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第96代後醍醐天皇(1288~1339)には沢山の妃(8人~20人)がいますが、皇太子時代の最初の妃中宮藤原嬉子(キシ)(?~1333)は溺愛されていました。(まあ、後醍醐は誰でも愛してしまう人のようですが)
この嬉子に中宮内侍として務めたのが19歳の阿野廉子(アノレンシ・カドコ)(1301~1359)です。
写真は、河内長野市にある観心寺、息子第97代後村上天皇陵も有ります
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廉子はしばらくして後醍醐天皇に召されて、3男2女をもうけました。
日本史上最後の伊勢斎宮だった祥子内親王(ショウシ)(1322?~1352)・第5皇子で建武新政で皇太子にもなった恒良親王(ツネヨシ)(1325~?)・第6皇子で一時征夷大将軍にもなった成良親王(ナリヨシ・ナリナガ)(1326~1344?)・惟子内親王(イシ)(1336?~1389?)と、なんといっても第7皇子義良親王(ノリヨシ・ノリナガ)(1328~1368)は第97代後村上天皇になっています。
廉子の墓ははっきりしないので、この観心寺内に有る息子後村上陵参道近く、楠木正成首塚の横に、コウボ坂陵墓参考地(大阪府河内長野市寺元)として治定されてます
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元弘の乱で夫後醍醐が隠岐島に流された時も廉子は同行し、1333年隠岐島から戻った後醍醐が建武新政を開始すると、直後に亡くなった正妃嬉子に替わって、廉子の地位は上がりました。
コウボ坂は皇母坂と書くそうですが、ほんまですかね
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建武新政が失敗し、吉野に逃れた後醍醐にも同行し、後醍醐亡き後は息子が第97代後村上天皇として即位したので、廉子はこれを助ける政務能力にもたけた女性だったようです。
一旦観心寺を出て駐車場に戻りましたが、写真の近くの駐在所の赤信号の左手に、滅茶苦茶分かり難い参道への細い入り口があり、木の段々が付いているのを拠りどころにして登って行くと、なんとか見つけましたよ
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しかしながら、南朝を正義とする論では、後醍醐天皇の人柄や政治能力を直接批判はしにくいので、廉子はそのやり玉に上がったようです。
正妃嬉子から後醍醐の愛を無理矢理奪い、他の親王ではなく我が息子を後継ぎにする為に護良親王などを葬り去ったなど、傾城傾国の悪女として描かれることが多く、最近再放送されてたNHK大河真田広之の「太平記」でも廉子(原田美枝子)は、後醍醐(片岡孝夫)に色仕鰍ッでせまる場面があったような気がします。
なんとか見つけたもう一つの廉子の檜尾塚(ヒノオヅカ)陵墓参考地(河内長野市寺元)です
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廉子は河内に移った南朝軍の本体と共に女院(新待賢門院)となって、息子後村上を助け、観心寺で亡くなったようですが、はっきりした墓は分かっていません。
それでも宮内庁は三つもの陵墓参考地を、廉子の為に治定しています。
三つ目の川上陵墓参考地(奈良県吉野郡川上村高尾)ですが、ここには行けませんでした
返事
Toitenlabeeさん:ほんまにあ~あ・・・・ですね。
原本ではなく、ブロマイドですよ。
和さん:彼女のブログは読んでましたよ。
残念ですよね!
真田広之は好きでした。でも、大河は見ないなあ…。しかも、真田広之は日本より、最近は、アメリカで活躍してますよね?
て、、、
関係ないけど。笑