またまた増田潔さんの地図を無断借用して使ってます、すみません。
鞍馬街道は地図下側の赤い丸印の清蔵口から始めて、青線の東街道を17回に分けて進みました。
今回は赤線で描いた西街道を、二軒茶屋で東街道と合流するまで進むことにします。
西街道は、上賀茂神社に寄りたい人や、京都の西側に住む人にとっては、便利な鞍馬街道になっています。
堀川通りと鞍馬口通りが交わる所に、元々川であった紫明通りが斜めに合流してくる交差点、この南東部が清蔵口と言われていた所なので、ここから出発です。
ここに淡交社のビルが有りますが、淡交社は茶道や美術の本などを中心に発行してる、京都の出版社です。
この堀川通りを少し上がった所に、小野篁(オノノタカムラ)と今を時めく紫式部の墓が並んであります。
思わず見過ごしてしまう、何気ない小野篁卿墓と紫式部墓所の石碑が立つ路地の入口ですが、もうじき立派な立て看板が立つかもしれません。
小倉百人一首11番参議篁と57番紫式部、100年以上の開きがあると思いますので、何故ここに二人並んで墓が有るのか、まあそれなりの理由を見つけて、それなりの場所に立てたと言うことでしょうね。
鞍馬街道を少しショートカットすると、私もあまり知らなかった玄武神社(ゲンブ)がありました。
バックがアパートなので、ありがたみには欠けます。
惟高親王(コレタカ)の剣を祭神とした、京都の北方の守護神でも有ります。
惟高親王は第55代文徳天皇の第1皇子ですが、母が藤原氏ではなかったので、政権争いから逃れて、いろんな所に隠れながら暮らしていたようで、写真の墓は、以前の天皇陵巡りの際に行った大原手前の山のふもとにありました。
滋賀県湖東の山奥にも惟高親王陵があるようですが、冬に行って雪道で断念しました。
湖東に逃れていた時に、巻物の形からロクロで木を削る方法を思い付いた惟高親王は、木地師の祖とする伝承もあるようですし、日本国歌「君が代」の歌詞は親王に使えていた木地師の歌からとったとも言われています。
君が代の歌詞も親王の家臣、家臣様様ですね。
と書いてありました。笑
小椋・大倉さんが多いのは知りませんでした。
小倉でなく、何で小椋なんでしょうね?
小椋さん、大倉さんが多いらしいですね。
木地師は木工品を作る人です、ろくろを回して木のお椀やそのものや、輪島塗など塗り物はその木の椀に漆を塗って作ります、湖東の山奥には木地師の里があったはずです。
「光る君へ」はまだ真剣に観てません。
知らない事ばかり。
歴史や古典の授業では、年代とか、名前の暗記ばかりで、和歌などその深い意味も知ろうともせず。
光る君へ、今夜は大変な事になりそうですね。