またまた我が目を疑うべくアンビリーバブルな相談を新聞紙面で目にした。
その相談によると「夫を愛しすぎて困っている」とのことである。 今の混沌とした時代においてはむしろ、人の心理がそのような“一見”「ミラクル愛」に走りゆく傾向にあるのだろうか…???
早速、朝日新聞1月16日(土)別刷「be」“悩みのるつぼ”から、30代主婦による「夫を愛しすぎているのでは」と題する相談を以下に要約して紹介しよう。
夫とは1年の交際を経て結婚し6年目の会社員女性であるが、夫のことが好きすぎて困っている。 子どもはいない。 夫と出会ったその日に生涯の伴侶と思い定め、それ以来今日まで毎日起きている間はずっと夫のことが頭から離れない。一緒にいると楽しくてしかたなく、家では常に同じ部屋にいて常にどこかに触れ合っている。 働いている時も夫が今何をしているのかが気掛かりで寂しくてならない。誰と会っても相手が夫ならもっと盛り上がるのにと考えてしまう。 夫が友人と会うのにも嫉妬心に似た感情を抱いてしまい、夫不在の時は事故で死んでいないかと心配になり、夫が死んだら自分は生きていかれないとすら思う。 夫の方も程度の差こそあれ同じタイプのようだ。 私自身は夫に出会えた幸せをかみしめる一方で、あまりにも依存し過ぎて不健康な状態で人生を自分の手で何割か葬ってしまっている気もする。 だが、周囲の人に話しても“のろけ”としか捉えてもらえない。
今回の“悩みのるつぼ”の相談の回答者は経済学者の金子勝氏であられるのだが、その回答が私論と重複する部分が多いため、私論を述べるに先立ってまず金子氏の回答を以下に要約して紹介しよう。
一見すると濃密な人間関係のように見えても、実は希薄な場合がある。 人間とは欲望、衝動、ねたみ、不安など理屈では説明できない弱さを沢山抱きつつ生きている。 感情が抑えきれず相手を傷つけるとわかっていても、どうしても止められないという葛藤も抱えている。 人間としての信頼関係は、人間の弱さを「許す」という行為から始まる。親子関係はその典型である。「許す」の裏側には、相手に自分の弱点を晒して許しを請う「謝る」という行為を伴う。 夫婦はけんかをする程仲がよいと言われるのは、「許す」と「謝る」で愛情を確認し合っているからであるとも考えられる。 しかし、この相談の文面からはそのような本音をぶつけ合う関係が見えて来ない。 夫婦の間であれ、家庭の他にお互いに別の世界を持ちつつ仕事をはじめ何かを通じて自己実現しようとするものだ。人間とは外では弱さや葛藤を見せずにいたいため、だからこそ夫婦間においては互いに「許し」「謝り」支え合うことのできる人間としての信頼関係が大事である。 この相談からは、この「支え合う」関係も見えて来ない。 相談者は相手を独占したいだけで、「依存」こそあれ「支え」てはいない。 ただ相談者がそれを「不健康」だと理解しているならば、自分にとっての自己実現とは何かを考え「別の世界」で葛藤する夫を知るしかない。 しかし、無理にそうする必要もなく、このまま一生を終えられるならば最高の幸せでもあろう。
(以上、“悩みのるつぼ”金子氏の回答を要約)
最後に私論に入ろう。
「人を愛し過ぎる」…… 残念ながら我が人生においては恐らくそのような経験がないと思えるが故に、一見何とも羨ましい限りの相談内容でもある。
いやいや、この私とて若かりし頃にはその種の“勘違い”に浸った時期も無きにしもあらずだ。 恋愛相手が好きで好きで、家族も仕事も生活もすべて投げ捨ててでもこのまま一生その恋愛相手と地の果てまでも一緒にいたいと心底思った経験は、私でなくとも誰しも一度は過去に通り過ぎてきた道程であろう。
ただそういう一時の感情とは単なる若気の至り故の妄想であることは、金子氏が述べられている回答の通りかと私論も捉える。
人とは悲しいかな、恋愛だけを貫いて一生を生き通すことは不可能に近い動物なのではなかろうか。 人間とは、生きてゆくための日常の「生活」を回避することはどうしても出来ない運命にある生命体である。
恋愛の行き着くところとは、その究極の表現型である“生殖行為”に終着するようにも見える。 だがその実は、それのみを堪能していたのでは人間はこの世に生き延びられないように運命付けられた存在でもあろう。
いくら人を愛して愛して愛し抜こうと志そうが、そこには「現実生活」という限界があり、そして人間ならではの個々の「自己実現」の現実が待ち構えているのだ。
この相談主婦も、夫を愛し過ぎていると自負できる幸せを一生迷いなく実感し続けることが可能であったならば、回答者の金子氏がおっしゃる通り幸せな人生であったかもしれぬのに…。
結婚6年目に至ってやっと初めて夫への“愛”に迷いが生じてしまった、おそらく今までの人生において(夫以外の人物との)濃厚な人間関係に乏しいと思しき若かりし主婦の行く先は、一体何処に終着するのやら…
その相談によると「夫を愛しすぎて困っている」とのことである。 今の混沌とした時代においてはむしろ、人の心理がそのような“一見”「ミラクル愛」に走りゆく傾向にあるのだろうか…???
