原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

自国メダルにこだわる心理の背景

2010年02月22日 | 時事論評
 4年に一度しか開催されないオリンピックに、各国の代表として出場する選手がメダル獲得にこだわり勝利を目指す事については、至って正当な志向であると私は捉えている。

 むしろ自国の五輪代表を自らの競技種目で勝ち取って尚、開催前より「五輪でメダルを取る事にはこだわらない」と主張しつつ五輪本番の舞台で尚それを復唱し続ける選手に関しては、観ている側としては応援する気力も消え失せるというものであろう。 
 この種の選手はごく稀な存在ではあろうが、そういう選手とは結果として元々メダル云々には所詮程遠い実力しかないことを観る側として改めて認識させられるのが、いとも過酷なオリンピックという世界最高に研ぎ澄まされた舞台における結末なのではなかろうか。

 
 冒頭から話がズレたが、今回の記事では選手側ではなく“観戦側”の“自国のメダル”獲得にこだわる心理について考察しようとする意図であることを最初に断っておこう。

 私ども原左都子に関しては、前回の記事 「ブラボー!! ライサチェク!」 において既に披露しているが、オリンピック観戦に当たっては“自国のメダル”云々よりも、世界のトップアスリートの超越した演技こそを五輪で堪能したい思いを綴らせていただいたばかりである。

 やはり同意見の国民が存在することを、昨日(2月21日)の朝日新聞「声」欄の投書で発見したため、早速この投書を以下に要約して紹介しよう。
 男子スピードスケート500mで日本選手が銀、銅メダルを獲得したことが新聞の一面に大きく報道された。これは日本人としてうれしいニュースではあるが、そこにはなぜか金メダルを取った選手の名前が載っていない。 そんなはずはないと思い読み直したところ、片隅に小さく名前と略歴が載っていた。これは大して報道に値しないと判断したのだろうか。 この現象は、小学校の運動会で我が子の姿だけを一心不乱にビデオに収めようとする親の姿とダブって見える。その瞬間親は我を忘れて周りが見えなくなっている。 自国選手の快挙に熱くなるのは当然であろうが、他国の選手であれその栄誉は我々の敬意に値すると思うからきちんと報道されてしかるべきである。 お祭りムードに流されて、自国選手に偏る報道に少なからず違和感を持つ。


 私論に入ろう。

 実はこの私にも、我が国で初めて開催された1964年の東京オリンピックを幼き頃にテレビで見たのを事の始めとして、その後日本が国際的に目覚ましく経済力を強化していく時代を背景に、「がんばれ ニッポン!!」精神を学校教育やメディアによって他動的に操られるまま、我が未熟な心理においても“自国ひいき”の精神が強靭なものとして培われた一時の歴史はある。

 いつ頃からだろうか。 おそらく大人になって以降、オリンピックで諸外国の超人ともいえる選手達の活躍を目の当たりにし始めてから、五輪の見方も変化してきたように今振り返る。
 もちろん、日本代表選手が五輪においてすばらしく活躍する姿を報道で垣間見るのも、今尚感動的であるのは揺ぎない事実だ。 だがそれ以前に4年に一度しか開催されない五輪においては、世界のトップレベルの超越した技や芸やスピードや芸術性を、メディアには優先して報道して欲しい思いはこの私も強いのだ。


 この国の国民にさほどの愛国心があるとは到底思えないのに、何故にこれ程までに自国の日本選手のメダルにこだわる風潮が未だに横行しているのかについて、以下に少し考察してみよう。

 この現象は決して国民各々の「愛国心」から発しているものではないと、まず私論は結論付けたい。
 それでも、何らかの“帰属意識”というものは国にかかわらず人間誰しも存在する心の拠り所なのであろう。
 特に日本の場合、国際化が急激に進んでいるとは言え、未だにこの“島国”においては同じ肌の色をした黄色人種である国民が大多数を占めている。 そして、航空便と海路を経由するしか諸外国に渡れない日本の国民にとって、諸外国との交流は今に至って尚不自由であるのが現状でもあろう。 さらに「日本語」という言語がこの国のみでしか通用し得ないという特殊性も、我々国民が抱えている国際的ダメージの決定的実態でもあろう。

 どうひいき目に見ても、この国の特に若い世代の人々の間に「愛国心」が育っているとは私は到底信じられない。 それでも彼らは、サッカーやオリンピックの国際舞台で“日の丸”が掲げられ“君が代”が流れると涙を流しつつ、その試合を選手と一緒に闘ったごとくに大声で斉唱している。 その姿は至って無邪気、単純明快であるため年長者としては否定し難いものの、これを国の指導者がまかり間違っても「愛国心」の裏づけと捉えるべきではない。 若き世代におけるこの風景は、単なる社会的弱者の“帰属意識”“同調意識”の域を出ていない現象であると私論は結論付けた上で、国政の頂点に立つ者にはその種の弱者国民に真の主体性を持たせるべく、今後共に心して国政に臨んで欲しいものと改めて主張したい思いである。
 (新政権は昨日長崎知事選挙で大いなる敗退を期したようだが、“政治と金の問題”で右往左往している暇などまったくないことを直ちに認識して、自らが即刻この問題に決着を着けるべく行動することを最優先して欲しいものである。)


 すっかり話が飛躍してしまったが、自国中心の五輪報道を操っているその“諸悪の根源”はマスメディアであることには間違いはない。
 4年に一度のみ開催される五輪の醍醐味とは、世界のトップアスリートのパフォーマンスを観戦できることにあるはずだ。 これ程発展を遂げているメディアの科学技術力を最大限駆使して各国代表選手の活躍の程の影像や音声を伝えてくれるのが、本来のメディアの役割と認識する原左都子である。

 選手のプライバシー等の余計な情報など一切必要ない。(そういう意味では、ハープパイプの国母クンが空港でどういった服装をしていたかの影像など、まったく不必要な報道だったと言いたい思いの原左都子でもある。 五輪競技本番以外の取るに足りないくだらない騒動に巻き込まれるよりも、その分世界のトップアスリートの活躍場面の影像を堪能させてもらいたいものだ。)
              
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