(写真は、昨日成人の日に娘、義母と共に出かけた東京巣鴨とげぬき地蔵にて撮影した娘と私の写真。)
我が娘はほぼ1年程以前から、来る自分の成人の日に自治体が主催する「成人式」に出席するべきか否かに関して大いに迷っていた。
そもそも集団内では極度に寡黙とならざるを得なかった高校生時代までの娘である。(大学生になっている現状に関しては集団内の様子を心得ていない母の私だが…。) そんな娘が「成人式」になど好んで出席するはずもないのか、との分析も可能であろう。
それ以前の問題として娘は現在の住居地には小学校3年の冬に転校して来たため、小学校時代の同級生とはわずかな期間の付き合いだ。 加えて中高時代は自宅から程遠い場所にある私学に通い、現在では地元の同級生と会合する機会が一切ない。 娘の談話によれば同じく電車で遠距離通学している小学校時代の同窓生も少数ながらいるはずだが、今となっては皆が大きくなり風貌が大幅に変化し、もし会っているとしても誰が誰だが識別不能状態との説明だ。 大学とて同様どころか学生の通学区域がより広範囲となるのは必然的で、付近には娘が通う大学へ通学する学生は誰一人として存在しない。
片や、娘の振袖は1年前に既に仕立て上がって手元に届いている。
その振袖を目の前にして、愚かな私は娘に告げた。 「成人式など私も出ていないからどっちでもいいけど、こんなに素晴らしい振袖が仕立て上がったんだから、大人になった自分の晴れ姿を皆に“披露”する意味で成人式に出席したらどうなの???」 それに対し、「う~~ん……」と考え込む我が娘だった。
その後1年足らずの年月が経過し、娘が出した結論とは 「やはり、成人式には出席しない。」である。
多少残念には思いつつ、性懲りもなくその「残念」の“意味合い”が親として低レベル過ぎる事にも気付かされる…。 (せっかく大枚はたいてあなたの振袖を仕立てたんだから…)との馬鹿さ加減……
いやはや、愚かな私だ。
可愛い娘に振袖を着せたい思いばかりが優先して、娘が「成人」するという本来の考察がすっかり抜け去っていたことを改めて思い知らされる私だ。 一方で、娘本人は自分なりの「成人」のあり方を見つめていた事に感激させられた次第である。
さてそんなこんなで、娘成人の日当日のスケジュールに関しては娘の考えを第一義として尊重実行することと相成った。
まずは娘振袖のスポンサーである祖母(私にとって義母)にそのお礼をする目的で、義母を招待しての「成人祝い会」を義母実家に程近い地の寿司屋個室を予約して執り行うことと決定した。
その前に振袖着付け及びヘアメイクを施した娘を、昨日、東京都心ターミナル駅に位置するファッションビル上階の美容室まで迎えに行った私だ。
その後混雑する人混みをかき分けつつ大都会を移動する我々に、視線を投げかけてくれるのはお年寄り達でしかない。 その他大勢の人の視線とは、「鬱陶しいなあ」「こんなところで振袖を来て歩かれても歩行の邪魔だ!」とでも言いたそうな様子が見て取れる有様だ。
(とにもかくにも都心とはいつも混雑しているのが現状と心得つつ)、私の関心は主に成人式前後の若年層(特に女性)に及ぶ…。 おそらくその年頃女性達とは、「自分と比べてどっちが綺麗だろうか??」なる感覚を内心抱きつつ我が娘の晴れ姿を横目ででも観賞するのかと思いきや、その無関心さには心底驚かされる事態だ。
当日は「成人の日」祝日であるが故に、若者達も数多くターミナル駅や首都圏交通機関に出没している。 にもかかわらず、振袖を着ている我が娘を(故意か自然体かは判断不能なものの)、皆が皆“無視”して通り過ぎるのだ。 その「不自然さ」にこそ私が驚かない訳もない。 もしも我が娘が振袖など着てチャラチャラ歩いている姿が癪に障るのならば、「バーカ!」「鬱陶しいよ!」などとの罵声でも浴びせてくれれば、よほど貴方たちの思いの程も分かる気がするのだが…
公教育に於ける「横並び教育の所産」(本エッセイ集2007年冬頃のバックナンバーをご参照下さい。)故に、これが現世に於いては自然の姿なのか。 あるいは今の厳しい世の中を生きねばならない若者達の「故意」の行動として「無視」を貫くのが“王道”であるのか。 計り知れない思いを抱きつつ我々一家は巣鴨とげぬき地蔵へと向かった。
片や、とげぬき地蔵までの道中でお会いする見知らぬ高齢者の皆さん(特に女性陣)の素直な我が子への「成人の激励」のお言葉の数々には感激ひとしおだったものだ。
上記写真も、とげぬき地蔵で一期一会した女性に撮影して頂いたものである。
寿司屋個室での親族会合を終えた後自宅に程近いメトロ駅に降り立った時点で、娘の振袖姿を見た通りがかりの同年齢層と思しき女性グループより、「“この子”は綺麗だ!」なる評価を頂いた。(その女性達が見たその他成人振袖女性は“綺麗ではなかった”のだろうか!?!)
