明日から我が子の学校の3学期が始まるため、また早起き生活に戻らねばならない。
この厳寒の時期のまだ日が昇らない時間帯の早起きは、基本的に「夜型人間」と自覚する私にとって実に辛く体にこたえる。
我が子が一人前に育った暁の、さしあたっての私の一番の楽しみは“朝寝坊”することだ! あと何年経ったらその日が訪れるかと、今から指折り数えて心待ちにしている私である。
私が「夜型人間」を志向する原点となったのは、思春期の高校生の頃からであろうか。
ちょうど大学受験勉強に励んでいた頃であり、たとえば学校の定期試験前などは学校から帰宅後すぐに仮眠し(この仮眠が5、6時間と長かった!)家族が寝静まる頃起き出して勉強に励むという生活パターンを送っていた。 今思えば、あの悪しき習慣が当時まだ成長期の私の心身に打撃を及ぼしたと考察するのだが、その頃私は情緒不安定で過食症状(当時はそういう医学的症状名さえない時代だったのだが)に苛まれた辛い経験がある。 その原因は成長期にしての不規則な睡眠習慣によるものかと後に推測する私である。
(話が本記事の趣旨から逸れるが、上記のごとくの不安定要因を抱えながらも私の生まれ持っての真面目で?律儀な?性格の賜物で、高校へは重い体を引きずりつつ3年間ほぼ無遅刻無欠席で通い通した。 ただ受験生であるにもかかわらず授業がまったく面白くなく、交友関係等々すべてが充実しない我が人生における最大の失策の思春期の一ページである。 ところが今思えば、そういう失策の時期を高校生という至って未熟な時代に早めに通り過ぎておけたことが、我が後々の人生にとって大正解であることを今現在重々実感できるから、人生とは面白い!)
我が苦難の高校生時代を過ぎ去って以降は、上記のような昼夜が逆転する程の夜型生活からは脱却し、心身状態も至って正常に戻った。
だが、どうしても朝起きることが地獄のごとくの、滅法朝に弱い私の習性は今尚続いている。
そんな私が、今までの半生において一番快適と思える生活パターンを堪能できたのは、30代後半に定時制高校の教員をしていた時期である。 その頃の生活パターンと言えば午前11時頃に起床し、夜の就寝は平均すると夜中の2時頃というサイクルだった。 (ただし飲み会をこよなく愛する私としては朝帰りの機会が甚だ多く、その際には午前11時に起きるのも死ぬほど辛かったものだが…)
それはさておいて、上記のごとくの“深夜に寝て朝遅めに起きる”生活パターンが我が心身に最適なのではないかとの結論を既に導き出している私は、結婚以降一家の休日には家族の理解を得てそれを実行させてもらってきた。
ところが、この生活時間パターンもどうやら身体の加齢と共に変動する運命にあるようなのである。 数年前から、たとえ休日であっても朝ある程度早めの時間帯に目覚めてしまうのだ。 何と悲しいことに“もっと寝たいのに!”という私の心身の欲求とは裏腹に…。
そこでその対策として、今となっては休日とは言えども午前9時には起床する習慣が定着して現在に至っている。
ところで話が変わるが、「原左都子エッセイ集」にコメントを頂く読者の皆様のコメント記載時間を拝見すると、昼夜関係なく24時間体制で生活されている方々が今の時代世に蔓延している時代のようだ。 これには仰天させられる私であるが、一体皆さん、いつ寝ているの…???
と思っていたら、過去においてその生活の実態を知らせて下さった読者の方がいらっしゃる。 サラリーマンであられるその読者の方は、どうしても夜中に目が覚めるらしい。そうしたら自然に逆らわずに起きてきてパソコンを覗き、例えば私のブログにコメントを書き入れて下さるとのことなのだ。 (いや~。私も夜中に目覚めることは夜な夜なだが、だからといって起き上がって作業する気力はないなあ… 脱帽です…)
昨年11月の朝日新聞記事の調査によると、「早起き派」が58%、「夜更かし派」が42%と、僅差で「早起き派」が上回っている今の時代であるようだ。
昔から「早起きは三文の徳」と言い伝えられているが、上記朝日新聞記事内にも「三文の徳」は確かにあるとの内容の文面がある。 その文面によると、朝早く起きると沢山の仕事がこなせるという若い世代のパワフルな生き様や、早起きで早朝に飛んでいる鳥を観察できるとのご年配世代の趣味の充実が紹介されている。 (それがご自身にとって「三文の徳」ならば、どうぞご勝手にして下さい… と「夜型人間」としては言いたくもなるよね~ )
まあ、人の時間的観念分野での生活習慣とは上記朝日新聞の事例のごとくの、自分の経済生活の優先であったり趣味的レベルの話に過ぎないのが今の時代の実情ではあるまいか。
結局、何時に起きて何時に寝るかなどという話は、これ程文化科学が発展し人間の生き様が多様化した時代においては、人のプライバシーにも及ぶ事象であろうし、選択肢が様々であってこそ人それぞれの実りある人生が展開できる話題なのではなかろうか。
我が子が一人前に成長した暁には、どこのどなたが起こしに来ようが、絶対「朝寝坊」したい原左都子であるぞ。
