成人の日が間近となったつい先だって、2年後に成人を迎える18歳の我が娘がポツリと私に聞く。
「成人式って別に出なくてもいいんでしょ?」
おっと。 (さてはこの子は成人式に出たくないんだな?)と母の私は直感しつつ、
「形だけの式典なんか私もどっちでもいいと思うけど、晴れ着だけは着ようよ。 既におばあちゃんから“成人前祝”も頂いてるし、20歳の晴れ姿を写真に撮っておばあちゃんに見せてあげようよ。」
そうなのだ。 娘にとってのおばあちゃん(義母)より、半年前に既に成人の祝いが届いているのだ。
昨年80歳を迎えた義母曰く、「○○ちゃん(我が娘)の成人のお祝いだけはしてあげたいとずっと思っているんだけど、私の命がいつまで持つか分からないから、気が早いことは承知で今のうちに前祝を渡しておくのでこれで好きにお祝いしてね。」
いつもながらありがたい事である。 そして受け取った祝儀袋にはある程度立派な振袖をしつらえられそうな額の祝い金が入っていた。
原左都子も成人式に出席していない事に関しては、おそらく本エッセイ集のバックナンバーで綴っている。
私の場合は、我が娘とはその事情が大幅に食い違う。
共通している点は、元々集団嫌いの私も自治体が主宰する成人式典に出席する事に関しては二の次の位置付けだったことだ。
ただ、正直なところ当時よりファッション好きの私には振袖を着たい思いが強かった事は否めない。 (長身体型の私に振袖は絶対に似合う!との若気の至りの自負心もあった。 )
ところが、我が親の考え方が当時の私よりもずっと合理派だったのである。
母曰く、「たった一度着てお蔵入りさせる振袖を仕立てるのに何十万円も費やすより、そのお金を使ってあなたが今したい事をした方が有意義ではないのか?」
その母のアドバイスにより、私は19歳の夏休み期間中に米国に1ヶ月間短期留学することと相成った。
それはそれで充実した経験だったとして、その後が辛かった…。 冬に向かうにつれ、周囲の女友達の皆が成人式に着る振袖の話で持ち切りとなる。 この私とてどうしても振袖が欲しいのならば、既に自分で貯めた預金がそれを立派にしつらえられる程の額に達していたのだからそれで振袖を作ればよかった、と後に考察する事は可能である。 ただやはり当時の時代背景として、実家で親と同居している以上親の考えを尊重するべきとの発想にどうしてもなってしまうのだ。
結局私は成人の日に振袖を着る事もなく、自治体の成人式にも参加しないとの選択をせざるを得なかった…
その後新卒で民間企業に就職するため上京した後も、成人の日に振袖を着ていないという“敗北感”のような無念さをずっと引きずり続けていた。
そんな私の思いを知ってか知らずか、郷里の母がその“お詫びの思い”で後々私のために数々の和服を仕立ててくれた。 (それが現在の我が家の和ダンスに手を通される事も無く満杯状態である事に関してはバックナンバーで綴っている。)
社会人として一人前の給与を得ていた私は、何度か振袖を仕立てるために都心の呉服屋を訪れている。 独身が長かった私はそれを晩婚直前まで繰り返した。
結論としては、たとえ独身で振袖が似合う体型を保持していようとも、それを着る機会がない現実を冷静に鑑みて、いくら呉服屋から勧められても振袖を仕立てることは断念して現在に至っている。
上記のごとくの私自身の成人の日にまつわる教訓として言いたいのは、親とは(経済力が許すのならば)世間の祝い事に関しては自分の歪んだポリシーを勝手に未熟な子供に押付けるのではなく、一応世の慣習に従って子どもを導くべきなのではないかと言うことである。
そんな原左都子としては、我が娘が2年後に20歳を迎えた暁に自治体が主催する(意味不明の)成人式典に出席するかどうかは本人の好きにすればよいとの思いには変わりはない。
だがどうしても、振袖だけは親の責任として仕立てて着せてやりたいのだ。 (親馬鹿ながら、きっと我が娘にも振袖姿が映えることと既に想像がついているしね…)