いやはや、親の立場としては若年層より初めて頂戴した“お褒めのお言葉”に実に嬉しい思いだった。
その若者女性軍団の我が子への評価の程が“客観的”過ぎる事態に多少懸念を抱くものの、「好評」とはもらってこその思いを再確認しつつ自宅へ急いだ我が親子である。
それにしても、大都内で出会う若者層が周囲の人間や物事・出来事に“無関心”過ぎる事態に、大いなる懸念を抱かされた昨日だった。
「成人の日」を迎えた女性達が振袖を着ている姿など、確かにそれと無関係の若者にとっては二の次の命題ではあろう。
そうだとして、それ以外の社会現場で接する有事の出来事や現象に際しても、これら若者達が“無関心”や“知らんふり”を貫き通すことを常識としてるとすれば、これぞ学校現場の「横並び教育」の負の所産と結論付けたくなったのが昨日成人の日の私の雑感である。
我が娘はほぼ1年程以前から、来る自分の成人の日に自治体が主催する「成人式」に出席するべきか否かに関して大いに迷っていた。
そもそも集団内では極度に寡黙とならざるを得なかった高校生時代までの娘である。(大学生になっている現状に関しては集団内の様子を心得ていない母の私だが…。) そんな娘が「成人式」になど好んで出席するはずもないのか、との分析も可能であろう。
それ以前の問題として娘は現在の住居地には小学校3年の冬に転校して来たため、小学校時代の同級生とはわずかな期間の付き合いだ。 加えて中高時代は自宅から程遠い場所にある私学に通い、現在では地元の同級生と会合する機会が一切ない。 娘の談話によれば同じく電車で遠距離通学している小学校時代の同窓生も少数ながらいるはずだが、今となっては皆が大きくなり風貌が大幅に変化し、もし会っているとしても誰が誰だが識別不能状態との説明だ。 大学とて同様どころか学生の通学区域がより広範囲となるのは必然的で、付近には娘が通う大学へ通学する学生は誰一人として存在しない。
片や、娘の振袖は1年前に既に仕立て上がって手元に届いている。
その振袖を目の前にして、愚かな私は娘に告げた。 「成人式など私も出ていないからどっちでもいいけど、こんなに素晴らしい振袖が仕立て上がったんだから、大人になった自分の晴れ姿を皆に“披露”する意味で成人式に出席したらどうなの???」 それに対し、「う~~ん……」と考え込む我が娘だった。
その後1年足らずの年月が経過し、娘が出した結論とは 「やはり、成人式には出席しない。」である。
多少残念には思いつつ、性懲りもなくその「残念」の“意味合い”が親として低レベル過ぎる事にも気付かされる…。 (せっかく大枚はたいてあなたの振袖を仕立てたんだから…)との馬鹿さ加減……
いやはや、愚かな私だ。
可愛い娘に振袖を着せたい思いばかりが優先して、娘が「成人」するという本来の考察がすっかり抜け去っていたことを改めて思い知らされる私だ。 一方で、娘本人は自分なりの「成人」のあり方を見つめていた事に感激させられた次第である。
さてそんなこんなで、娘成人の日当日のスケジュールに関しては娘の考えを第一義として尊重実行することと相成った。
まずは娘振袖のスポンサーである祖母(私にとって義母)にそのお礼をする目的で、義母を招待しての「成人祝い会」を義母実家に程近い地の寿司屋個室を予約して執り行うことと決定した。
