敦成親王(アツヒラシンノウ)は第66代一条天皇(980~1011)(在位986~1011)の第2皇子で、母は道長(966~1027)の娘彰子(988~1074)ですので、外戚の地位を目指す道長にとっては待望の皇子で、産まれたのも道長邸宅の京極殿(キョウゴクドノ)ですし、摂関政治を掌握する為の希望の星でした。
陵は山の斜面にあって、街中にしては立派です。
定子の子で一条天皇の第1皇子敦康親王(アツヤス)を差し置いて、敦成親王は4歳で第67代三条天皇の皇太子になり、三条天皇のほぼ強制的な譲位により9歳で即位し、第68代後一条天皇(ゴイチジョウ)(1008~1036)(在位1016~1036)となりました。
拝所も広々としています。
皇太子には三条天皇の第1皇子敦明親王(アツアキラ)(994~1051)が立ちましたが、天皇は9歳皇太子は23歳、父三條天皇もすぐに亡くなり、後ろ盾を失った敦明親王は1年ほどで、道長の前に屈して皇太子を辞退することになっています。
その後、後一条天皇の皇太子に立ったのは、1歳年下の同母弟敦良親王(アツナガ)(後の第69代後朱雀天皇)です。
後冷泉天皇の皇后になった娘の章子内親王と同じ陵です。
皇后には道長の三女威子(イシ)(1000~1031)が20歳で入内、9歳年上女房ですが、この頃は珍しい唯一の皇后でした。
二人の間には皇子は生れず、二人の内親王が産まれただけでした。
陵を一周すると、大きくて奥があることが判りました。
後一条天皇皇后にこの三女威子が成り、長女彰子が一条天皇・次女妍子が三条天皇の皇后になってますので、これで道長の娘三人が皇后になるという「一家三后」と成りました。
この世をば 我が世とぞ思う 望月の
欠けたることも なしと思えば
と、道長が歌ったのはこの頃ですが、満月になったら次は月は欠けるだけ、そろそろ藤原北家の時代にも秋風がたってきたようです。
陵からは、送り火の大文字で有名な、東山如意ヶ岳がすぐそこに見えます。
1027年道長は死にましたが、長男頼通(ヨリミチ)は上手にその後を継いでいたので、後一条天皇は在位20年ありましたが、まだまだ自分が主導して国政をとるまでには至りませんでした。
1036年後一条天皇は突然の崩御の為、上位の儀式が間に合わず、喪を秘して同母弟後朱雀天皇への譲位儀式を行ったそうです。
大文字の見える菩提樹院陵(ボダイジュインノミササギ)(左京区吉田神楽岡町)に娘の章子内親王(ショウシ)(1027~1105)と共に葬られています。
返事
花水木さん:50年以上前に初めて食べた、
ミスタードーナツも衝撃でした。
最近衝撃が無いのは、加齢で味音痴になったからですかね。
たまに文明堂の木箱に入ったカステラとか頂くと嬉しかったものです。
今は、珠の御馳走だったものが、通常の食卓に。
美味しいお菓子も簡単に手に入り、いつも飽食状態。
今のコロナ騒ぎも、奢った人間への戒めかもしれません。
と言いながら、夏以外でもビール飲む私もダメですね。