昨年末の12月22日、文部科学省は13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改定案を発表した。
そのうち外国語に関しては、現行の英語Ⅰ、Ⅱ、リーディングの3科目を、コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲに再編するという。これは「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能の総合的な育成が目的であるらしい。
そして、今回の改定案の極めつけは「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記した点である。長年の“使えない”英語教育に対する批判を踏まえて、「使える英語」の習得を目指すということである。
文部科学省の気持ちは少し分からなくもないが、高校の英語の授業をすべて英語で行おうとは、いくら何でも無茶苦茶な極論ではなかろうか。
と思って呆れていた矢先、案の定、反論意見が相次いでいるようだ。
まずは、12月23日の朝日新聞社説から以下に要約して紹介しよう。
たしかに日本人の英語下手はよく知られるところだ。中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない。
ますます国境の垣根が低くなる世界で英語は必須の伝達手段であるから、英語教育を変えて会話力を育てるために、授業自体を英語での意思疎通の場と位置づけたいとする文部科学省の発想はよい。
ただ現実の授業を考慮した場合、例えば文法を英語でわかりやすく説明したり、生徒の質問に英語で答えることは簡単ではないであろう。生徒も理解できるかどうか。現場の教師や生徒の能力に左右されるところが大きく、無理やり形だけ整えても効果は乏しいであろう。
もう一つの懸念は、大学入試に備えるべき進学校においては利点がそれほど大きくない点だ。
学校現場の混乱も視野に入れ、今後の英語教育への道筋と環境作りを大枠で整えることが先決問題であり、それが文部科学省の仕事である。
以上が、朝日新聞社説の要約である。
次に、12月28日(日)朝日新聞「声」欄の投書から2本の反論意見を要約して紹介しよう。
1本目は現役高校英語教員からの「また現場無視 課題は山ほど」と題する意見から。
英語教員の出身も教育学部、文学部、外国語学部など多様で、英会話が得意な教員ばかりとは限らない。文部科学省はこうした現実をどう考えているのか。
(例えば)海外の文学作品を通して異文化に触れさせることも英語教育の重要な柱である。「使える英語」への転換により、これらは無用となるのであろうか。
この教育現場無視の改定案が実施されるまでには、教員の研修、クラスの規模など検討すべき課題は山ほどありそうだ。
続いて、大学生からの「目指す道様々 一律に必要か」と題する意見を要約しよう。
日本の教育政策は、統一を求める傾向が強い。「平等な教育」なのかもしれないが、多様な価値観を持つ生徒が、国の定めた画一的なカリキュラムの下で学習に意味を見出せるだろうか。
多様な職業が存在し、求められる能力もそれぞれだ。これから学ぶ生徒全員が英会話ができなければまずい、ということはない。
「使える英語」より、自分の目指す職業とつながる科目を多く勉強したいと思っている生徒もいるだろう。高校は義務教育ではないのだから、個々の事情や就きたい職業との関連で学習できるカリキュラムにしてもよいのではないだろうか。
以上が朝日新聞「声」欄の投書の要約である。
皆さんのおっしゃる通りである。私論も上記3つの反論意見に一致する。
私の今までの人生においても、英語は「聞く」「話す」よりも、「読む」「書く」ことの方がよほど比重が大きかった。 大学、大学院においては論文を書くにあたり、英語の参考文献に大いにお世話になった。 医学関係の仕事では英文の論文を何本も読んだ。 その他の職業においても英文に触れる機会は多かった。 そして、日常生活でも英文の各種説明書や効能書き等を読む機会は少なくないし、街に出ても英文に出くわす機会は多い。
これらの英文に接する時、中高で学んだ英語が大いに役立っていることに今尚気付かされる。中高レベルの英単語力と文法力が確実に身についていれば、一生に渡り大抵の英語は読みこなせるし、ある程度の英文も綴れるものである。中高時に真面目に英語の読み書き学習に励んだことが正解であったことを再認識する日々である。
たまに旅行等で海外に出かけると、確かに自分の英語の発音の悪さや、ネイティブ英語の聞き取り力のなさに愕然とさせられる。 だが、意外や意外、文法力や英単語力等の英語知識がすべての基本であって、相手と話したいという気さえあれば、それで英会話もカバーできるものだということを今までに幾度も経験してきている。
学校現場の現実を直視して英語教員の負担等にも配慮すると、現行の英語教育で十分なのではないかと私は考えるのだが…。
その上で、高校での英語教育の選択肢を増やし、生徒の希望によりそれぞれが目的に応じて「使える英語」を学習できるシステム作りに取り組んではどうか。
