原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

友達の友達は友達であるべきか?

2012年01月23日 | 人間関係
 ♪ 友だちの友だちは友だちだ   その友だちの友だちも皆友だちだ ♪♪

 皆さんも、こういう歌詞の歌を子どもの頃口ずさんだ経験がおありであろう。


 そうではないんじゃないかな??  と生まれ持って天邪鬼気質の原左都子は、既に第二次反抗期である小学校高学年の頃より疑問視していた。
 もちろんそういう場合もあってよかろうが、それは友達対象となる人物像により左右されて当然である。  自分が友として付き合う相手とは、個々人が自らの自由意志で選択したりされたりして成り立つべきものだからである。
 ところが人の人生とは “友達の友達は友達” であるべき事を、暗黙の内に他者から強制される場面が多々ある現状ではなかろうか?


 さて、朝日新聞1月21日付別刷「be」コラム“結婚未満”の今回の表題は 「友だちと私のどっちが大事なの?」 だった。
 このコラムとは、結婚を控えている若者達の様々な心の葛藤の事例を取り上げて毎週紹介するのが趣旨のようだ。
 今回の記事に関しては、原左都子にとっては結婚問題というよりも“友達問題”を取り上げたものとして興味深いものがあった。

 早速、上記のコラム「友達と私のどっちが大事なの?」を以下に要約して紹介しよう。
 31歳のユウナは33歳のタイチと付き合って10年になるのに、結婚に踏み出せないでいる。 千葉で生まれたタイチは祖父母が建てた3世代同居の家で育ち、大学までずっと家から出たことがない。 現在は東京の勤務先まで片道2時間かけて通っている。ユウナとは大学時代に知り合い、「家族と友達がいるからここに住む」と言う。 一方のユウナは商社マンの父の国内外の転勤に伴い故郷と呼べる場所がない。 両親は今も海外滞在のため東京で一人暮らし、友達は世界中にいるためフェイスブックで連絡を取り合っている。 そんなユウナは、家族と暮らし地元の友達と仲良くするタイチを最初の頃は「家族も地元の友達も大事にしてステキな人だな」と思っていた。 ところが、10年経ってそんな日々に違和感を覚えるようになった。 昔タイチの事を好きだった女性との付き合いまでも強要され「あいつとは保育園から30年の付き合いで深い絆があるのに、ユウナはなんで俺の友達と付き合えないの?」と不機嫌になるタイチ…  タイチはユウナとの結婚を考えているというが、千葉の実家の敷地に別棟を建ててユウナと暮らすと言う。 「千葉からじゃ、私の職場に通えない」というユウナに対し、タイチは「わがままだ」と一蹴する。 結婚しても毎日友達に会って暮らすというタイチに「友達と私のどっちが大事なの?」と聞くと「何言ってるんだよ、僕の友達はユウナの友達だろ」と言う。「それは違う」とユウナは思ってしまう。
 (以上、朝日新聞コラム「結婚未満」より引用要約。)


 早速、原左都子の私論に入ろう。

 私がユウナならば、おそらくタイチとは1ヶ月できっぱりと別れていただろうなあ。
 多忙な独身時代を送っていた私にとっては、まずタイチのお友達と“遊んでいる”時間など到底なかったものだ。 
 いえいえ、この私も彼氏の友達と共に時間を過ごしたことは何度かある。 だがそれは自分やあちらの仕事関連の相談会合だったり、あるいは私の方から希望して参加した飲み会だったりと、決してユウナのように彼氏からその友達との付き合いを強要される趣旨の類のものではあり得なかった。
 本エッセイ集のバックナンバーで綴っているが、ある時私は当時付き合っていた彼氏のアマチュアロックバンド仲間達と、一時のみロックバンドを結成し練習をした事がある。 その時、何とも言えない気まずい雰囲気だった事は今でも忘れないのだが、“にわか仕立ての寄り合いグループ”とはこれ程までに居心地が悪いものかと実感させられたものである。(特に、たとえアマチュアとは言え“ロッカー”とは自己主張が強い輩ばかりだしね~~)  そんな“事件”があったがために、私の内面で彼氏に対する印象すら悪化してしまったのだ。 それさえなければこの彼氏とはもう少し付き合いが続いたような気がしないでもないが、その後まもなく私の方から別れを告げた… 

 特に若い時代は“我がまま一辺倒”に人生を突き進んでいた原左都子の私事をここで語っても、らちが明かないことは自覚している。

 それにしても、ユウナは人が良すぎるのではあるまいか?
 ただ、10年間もの長きに渡ってタイチの地元の友達との付き合いを強要され続けそれにユウナが従ってきた背景には、ユウナ自身の“一種寂しい”事情もあったのかもしれない…。  若くして両親は外国暮らし、友達は世界中にいるとはいえネット上の付き合いに限定されている現在、ユウナにとって生身の人間との付き合いがあるタイチの存在は心の支えだったのかもしれない。

 そうだとしても、やはり友達の友達が即座に“自らの友達”として機能するべくはずなどないのだ。 
 10年もの長きに渡って付き合ってきて共に30代になっているユウナの心情を、タイチはどれ程理解できているのだろうか?


 最後に私事を紹介させていただこう。

 この私は日本の一過疎地であるド田舎出身者だ。 今から遡る事30数年前にそのド田舎の家族親戚そして友達等々の人間関係をすべて切り捨て単身で上京し、昔ながらの一種慣習的関係が一切ない環境地である大都会東京で生を営み続けている。
 元々潜在的自立心が旺盛だった(と後に分析する)原左都子故の特質なのかもしれないが、私は今現在もこの状態が一種“快感”ですらある。 
 こんなバックグラウンドを誇っている事を自負しているからこそ、私はこの地で今尚自己実現人生を歩めているのであろう。

 昨年のこの国の世相を反映したとの漢字である “絆” という言葉を分析するに、何度も言うが“絆”とは自分自身で主体的に築けてこそ初めてその字が生きた意味を持つはずである。 

 そうした場合、いきなり「友達の友達」がすなわち自分の「友達」であるはずがないのだ。

 人の個性とは元々多様性があるものだ。 
 個々人が自分自身の個性にもっとこだわりつつ、そんな存在の自分にとって真の意味で未来を築いていける相手と「友達」になりたいものである。