『近代の日本は・日本人は凄かった 2(会津藩主・保科正之)』
『市民生活復興最優先で、江戸大火後の天守閣の再建築をやめさせた英傑』
昔、茨城県に住んでいた頃、燐家のご主人が同姓でした。 その方のご様子・お人柄から、今でも保科家のご子孫だと信じています。
保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。 会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。 江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。 3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。 将軍の「ご落胤」。
ウエブ情報から引用
復元に関連し、面白いエピソード;
1657年、江戸城の寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現存の御影石の天守台は建設されたが、保科正行の言「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりだが、城の守りには必要ない」ことと「江戸の町の復興が優先」の方針で中止された。 現在の日本の政治、「予算はあるのだから使わねばと、即ハコモノだ」には、保科正行のような人物待望ですか。
保科正の年表
年表西暦(年齢)
1611年(1歳)に代将軍・徳川秀忠の書士として江戸で生まれる。 (幼名、幸松)
1617年(7歳)高遠藩主・保科正光の養子となる。
1629年(19歳)正室・お江の方の死により、父・徳川秀忠と面会する。
1631年(21歳)養父・保科正光の死去により、高遠藩主となる。
1636年(26歳)山形藩20万石の藩主となる。
1643年(33歳)会津藩23万石の藩主となる。
1651年(41歳)兄である三代将軍・家光が死去。 遺言により四代将軍・家綱の後見人となる。
1657年(47歳)明暦の大火が起こる。 見事な政治力を発揮して江戸の再建に努める。
1669年(59歳)子の正経に家督を譲り隠居する。
1670年(60歳)会津に御薬園を造り、薬草栽培を行う。
1673年(63歳)江戸の三田藩邸で死去する。
江戸時代の基礎を作った人物
保科正之は二代将軍・徳川秀忠の子として生まれますが、正室・お江の方の嫉妬を恐れ、隠されて育てられました。 秀忠は生涯、正之を自分の子と認めることはありませんでした。
しかし、三代将軍・家光は自分の実弟であることを認め、正之の清廉潔白な性格を非常に気に入り、幕政において重用しました。 自分が亡くなるときも、枕元に正之を呼び宗家を頼み置くと遺言を残しています。 四代将軍・家綱の後見人となった正之は政治に才覚を表します。 戦国の世から抜けきれず、武断派が多かった中で、正之は文武派の政治を行います。
戦などにお金をかける政策ではなく、民のための政策を行ったのです。 この「平和のための政治」は260年以上続く江戸時代の礎となりました。 保科正之がいたからこそ、江戸時代は長く続いたと言っても過言ではないのです。
保科正之にまつわるエピソードや伝説
それでは保科正之にまつわるエピソードや伝説をごいくつか紹介します。 日本初の年金制度を作った! 保科正之の偉業のひとつですが、残念なことにあまり知られていません。 会津藩23万石の藩主となった正之は、藩の改革に乗り出します。
豊作の時期に米を買い上げ、「社倉」を設けます。 これは天候不良などによる不作の時や飢饉に備えての備蓄でした。 「社倉」のおかげで、会津では飢饉になっても餓死者が一切出なかったと言います。 さらに親孝行な子供を表彰し、褒美を与えました。 また、90歳以上の老人には、食べるのに困らないだけの米を支給しました。 これが日本初の年金制度です。
働いてきちんと税金を納めれば年金がもらえる、 正之は本当に素晴らしく賢いお殿様であったと言えます。 保科正之とは?
① 将軍の子として生まれ、会津藩の礎を築いた藩祖となる
② 日本初の年金制度を作った人物
③ 謙虚な姿勢が兄・家光を認めさせた
④ 民のための政治を行った
すごい人物だということが分かります。 現在の政治・行政に関わる皆様も頑張って頂きたいと期待しております。
(記事投稿日:2021/11/27, #433)
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