知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『中国の戦国時代、長平の戦い(紙上の談兵・机上の空論の由来)』 ―二代目がダメという問題より、諜報戦に敗れたことに驚き―

2021-08-08 16:48:03 | 歴史・世界

『中国の戦国時代、長平の戦い(紙上の談兵・机上の空論の由来)』

二代目がダメという問題より、諜報戦に敗れたことに驚き」

『白髪三千丈』のお国柄、中国には『黄塵万丈』もありますが、こちらは誇張でもないように聞こえるこの頃です。 『長平の戦い(長平之戰)』は、秦の『始皇帝』が生まれる前のお話です。

『紙上談兵(紙上に兵を談ず)→机上の空論』は、実戦で強かった親に対して、実戦の経験に乏しく、理論だけの息子が、登場したこの『長平の戦い』に、由来しています。 これはダメな息子という簡単な問題ではなく、真相は『諜報戦』の差にあったようです。

この物語の、主人公・趙括は、中国戦国時代の趙の名将『趙奢』の子にして、趙の将軍。 唯一指揮を執った長平の戦いにおいて、秦の白起に対し大敗を喫した。 幼い頃から才人として知られていた趙括だったが、実戦において、次の2点の戦下手が露呈する。

  • 「兵法を丸暗記するだけで、自信満々に机上の空論を展開する」
  • 「応用力の無い生兵法で自軍を破滅に導く」

そのため「紙上に兵を談ず(丸暗記するだけで、その応用を知らない)」といった故事成語が生まれた。

幼い頃から兵法書を暗記する事に定評のある神童だった趙括は、兵法論を語らせれば父・趙奢をも言い負かす程だったが、趙奢将軍の妻に残した息子への評価は、戦とは命がけの場なのに、息子はこれを軽々しく語る。 趙が息子を将軍と用いなければ良いが、もし任用されることがあれば、息子は必ず超軍を破滅させるだろう。 と散々なものだった。妻への遺言でも「決して将にしてはならない」と言い残した程である。

この戦いは、中国戦国時代の紀元前260年に秦と趙が長平(現在の山西省高平市の付近)で激突した戦い。 秦の勝利に終わり、戦後に秦の白起将軍により趙兵の捕虜20万が生き埋めにされ、趙の国力が一気に衰える原因となった。 しかしこの人数(動員兵数・戦死者数・捕虜数)は誇張されているとも言われています。

普通、遠征する戦いに動員できる兵数は人口の1-2%で、当時の秦国・趙国合わせた人口が、推定500~600万人ですので、遠征できる動員兵数は、せいぜい数万人です。 いかに誇張されたかは、よくわかります。 他国から攻められて籠城し『城』を守る場合は例外です。 中国の『城』は、城壁に囲まれた都市、または都会、町を意味します。

今回の長平の戦いも両国の間の『韓』の領地内での衝突・野戦ですので、双方で100万近い兵士の参戦も、有り得ないことです。 

記録には、

戦争:秦と趙が長平で激突した戦い

時代:紀元前260年

場所:長平

結果:秦の決定的勝利

交戦勢力

秦:約50万-約65万     趙:約45万

損害

秦:約20万       趙:戦死約25万

         捕虜約20万

        (少年兵240程を除いて全員が生き埋めにされた)

 

長平の戦いの原典は、

  1. 『呂氏春秋』
  2. 『史記』「白起王翦列伝」・「范雎蔡沢列伝」・「平原君虞卿列伝」
  3. 『戦国策』秦策 巻二十 秦趙戦於長平
  4. 『資治通鑑』巻005

と、これほどありますので、傘寿の爺にはタフな仕事になりそうです。

 

長平の戦いの背景

当時、秦は商鞅の改革によって強盛を誇るようになり、戦国七雄の中でも圧倒的な強国となっていた。 その力を背景に他の六国、特に国境を接する韓・魏・趙・楚へ何度も侵攻していた。

 

対峙

長平に到着した秦軍と趙軍の間で三度、小競り合いが発生したが趙軍は全て敗れた。 廉頗は数で劣るものの精強を誇る秦軍との直接対決を避け、守りを固めて篭城を徹底し秦軍の疲労を待った。 二年の歳月が過ぎた頃には廉頗の目論見通り、秦軍には持久戦の疲れと焦りが出始めた。

 

趙軍の大敗北

着任した趙括は趙軍が大軍であることを頼みに数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと考え、廉頗の戦法を支持する指揮官を全員更迭し秦軍に対して攻勢に転じた。白起は囮の部隊で退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、主力部隊で迎え撃つ間に予め伏せておいた2万5千の兵で趙軍の退路を遮断、更に5千の騎兵で分断するという作戦をとった。

 

趙括率いる主力が秦軍を深追いしたために指揮系統が寸断され大混乱に陥った趙軍は、秦軍の猛攻により甚大な被害を受け長平城まで退却したが、白起はこれを包囲した。 この報を受けた昭襄王は国内の壮丁男子を総動員して白起に援軍を送り、自らも前線まで赴いて将兵を励ました。 完全に包囲された趙軍は46日間も兵糧が届かず、飢えた兵士たちは互いに殺し合ってその肉を食らい、飢えを凌ぐ有様であった。焦った趙括は僅かに残った健常な手勢を率いて秦軍へ突撃を敢行したが、全身に矢を射られあえなく戦死する。 趙括の死によって残る趙兵20万は降伏した。

 

大勝利した秦軍だったが国内の総力をほぼ費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧もなく、秦に連行するだけの余裕もなかった。また白起はこのまま戦果を拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っていた。 このような状況で、死線を彷徨い生き延びた趙兵達をこのまま趙に帰せば、秦に恨みを抱いた彼等が将来の禍根となるのではないかと白起は恐れ、少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにし、処刑した 。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万に上るという。 実際に、1995年5月の発掘調査では大量の人骨が出土しているが、永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘済第一坑の屍体数は130人程度、ほかに18坑を発見、調査が続けられ、2002年と2020年にも多量の人骨の埋葬穴が発見された。これらの人骨には、武器によると思われる損傷も多々見られたため、生き埋めで死んだものではないとみられるが、捕虜の虐殺によるものか、普通の戦死者の集団墓地なのかははっきりしない。

 

経過から見ても、この戦いは数十万の衝突ではなく、数万の衝突であったようです。

   (記事投稿日:2021/08/08、#368)


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