八重の中に一重が混じる、
    新種らしいですが、
    近寄っても、判りませんでした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする