『塔(継承と改革の匠の精神) 2(金閣寺に110mの七重塔が!』
『従来、アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めるため!』
塔は、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。 日本語の「塔」は、もともと 仏教 の構造物である仏塔を意味していたが、現代では様々な比較的高い構造物(塔状構造物)に対しても使用されており、厳密な定義が存在するわけではない。
梅原猛氏の『塔』を読んで以来『塔』は、
エジプトのピラミッドは、太陽に近づこうと、
西欧のゴシック建築は、神に近づこうと、
アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めようと、
『ところ変われば、・・・』と思っていました。
北山大塔の原形ともされる相国寺七重塔の復元図
ウェブ情報から引用
七重塔は、仏塔の形式の一つ。 層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、七重の屋根を持つものを指す。 日本では、近世までに建造された大型木造七重塔で現存するものは無いと言われています。
ウェブ情報にありました。 先ずは『木造城郭寿命は数百年!』の余談です。 『今、名古屋市長のリーダーシップの下、「木造・名古屋城再建」の話が具体化している。 400億円の予算が500億円を超えても「ヤル!」と、名古屋城は米軍空襲(1945年⇔築城1610年)で全焼するまで存在したのだから、復元資料もタップリ有る。 観光の目玉が乏しい名古屋にとって、そのシンボルになるのだろう。
焦っているのは大阪だ。 太閤様のお城は今の鉄筋コンクリートの大阪城の「3倍は巨大だった」と言われても、その「太閤様の大阪城」の資料は殆ど無く、木造再建は甚だ困難だ。 その内に「木造・名古屋城再建」が果たされ、観光客も押し寄せるとなると、すぐ西には「国宝・姫路城」があるだけに、「鉄筋コンクリートの、貧相な大阪城」なんか、誰も行かなくなる。 さぁどうする大阪?』
表題に戻ります。 『金閣寺に高さ約110mの七重塔があった!』には驚きました。 日本の名だたるリーダーは凄かったです。 東大寺正倉院に収蔵されている天下の香木=蘭奢待(らんじゃたい)の一部を切り取ったのは、織田信長・明治天皇の他には、足利義満だけで、『権力の絶頂に居た証』でもある。 金閣寺(北山殿)周辺に、日本史上最も高い110mの七重の塔が有っても不思議ではない。 歴史ロマンには胸が躍ります。
産経WESTから、記事です。 塔信奉者にはたまらないニュースでしたので今後の調査継続のために備忘録に残しました。
- 「金閣寺に高さ約110mの七重塔があった!!」 破片発見 史上最も高い木造建築物
- 「室町幕府3代将軍、足利義満が晩年を過ごした『北山殿』跡(後の金閣寺=京都市北区)から塔の先端部『相輪(そうりん)』の一部とされる青銅製の破片が出土し、京都市考古資料館が発表した」
- 「約110mの木造の塔とされる『北山大塔』の一部の可能性が高いという。 これまで北山大塔の存在は一部の文献に記されているだけで、実際に遺物が見つかったのは今回が初めて。同資料館は『北山大塔の存在を裏付けた価値は高い』としている」
- 「現存する最も高い木造建築物は、東寺の五重塔(55m)だが、北山大塔は相国寺七重塔と並んで日本史上最も高い木造建築物とされている」
相国寺七重塔
足利義満によって1399年に建てられた七重大塔は、1403年に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1ⅿ(360尺)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。 1914年の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。 七重大塔は北山山荘(現・鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が、義満の没後の1416年に再び落雷で焼失した。 その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建されたのが3代目の塔であるが、1470年にまたもや落雷で焼失している。
- 「寺院施設の改築に伴って昨年5月から昨年7月にかけて境内の北東角、約450平方㍍で行われた調査で見つかった。 15世紀初頭の溝跡から最大幅37cm、最大高25㎝など数点の青銅製の破片が出土したという。 形から塔の先端の相輪の一部『宝輪』と判明。復元すると直径約4mになる。成分分析では、表面には金メッキが施されていたことも確認された」
- 「出土した年代や大きさなどから、義満が、禅宗寺院・相国寺に築いた高さ110mの七重塔が落雷で焼失した翌年の1404年、自分の別荘の北山殿に再び建てようとした同規模の北山大塔の可能性が高いという」
- 「当時の貴族の日記によると北山大塔は同年4月に起工式を行い、応永?年に落雷で焼失したとされるが、一部の専門家は未完成だったと指摘。 塔の存在も疑われてきたが、同資料館は『詳細な場所や塔の規模、構造の特定は難しいが、きらびやかで壮大な塔の存在は裏付けられた』と話している」
- 「今谷明・帝京大教授(日本中世史)の話 『絶対的権力を手に入れた専制君主にふさわしい。 政治だけでなく、仏教の儀式を行った北山殿を仏教の一大聖地にしようとした義満の意図が読み取れる興味ある発見だ』」・・・
■比類なき財力で建設
義満は、北山大塔は相国寺七重塔が落雷で焼失した翌年の1404年から建設を始まったと記録があり、「その財力は相当なもの。 日明貿易の成功が大きかった」と指摘される。 義満は南北朝の戦いで疲弊した朝廷の合一に尽力。 その権力は上皇、天皇を突き抜け、過去に例のない位置までのぼりつめた状況だったという。
■新都心のシンボル
調査では、塔が立っていた場所などは分からなかったが、出土を発表した京都市考古資料館の前田義明館長は「塔は、そんなに遠くない場所にあったことは間違いない」と。
足利幕府と寺院の関係について研究を行っている池坊総務所池坊中央研究所の細川武稔さんは、義満は北山殿周辺に新都心を建設しようとしていたと指摘。街の中心を通る南北道の先に塔があったと想定し「真っすぐに延びた道の先に建つ姿は壮麗だったに違いない」と思いをはせた。
■祭祀王としてアピール
足利義満はなぜ、これほどまでにタワー建設にこだわったのだろうか。 「父、義詮の菩提を弔うのが第一としつつ、金色に輝く金閣と合わせてシンボルにしたかったのでは」言われる。
また、義満は北山殿で政務を行うと同時に朝廷顔負けの宗教儀式を重ねていたという記録も残る。 今谷明・帝京大教授(日本中世史)は「国内外に朝廷以上の国王として、また祭祀王としての自分を強烈にアピールしたかったのだろう」と話していた。
『塔』への興味はまだまだ続きます。
(記事投稿日:2021/11/28、#434)
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