早速、朝日新聞1月16日(土)別刷「be」“悩みのるつぼ”から、30代主婦による「夫を愛しすぎているのでは」と題する相談を以下に要約して紹介しよう。
夫とは1年の交際を経て結婚し6年目の会社員女性であるが、夫のことが好きすぎて困っている。 子どもはいない。 夫と出会ったその日に生涯の伴侶と思い定め、それ以来今日まで毎日起きている間はずっと夫のことが頭から離れない。一緒にいると楽しくてしかたなく、家では常に同じ部屋にいて常にどこかに触れ合っている。 働いている時も夫が今何をしているのかが気掛かりで寂しくてならない。誰と会っても相手が夫ならもっと盛り上がるのにと考えてしまう。 夫が友人と会うのにも嫉妬心に似た感情を抱いてしまい、夫不在の時は事故で死んでいないかと心配になり、夫が死んだら自分は生きていかれないとすら思う。 夫の方も程度の差こそあれ同じタイプのようだ。 私自身は夫に出会えた幸せをかみしめる一方で、あまりにも依存し過ぎて不健康な状態で人生を自分の手で何割か葬ってしまっている気もする。 だが、周囲の人に話しても“のろけ”としか捉えてもらえない。
今回の“悩みのるつぼ”の相談の回答者は経済学者の金子勝氏であられるのだが、その回答が私論と重複する部分が多いため、私論を述べるに先立ってまず金子氏の回答を以下に要約して紹介しよう。
一見すると濃密な人間関係のように見えても、実は希薄な場合がある。 人間とは欲望、衝動、ねたみ、不安など理屈では説明できない弱さを沢山抱きつつ生きている。 感情が抑えきれず相手を傷つけるとわかっていても、どうしても止められないという葛藤も抱えている。 人間としての信頼関係は、人間の弱さを「許す」という行為から始まる。親子関係はその典型である。「許す」の裏側には、相手に自分の弱点を晒して許しを請う「謝る」という行為を伴う。 夫婦はけんかをする程仲がよいと言われるのは、「許す」と「謝る」で愛情を確認し合っているからであるとも考えられる。 しかし、この相談の文面からはそのような本音をぶつけ合う関係が見えて来ない。 夫婦の間であれ、家庭の他にお互いに別の世界を持ちつつ仕事をはじめ何かを通じて自己実現しようとするものだ。人間とは外では弱さや葛藤を見せずにいたいため、だからこそ夫婦間においては互いに「許し」「謝り」支え合うことのできる人間としての信頼関係が大事である。 この相談からは、この「支え合う」関係も見えて来ない。 相談者は相手を独占したいだけで、「依存」こそあれ「支え」てはいない。 ただ相談者がそれを「不健康」だと理解しているならば、自分にとっての自己実現とは何かを考え「別の世界」で葛藤する夫を知るしかない。 しかし、無理にそうする必要もなく、このまま一生を終えられるならば最高の幸せでもあろう。
(以上、“悩みのるつぼ”金子氏の回答を要約)
最後に私論に入ろう。
「人を愛し過ぎる」…… 残念ながら我が人生においては恐らくそのような経験がないと思えるが故に、一見何とも羨ましい限りの相談内容でもある。
いやいや、この私とて若かりし頃にはその種の“勘違い”に浸った時期も無きにしもあらずだ。 恋愛相手が好きで好きで、家族も仕事も生活もすべて投げ捨ててでもこのまま一生その恋愛相手と地の果てまでも一緒にいたいと心底思った経験は、私でなくとも誰しも一度は過去に通り過ぎてきた道程であろう。
ただそういう一時の感情とは単なる若気の至り故の妄想であることは、金子氏が述べられている回答の通りかと私論も捉える。
人とは悲しいかな、恋愛だけを貫いて一生を生き通すことは不可能に近い動物なのではなかろうか。 人間とは、生きてゆくための日常の「生活」を回避することはどうしても出来ない運命にある生命体である。
恋愛の行き着くところとは、その究極の表現型である“生殖行為”に終着するようにも見える。 だがその実は、それのみを堪能していたのでは人間はこの世に生き延びられないように運命付けられた存在でもあろう。
いくら人を愛して愛して愛し抜こうと志そうが、そこには「現実生活」という限界があり、そして人間ならではの個々の「自己実現」の現実が待ち構えているのだ。
この相談主婦も、夫を愛し過ぎていると自負できる幸せを一生迷いなく実感し続けることが可能であったならば、回答者の金子氏がおっしゃる通り幸せな人生であったかもしれぬのに…。
結婚6年目に至ってやっと初めて夫への“愛”に迷いが生じてしまった、おそらく今までの人生において(夫以外の人物との)濃厚な人間関係に乏しいと思しき若かりし主婦の行く先は、一体何処に終着するのやら…