島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

40-1天武天皇

2018-10-26 | 天皇陵巡り
   
 飛鳥の岡の上にある天武・持統天皇陵、この夫婦の天皇陵はよく目立ちます。
40-1天武天皇は武力によって政権を奪い、皇族中心の皇親政治を行い、律令政治の基礎を築いた、強い天皇のイメージですし、そもそも今まで私が書いてきた文章の根拠となってる「日本書紀」の編纂を命じた人ですが、分からない点がたくさん有ります。
   
 父は34≠P舒明天皇で、母は35≠P宝皇女(後の皇極・斉明天皇)なので、38≠P天智天皇の同母弟になる大海人皇子(オオアマノオウジ)は高貴な出のはずなんですが、生まれ年は不明です。(まあこれは日本書紀では普通らしいですが)
   
 成人するまでははっきりしたことが分からないため、大海人皇子は新羅の皇族だったという説や、母の宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に結婚していた前夫高向王(タカムコノオウキミ)(31≠P用明天皇の孫です)との間の子漢皇子(アヤノミコ)である、すなわち天武は天智の異父兄であるという説もあります。
    
 いずれにしても、(兄)天智天皇の娘、すなわち姪にあたる皇女4人を娶っています。
大海人皇子は、大田皇女との間に大来皇女(オオク)と大津皇子、鸕野讃良皇女との間には草壁皇子、新田部皇女(ニイタベ)との間には舎人親王、大江皇女との間には長皇子(ナガ)と牛寘c子(ユゲ)をもうけています。
他にも天智天皇の娘さん以外も娶り、十市皇女(トオチ)・高市皇子・忍壁皇子(オサカベ)・磯城皇子(シキ)など、多数の子供がいました。
これらの中から、また天智天皇の息子や娘と結婚した人がいたので、天智・天武間の血の濃さはかなりのものです。
  
 大海人皇子は、兄天智天皇から皇位を譲ってもらえるチャンスもあったのですが、協力することを嫌って吉野に出家隠遁しました。
 そして近江朝廷にすぐに反旗を魔オ、武力で持って1ヶ月ほどで近江朝を唐オました。
しかしこの有名な壬申の乱(672年)で、天武天皇は全く戦闘場面に出てくることはなく、後方で座っていただけですのに、そんな大将を実際に戦った豪族が天皇として担ぐ不思議さが、私にはちょっと納得しにくいです。
 私が納得しようがしまいが、奈良の岡本宮→飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)で即位し第40代天武天皇(テンム)(~686)(在位673~686)となりました。
     
 ここから9代にわたり、いわゆる天武天皇の血が続き、藤原京→平城京と律令政治が始まり、東大寺大仏などの天平文化が花開くことになります。

    返事
花水木さん:60過ぎたら思い込みで、
    自然に文字を間違って読んでしまうのですかね。
    若い時は意図的でしたね、
    全国共通オコメ券をオ○▽券と読むと教えられ、
    全国共通のこの券ほしいと思ってました。
大雪男さん:春は広島と西武が圧涛Iに強かったですが、
    秋はやっぱりソフトバンク。
    でもそれになんとか抵抗できるセのチームは広島だけ。
    面白いシリーズになりそうですね。

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1 コメント

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Unknown (大雪男)
2018-10-26 08:40:13
勝って欲しいですが敗けて又チャレンジも楽しみです。大将が前線にでちゃアカンでしょう。
首取られたら敗けですもん。
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