知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『縄文文化から邪馬台国卑弥呼・出雲王国・大和朝廷の天皇制へ 1』 『史学者と医学者と文学者の著書から縄文・弥生・古墳・飛鳥時代を調べる』

2023-02-15 17:17:22 | 歴史・日本

『縄文から邪馬台国卑弥呼・出雲王国・大和朝廷の天皇制   1』

『史学者と、医学者と、文学者の、著書から縄文・弥生・古 墳・飛鳥時代を 調べる』

『天照大御神=卑弥呼=崇神天皇説が、立証されることに期待』

 

先日、62年ぶりに松江・出雲を旅行しました。 たった二日間でしたが、『テレビで見る・本を読むと比べると、現地散策はかなり違う』を実感しました。 古代の日本を懐かしむあまりに、昨今の状況に少し愚痴を言わせていただきます。

 

なぜ今、縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良時代を調べて、コロナ禍の生き様を見直したくなるでしょうか。 地質年代では、新生代第四紀の、宇宙船地球号は『奇跡の星』、『水の惑星』と呼ばれてきましたが、今は人類が、地球に負荷をかけすぎ、地球は悲鳴をあげさせている『人新世』の時代に入っています。 

 

およそ一万余年続いた縄文時代からごく最近までは、人類は自然環境と共存をしてきましたが、現代の自然環境に及ぼす人類の影響は、具体的には、地球温暖化や海洋酸性化などの環境劣化、大量絶滅や生物多様性の喪失、生態系の危機や生態系崩壊などがあります。

 

20年も前のことですが、ドイツの大気化学者P=クルッシェンが地質時代の区分の一として提唱した時代区分に、『人新世時代』があります。 それ程、最近の地球は人類によって、時代区分を変えなければならないほど生態系を破壊しつつあります。

 

標題『史学者と医学者と文学者の著書から縄文・弥生・古墳・飛鳥時代を調べる』に戻ります・

 

國學院大學名誉教授 小林達雄著『縄文文化が日本人の未来を拓く』

千葉大学名誉教授 三浦佑之著『出雲神話論』

新潟大学脳研究所・統合脳機能センター長 中田力著『日本古代史を科学する』

作家 副島隆彦著『歴史再発掘』

 

日本古代史の『邪馬台国』と『出雲王朝』はまだまだ発掘の夢があるのではないでしょうか。 卑弥呼でおなじみ『邪馬台国』はどこにあった?古代史ミステリーは、なんでも自分の脳の中で、勝手に、自由に想像できる素人にとっても永遠のテーマです。 明治時代に、東京と京都の帝大で勃発した『距離か、それとも方角か・・・』の邪馬台国論争がいまだに決着つかずに続いています。

 

決着つきそうな発見が、畿内説と北九州説の両方にありました。

 

❶「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。

 

❷「北九州説」が根強いのは北部九州には、吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡などの環濠集落の遺跡があり、神武の東征神話、さらに漢から贈られた金印が出土していることから、九州説を唱える学者も多い。

 

「畿内説」❶に、ずーっと、自分も傾いていましたが、最近、副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』のタイトルに魅かれ読み始めました。 特に圧巻は『邪馬台国はどこにあったのか、最近の話題』でした。 最近では、下記理由で「北九州説」に傾いています。

 

  • 西暦57年の邪馬台国・『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印は、福岡県福岡市東区志賀島で発見(1784年)された。

 

  • 西暦57年の『魏志倭人伝の道程』の中に、『南至邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸』と記録がある。

 

  • 邪馬台国の卑弥呼の後継者・臺與(「とよ」あるいは「いよ」、生没年不詳)は、日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性である。

 

  • この邪馬台国が、熊襲(九州南部)に攻められ、西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。 当時、小国分立の中で畿内の邪馬台国が九州南部の熊襲に攻められたとは考えられない

 

  • 上記の二件のエポックからも、200余年続いた王朝が、途中で、福岡から奈良に遷都したとは考えられない。 こんな『遠距離遷都』は、遷都頻繁の奈良・平安時代にない。

 

  • 後述の弥生時代の鉄器の出土数No.1は熊本(2018年現在)、鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、やはり『九州北部の邪馬台国』が南部の熊襲に攻められた客観的事実が重い。

 

ここから先は、今後の調査のための備忘録です 

昔の話ですが、1964/07/06~1971/04/12に7年余も、週刊文春に連載された松本清張氏の『昭和史発掘』が、装丁版・8巻で刊行されたとき、香港駐在中で、新聞の半ページ記事(パブリシティ)で知りました。 『昭和史発掘』の発掘に強い印象を受けた記憶がありました。

 

この記事の中に、まだ歴史にはなってない昭和史を書くので『昭和史発掘』としたのではということも言われていたと同時に『歴史』と『歴史小説』との違い等にも触れていたような記憶があります。 最近のテレビのドキュメンタリー番組もドラマも、自信満々で、これが史実、と言っているような面が多々あり、勉強になります。