この厳寒の時期のまだ日が昇らない時間帯の早起きは、基本的に「夜型人間」と自覚する私にとって実に辛く体にこたえる。
我が子が一人前に育った暁の、さしあたっての私の一番の楽しみは“朝寝坊”することだ! あと何年経ったらその日が訪れるかと、今から指折り数えて心待ちにしている私である。
私が「夜型人間」を志向する原点となったのは、思春期の高校生の頃からであろうか。
ちょうど大学受験勉強に励んでいた頃であり、たとえば学校の定期試験前などは学校から帰宅後すぐに仮眠し(この仮眠が5、6時間と長かった!)家族が寝静まる頃起き出して勉強に励むという生活パターンを送っていた。 今思えば、あの悪しき習慣が当時まだ成長期の私の心身に打撃を及ぼしたと考察するのだが、その頃私は情緒不安定で過食症状(当時はそういう医学的症状名さえない時代だったのだが)に苛まれた辛い経験がある。 その原因は成長期にしての不規則な睡眠習慣によるものかと後に推測する私である。
(話が本記事の趣旨から逸れるが、上記のごとくの不安定要因を抱えながらも私の生まれ持っての真面目で?律儀な?性格の賜物で、高校へは重い体を引きずりつつ3年間ほぼ無遅刻無欠席で通い通した。 ただ受験生であるにもかかわらず授業がまったく面白くなく、交友関係等々すべてが充実しない我が人生における最大の失策の思春期の一ページである。 ところが今思えば、そういう失策の時期を高校生という至って未熟な時代に早めに通り過ぎておけたことが、我が後々の人生にとって大正解であることを今現在重々実感できるから、人生とは面白い!)
我が苦難の高校生時代を過ぎ去って以降は、上記のような昼夜が逆転する程の夜型生活からは脱却し、心身状態も至って正常に戻った。
だが、どうしても朝起きることが地獄のごとくの、滅法朝に弱い私の習性は今尚続いている。
そんな私が、今までの半生において一番快適と思える生活パターンを堪能できたのは、30代後半に定時制高校の教員をしていた時期である。 その頃の生活パターンと言えば午前11時頃に起床し、夜の就寝は平均すると夜中の2時頃というサイクルだった。 (ただし飲み会をこよなく愛する私としては朝帰りの機会が甚だ多く、その際には午前11時に起きるのも死ぬほど辛かったものだが…)
それはさておいて、上記のごとくの“深夜に寝て朝遅めに起きる”生活パターンが我が心身に最適なのではないかとの結論を既に導き出している私は、結婚以降一家の休日には家族の理解を得てそれを実行させてもらってきた。
ところが、この生活時間パターンもどうやら身体の加齢と共に変動する運命にあるようなのである。 数年前から、たとえ休日であっても朝ある程度早めの時間帯に目覚めてしまうのだ。 何と悲しいことに“もっと寝たいのに!”という私の心身の欲求とは裏腹に…。
そこでその対策として、今となっては休日とは言えども午前9時には起床する習慣が定着して現在に至っている。
ところで話が変わるが、「原左都子エッセイ集」にコメントを頂く読者の皆様のコメント記載時間を拝見すると、昼夜関係なく24時間体制で生活されている方々が今の時代世に蔓延している時代のようだ。 これには仰天させられる私であるが、一体皆さん、いつ寝ているの…???
と思っていたら、過去においてその生活の実態を知らせて下さった読者の方がいらっしゃる。 サラリーマンであられるその読者の方は、どうしても夜中に目が覚めるらしい。そうしたら自然に逆らわずに起きてきてパソコンを覗き、例えば私のブログにコメントを書き入れて下さるとのことなのだ。 (いや~。私も夜中に目覚めることは夜な夜なだが、だからといって起き上がって作業する気力はないなあ… 脱帽です…)
昨年11月の朝日新聞記事の調査によると、「早起き派」が58%、「夜更かし派」が42%と、僅差で「早起き派」が上回っている今の時代であるようだ。
昔から「早起きは三文の徳」と言い伝えられているが、上記朝日新聞記事内にも「三文の徳」は確かにあるとの内容の文面がある。 その文面によると、朝早く起きると沢山の仕事がこなせるという若い世代のパワフルな生き様や、早起きで早朝に飛んでいる鳥を観察できるとのご年配世代の趣味の充実が紹介されている。 (それがご自身にとって「三文の徳」ならば、どうぞご勝手にして下さい… と「夜型人間」としては言いたくもなるよね~ )
まあ、人の時間的観念分野での生活習慣とは上記朝日新聞の事例のごとくの、自分の経済生活の優先であったり趣味的レベルの話に過ぎないのが今の時代の実情ではあるまいか。
結局、何時に起きて何時に寝るかなどという話は、これ程文化科学が発展し人間の生き様が多様化した時代においては、人のプライバシーにも及ぶ事象であろうし、選択肢が様々であってこそ人それぞれの実りある人生が展開できる話題なのではなかろうか。
我が子が一人前に成長した暁には、どこのどなたが起こしに来ようが、絶対「朝寝坊」したい原左都子であるぞ。