その前に振袖着付け及びヘアメイクを施した娘を、昨日、東京都心ターミナル駅に位置するファッションビル上階の美容室まで迎えに行った私だ。
その後混雑する人混みをかき分けつつ大都会を移動する我々に、視線を投げかけてくれるのはお年寄り達でしかない。 その他大勢の人の視線とは、「鬱陶しいなあ」「こんなところで振袖を来て歩かれても歩行の邪魔だ!」とでも言いたそうな様子が見て取れる有様だ。
(とにもかくにも都心とはいつも混雑しているのが現状と心得つつ)、私の関心は主に成人式前後の若年層(特に女性)に及ぶ…。 おそらくその年頃女性達とは、「自分と比べてどっちが綺麗だろうか??」なる感覚を内心抱きつつ我が娘の晴れ姿を横目ででも観賞するのかと思いきや、その無関心さには心底驚かされる事態だ。
当日は「成人の日」祝日であるが故に、若者達も数多くターミナル駅や首都圏交通機関に出没している。 にもかかわらず、振袖を着ている我が娘を(故意か自然体かは判断不能なものの)、皆が皆“無視”して通り過ぎるのだ。 その「不自然さ」にこそ私が驚かない訳もない。 もしも我が娘が振袖など着てチャラチャラ歩いている姿が癪に障るのならば、「バーカ!」「鬱陶しいよ!」などとの罵声でも浴びせてくれれば、よほど貴方たちの思いの程も分かる気がするのだが…
公教育に於ける「横並び教育の所産」(本エッセイ集2007年冬頃のバックナンバーをご参照下さい。)故に、これが現世に於いては自然の姿なのか。 あるいは今の厳しい世の中を生きねばならない若者達の「故意」の行動として「無視」を貫くのが“王道”であるのか。 計り知れない思いを抱きつつ我々一家は巣鴨とげぬき地蔵へと向かった。
片や、とげぬき地蔵までの道中でお会いする見知らぬ高齢者の皆さん(特に女性陣)の素直な我が子への「成人の激励」のお言葉の数々には感激ひとしおだったものだ。
上記写真も、とげぬき地蔵で一期一会した女性に撮影して頂いたものである。
寿司屋個室での親族会合を終えた後自宅に程近いメトロ駅に降り立った時点で、娘の振袖姿を見た通りがかりの同年齢層と思しき女性グループより、「“この子”は綺麗だ!」なる評価を頂いた。(その女性達が見たその他成人振袖女性は“綺麗ではなかった”のだろうか!?!)
いやはや、親の立場としては若年層より初めて頂戴した“お褒めのお言葉”に実に嬉しい思いだった。
その若者女性軍団の我が子への評価の程が“客観的”過ぎる事態に多少懸念を抱くものの、「好評」とはもらってこその思いを再確認しつつ自宅へ急いだ我が親子である。
それにしても、大都内で出会う若者層が周囲の人間や物事・出来事に“無関心”過ぎる事態に、大いなる懸念を抱かされた昨日だった。
「成人の日」を迎えた女性達が振袖を着ている姿など、確かにそれと無関係の若者にとっては二の次の命題ではあろう。
そうだとして、それ以外の社会現場で接する有事の出来事や現象に際しても、これら若者達が“無関心”や“知らんふり”を貫き通すことを常識としてるとすれば、これぞ学校現場の「横並び教育」の負の所産と結論付けたくなったのが昨日成人の日の私の雑感である。