南朝2代でもある第97代後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の女御には、嘉喜門院(カキモンイン)藤原勝子(カツコ・ショウシ)(生没年不詳)がいて、たぶん第98代長慶天皇や第99代後亀山天皇を産んだそうですが、裏付けもなく墓もはっきりしません。
いかにも奈良の山奥の山村という感じの眺めの中、道端に車を停めて歩き出すと、写真の陵が見えてきました
そんな中、後村上天皇が中宮に迎えた源顕子(ケンシ・アキコ)(1332?~1359?)との間には、特に皇位に就くような皇子もいませんが、忠臣として名高い北畠親房が顕子の父だろうということなのかどうか、皇后扱いの陵として宮内庁は治定しています。
ズームで見上げた陵は、なかなかいい感じです
奈良市からは南東の方角の山間部に有る後村上天皇中宮顕子の笠間山陵(カサマヤマノミササギ)(奈良県宇陀市榛原笠間(ウダシハイバラカサマ))も何とか制覇です。
なんでこんな所にこんな人の陵が有るのか解りませんが、後村上天皇との間に坊雲を産み、親子で陵の横にある陽雲寺(ヨウウンジ)に世俗を離れて住んでいたので、ここが陵になったとも言われていますし、父親房の墓と伝えられてる墓が近くの室生寺にあるそうですので、この辺りは北畠家の勢力圏だったのかもしれません。
でも宮内庁がこんな人のこんな墓を、治定陵として管理してる意味はちょっと解りかねます。
参道の登り口に、民家程度の陽雲寺がありました
顕子は27歳で亡くなったそうですので、息子坊雲もせいぜい10歳ぐらい、昔の人はみな若くしてしっかりしていますね。
また、私の好きな話、顕子さんは公家と密通して長谷寺で出家したという噂もあるようです。
まあいたかどうかもわからない人の陵ですが、立派です。
陵に上って見下ろす景色は、なかなか良いですし、陵内には落ち葉も落ちていませんので、宮内庁の人が聡怩ノ来るのはたびたびでもないような場所、たぶん地元の人が戦後もずっと聡怩ウれてるのでしょうね。
返事
二つ前の花水木さん:奈留島に行ってからは、
子供たちからは「犬先生・マリオ先生」と呼ばれてましたが、
大人からは「京都の福山雅治」と呼ばれてました(妄想かもしれませんが)。
その前の病院では、この私の写真を見て
「外科医島耕作」と呼ぶ人も(私だけ)いましたよ。