 

副島隆彦氏はこの本の『歴史再発掘』の『まえがき』でこう言っています。 

歴史は再発掘されるべきである。 今も隠されたままなっている、大きな真実が土中に埋められている。 それらを敢えて掘り出して、白日の下にさらけ出すことを、私は常に決意してきた。 故松本清張氏の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」週刊文春に連載。 1964-1971年がある。 この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名となった。

 

副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』の抜粋引用です

邪馬台国論争の最前線、

(1)「畿内説」(内藤湖南派)京都大学の学者たちが唱えた。 邪馬台国は奈良県の南にあった。 やや奇抜だが、「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 この古墳は日本最古の前方後円墳でもある。 箸墓古墳はヤマト王権最初の王墓と考えられている。 宮内庁は孝霊天皇の皇女の墓として管理。

 

 

(2)「九州説」(白鳥倉吉派)主に東京大学の学者たちが主張した。 大陸や朝鮮半島に 近い北九州の当たりにあった。有力であるが、問題は、邪馬台国は3世紀であることははっきりしている。 これが6世紀の畿内の大和朝廷とどのようにつながるか

弥生時代の鉄器の出土数No.1は熊本である。(2018年現在)鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、邪馬台国に対抗していた「狗奴国」の有力候補地である。

ウエブ情報から抜粋・引用

 

ここで、陵墓の定義をウエブ情報(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)からです。 陵墓の学術調査が、まだまだ、難しいようです

 

『天皇や皇喉皇太后を葬った「陵(みささぎ)」と、それ以外の皇族の「墓」などからなり、合計850。 他に被葬者を特定できないが陵墓の可能性がある「参考地」が46ある。皇室用財産として宮内庁が管理する。 明治憲法公布直後の1889年に古墳時代天皇陵がすべて定まり、その後の変更はない。』

 

『歴史再発掘』の抜粋引用です。

西暦57年邪馬台国・『倭奴国』『漢倭奴国王』の金印(見つかっている)『建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う。筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見された。

ウキペデイア情報から引用

西暦239年、邪馬台国・『倭国』「親魏倭王」の金印(見つかっていない)邪馬台国は中国の文献に出てくるコトバだ。 邪馬台国は、中国古代の「魏」という帝国の時に、邪馬台国の女王・卑弥呼が、貢物を「魏王」に、貢物を献上している。 それは西暦239年 このことが魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」の中の第三十の「東夷伝倭伝」にある。

 

その中に、「倭の女王の卑弥呼から、朝貢使が来た」と書いてある。 それに対して、魏の皇帝が、「親魏倭王」という称号を「倭の女王」に与え、承認した。だから邪馬台国は倭国である。 この時国王としての称号と、金の印鑑「親魏倭王」の金印をもらっているが、この金印は見つかっていない。 西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。

 

狗奴国が攻めてくるというのは、おそらく「熊襲」と呼ばれていた、今の熊本や鹿児島に住んでいた人たちだと私は思う。 魏は助けには来なかったが、錦の御旗を送ってきた。 このあと「倭国は大きく乱れた」と「魏志倭人伝」に書いてある

 

この「魏志倭人伝」の情報から、邪馬台国が九州南部であった可能性が高くなります。 熊襲のウエブ情報です。

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト政権に、抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。 古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

 

『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『私、副島隆彦は、どう考えてもこの邪馬台国(倭国)は、北九州の当たりだと考える。 今の福岡市そのものだ。 邪馬台国(倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗)までは存在しただろう。 

 

朝鮮半島の南の沿岸部一帯にも倭人は住んでいた。 だからこの辺りも倭国だ。 北九州一帯と同じ言葉を喋って同じ文化だったろう。 漁労民(海洋性の民族)だったろう。 だから、倭国というのは、今の釜山を含む南のほうと北九州一帯と、今の山口県のあたりまで含んでいた。

 

百済という朝鮮半島で一番大きな国があって、倭国は百済の弟分のような国だった。 両国民は言葉が自然に通じたようだ、 2600年を遡ると、日本語と朝鮮語は同一だったようだ。

 

大和とヤマト

前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だと言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。

 

中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。

 

日本文明というのはない。 それはフランス文明やイギリス文明がないのと同じことだ。

 

北九州あたりにあった邪馬台国(倭国)がいつ滅んで消えてなくなり、いつの間にか奈良盆地が、日本の中心で大和朝廷・ヤマトになったのか。 西暦300年代、400年代か、500年代には『山門・ヤマト(奈良盆地)』が中心だ。

 

西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。

西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(余談;倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか?夢のある課題が残った。)は滅んだ。 

 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、コロナ禍終息後の奈良明日香・飛鳥路の旅が楽しみになりました。

(記事投稿日:2023/02/15、 #626)


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