朝日新聞1月7日別刷「be」“between”の今回の内容はこの時期に相応しく 「成人式は必要だと思う?」 だった。
その記事の中で、成人式に出席していないとの回答が40%にも上っている現状に力づけられると共に、記事の隅にある見識者のご意見に同意する原左都子である。
「一人前は年齢じゃない」 と題する、見識者であられる大学教授の論評をこの記事の最後に紹介しよう。
現在市町村等の自治体毎に開催されている成人式の実態を、村落共同体における伝統的な通過儀礼を引き継いでいると捉える視点もあるが、現在の成人式とはそれとは「異質なもの」、とこの論評の主である国立民族学博物館の近藤教授は捉えられているようだ。
かつての“一人前”とは年齢で区切るのではなく、農作業や布を織る能力が一定レベルに達した者を指した。 その能力を有するものには共同体で生きる権利を与えると共に、その作業を支える義務も課された。 ところが今の成人には権利こそあれども義務がない。
大人になることとは試練の連続である。 それを踏まえることが成人となる通過儀式であるはずだ。
今の時代の成人式とは、「芸能人のショーやテーマパークへの招待など、成人を喜ばす事に躍起になっていて本末転倒だ」
今の時代の(厳しい)就職活動とは本来の通過儀礼に近いかもしれない。 でもそれに打ち勝っても長続きしないのならば、一人前とは到底言い難い。
原左都子も、この大学教授のご見解にまったく同感である。
自治体が実施する“成人を軽薄な手段で喜ばせて静かにさせよう”との現在の“子どもだまし”意図の成人式になど、良識ある20歳が出向く必要は何もないであろう。
それよりも、自分が今後欲する世界において能力を高め続けられてこそいずれ自然と「成人」を迎えられる事を視野に入れ、今後若者達はまだまだ精進するべきである。
人間とは、人(親や自治体や国家を含めた他者)に言われるがままに行動したところで決して成人できる代物ではない。
年齢にかかわらず、自分自身の力で人生を培っていくものであるぞ!
「成人式って別に出なくてもいいんでしょ?」
おっと。 (さてはこの子は成人式に出たくないんだな?)と母の私は直感しつつ、
「形だけの式典なんか私もどっちでもいいと思うけど、晴れ着だけは着ようよ。 既におばあちゃんから“成人前祝”も頂いてるし、20歳の晴れ姿を写真に撮っておばあちゃんに見せてあげようよ。」
そうなのだ。 娘にとってのおばあちゃん(義母)より、半年前に既に成人の祝いが届いているのだ。
昨年80歳を迎えた義母曰く、「○○ちゃん(我が娘)の成人のお祝いだけはしてあげたいとずっと思っているんだけど、私の命がいつまで持つか分からないから、気が早いことは承知で今のうちに前祝を渡しておくのでこれで好きにお祝いしてね。」
いつもながらありがたい事である。 そして受け取った祝儀袋にはある程度立派な振袖をしつらえられそうな額の祝い金が入っていた。
原左都子も成人式に出席していない事に関しては、おそらく本エッセイ集のバックナンバーで綴っている。
私の場合は、我が娘とはその事情が大幅に食い違う。
共通している点は、元々集団嫌いの私も自治体が主宰する成人式典に出席する事に関しては二の次の位置付けだったことだ。
ただ、正直なところ当時よりファッション好きの私には振袖を着たい思いが強かった事は否めない。 (長身体型の私に振袖は絶対に似合う!との若気の至りの自負心もあった。 )
ところが、我が親の考え方が当時の私よりもずっと合理派だったのである。
母曰く、「たった一度着てお蔵入りさせる振袖を仕立てるのに何十万円も費やすより、そのお金を使ってあなたが今したい事をした方が有意義ではないのか?」
その母のアドバイスにより、私は19歳の夏休み期間中に米国に1ヶ月間短期留学することと相成った。