とにかく、文部科学省は突如として無茶苦茶な極論を提示するのではなく、学校現場で実現可能性のある改革案を検討するべきであろう。
そのうち外国語に関しては、現行の英語Ⅰ、Ⅱ、リーディングの3科目を、コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲに再編するという。これは「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能の総合的な育成が目的であるらしい。
そして、今回の改定案の極めつけは「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記した点である。長年の“使えない”英語教育に対する批判を踏まえて、「使える英語」の習得を目指すということである。
文部科学省の気持ちは少し分からなくもないが、高校の英語の授業をすべて英語で行おうとは、いくら何でも無茶苦茶な極論ではなかろうか。
と思って呆れていた矢先、案の定、反論意見が相次いでいるようだ。
まずは、12月23日の朝日新聞社説から以下に要約して紹介しよう。
たしかに日本人の英語下手はよく知られるところだ。中学、高校と6年間学んでも、読み書きはともかく、とんと話せるようにならない。
ますます国境の垣根が低くなる世界で英語は必須の伝達手段であるから、英語教育を変えて会話力を育てるために、授業自体を英語での意思疎通の場と位置づけたいとする文部科学省の発想はよい。
ただ現実の授業を考慮した場合、例えば文法を英語でわかりやすく説明したり、生徒の質問に英語で答えることは簡単ではないであろう。生徒も理解できるかどうか。現場の教師や生徒の能力に左右されるところが大きく、無理やり形だけ整えても効果は乏しいであろう。
もう一つの懸念は、大学入試に備えるべき進学校においては利点がそれほど大きくない点だ。
学校現場の混乱も視野に入れ、今後の英語教育への道筋と環境作りを大枠で整えることが先決問題であり、それが文部科学省の仕事である。
以上が、朝日新聞社説の要約である。
次に、12月28日(日)朝日新聞「声」欄の投書から2本の反論意見を要約して紹介しよう。
1本目は現役高校英語教員からの「また現場無視 課題は山ほど」と題する意見から。
英語教員の出身も教育学部、文学部、外国語学部など多様で、英会話が得意な教員ばかりとは限らない。文部科学省はこうした現実をどう考えているのか。
(例えば)海外の文学作品を通して異文化に触れさせることも英語教育の重要な柱である。「使える英語」への転換により、これらは無用となるのであろうか。
この教育現場無視の改定案が実施されるまでには、教員の研修、クラスの規模など検討すべき課題は山ほどありそうだ。
続いて、大学生からの「目指す道様々 一律に必要か」と題する意見を要約しよう。
日本の教育政策は、統一を求める傾向が強い。「平等な教育」なのかもしれないが、多様な価値観を持つ生徒が、国の定めた画一的なカリキュラムの下で学習に意味を見出せるだろうか。
多様な職業が存在し、求められる能力もそれぞれだ。これから学ぶ生徒全員が英会話ができなければまずい、ということはない。
「使える英語」より、自分の目指す職業とつながる科目を多く勉強したいと思っている生徒もいるだろう。高校は義務教育ではないのだから、個々の事情や就きたい職業との関連で学習できるカリキュラムにしてもよいのではないだろうか。
以上が朝日新聞「声」欄の投書の要約である。
皆さんのおっしゃる通りである。私論も上記3つの反論意見に一致する。
私の今までの人生においても、英語は「聞く」「話す」よりも、「読む」「書く」ことの方がよほど比重が大きかった。 大学、大学院においては論文を書くにあたり、英語の参考文献に大いにお世話になった。 医学関係の仕事では英文の論文を何本も読んだ。 その他の職業においても英文に触れる機会は多かった。 そして、日常生活でも英文の各種説明書や効能書き等を読む機会は少なくないし、街に出ても英文に出くわす機会は多い。
これらの英文に接する時、中高で学んだ英語が大いに役立っていることに今尚気付かされる。中高レベルの英単語力と文法力が確実に身についていれば、一生に渡り大抵の英語は読みこなせるし、ある程度の英文も綴れるものである。中高時に真面目に英語の読み書き学習に励んだことが正解であったことを再認識する日々である。
たまに旅行等で海外に出かけると、確かに自分の英語の発音の悪さや、ネイティブ英語の聞き取り力のなさに愕然とさせられる。 だが、意外や意外、文法力や英単語力等の英語知識がすべての基本であって、相手と話したいという気さえあれば、それで英会話もカバーできるものだということを今までに幾度も経験してきている。
学校現場の現実を直視して英語教員の負担等にも配慮すると、現行の英語教育で十分なのではないかと私は考えるのだが…。
その上で、高校での英語教育の選択肢を増やし、生徒の希望によりそれぞれが目的に応じて「使える英語」を学習できるシステム作りに取り組んではどうか。
とにかく、文部科学省は突如として無茶苦茶な極論を提示するのではなく、学校現場で実現可能性のある改革案を検討するべきであろう。