それはそれで充実した経験だったとして、その後が辛かった…。 冬に向かうにつれ、周囲の女友達の皆が成人式に着る振袖の話で持ち切りとなる。 この私とてどうしても振袖が欲しいのならば、既に自分で貯めた預金がそれを立派にしつらえられる程の額に達していたのだからそれで振袖を作ればよかった、と後に考察する事は可能である。 ただやはり当時の時代背景として、実家で親と同居している以上親の考えを尊重するべきとの発想にどうしてもなってしまうのだ。
結局私は成人の日に振袖を着る事もなく、自治体の成人式にも参加しないとの選択をせざるを得なかった…
その後新卒で民間企業に就職するため上京した後も、成人の日に振袖を着ていないという“敗北感”のような無念さをずっと引きずり続けていた。
そんな私の思いを知ってか知らずか、郷里の母がその“お詫びの思い”で後々私のために数々の和服を仕立ててくれた。 (それが現在の我が家の和ダンスに手を通される事も無く満杯状態である事に関してはバックナンバーで綴っている。)
社会人として一人前の給与を得ていた私は、何度か振袖を仕立てるために都心の呉服屋を訪れている。 独身が長かった私はそれを晩婚直前まで繰り返した。
結論としては、たとえ独身で振袖が似合う体型を保持していようとも、それを着る機会がない現実を冷静に鑑みて、いくら呉服屋から勧められても振袖を仕立てることは断念して現在に至っている。
上記のごとくの私自身の成人の日にまつわる教訓として言いたいのは、親とは(経済力が許すのならば)世間の祝い事に関しては自分の歪んだポリシーを勝手に未熟な子供に押付けるのではなく、一応世の慣習に従って子どもを導くべきなのではないかと言うことである。
そんな原左都子としては、我が娘が2年後に20歳を迎えた暁に自治体が主催する(意味不明の)成人式典に出席するかどうかは本人の好きにすればよいとの思いには変わりはない。
だがどうしても、振袖だけは親の責任として仕立てて着せてやりたいのだ。 (親馬鹿ながら、きっと我が娘にも振袖姿が映えることと既に想像がついているしね…)
朝日新聞1月7日別刷「be」“between”の今回の内容はこの時期に相応しく 「成人式は必要だと思う?」 だった。
その記事の中で、成人式に出席していないとの回答が40%にも上っている現状に力づけられると共に、記事の隅にある見識者のご意見に同意する原左都子である。
「一人前は年齢じゃない」 と題する、見識者であられる大学教授の論評をこの記事の最後に紹介しよう。
現在市町村等の自治体毎に開催されている成人式の実態を、村落共同体における伝統的な通過儀礼を引き継いでいると捉える視点もあるが、現在の成人式とはそれとは「異質なもの」、とこの論評の主である国立民族学博物館の近藤教授は捉えられているようだ。
かつての“一人前”とは年齢で区切るのではなく、農作業や布を織る能力が一定レベルに達した者を指した。 その能力を有するものには共同体で生きる権利を与えると共に、その作業を支える義務も課された。 ところが今の成人には権利こそあれども義務がない。
大人になることとは試練の連続である。 それを踏まえることが成人となる通過儀式であるはずだ。
今の時代の成人式とは、「芸能人のショーやテーマパークへの招待など、成人を喜ばす事に躍起になっていて本末転倒だ」
今の時代の(厳しい)就職活動とは本来の通過儀礼に近いかもしれない。 でもそれに打ち勝っても長続きしないのならば、一人前とは到底言い難い。
原左都子も、この大学教授のご見解にまったく同感である。
自治体が実施する“成人を軽薄な手段で喜ばせて静かにさせよう”との現在の“子どもだまし”意図の成人式になど、良識ある20歳が出向く必要は何もないであろう。
それよりも、自分が今後欲する世界において能力を高め続けられてこそいずれ自然と「成人」を迎えられる事を視野に入れ、今後若者達はまだまだ精進するべきである。
人間とは、人(親や自治体や国家を含めた他者)に言われるがままに行動したところで決して成人できる代物ではない。
年齢にかかわらず、自分自身の力で人生を培っていくものであるぞ!