朝日新聞5月30日「教育」ページに、「発達障害、プラスにできる仕事を」と題する記事を発見した。
この記事内容を読んで、原左都子は“マイナスイメージ”である種の不快感を抱かされたのだ。
とりあえずは、記事内容を以下に要約して紹介しよう。
今年3月末に、都内で高校生向けのビジネスプランニングコンテストが開かれた。 今年の大賞は3チーム。 その一つが「発達障害者の雇用システム」を提案したチームだった。
そのチームリーダーは、自ら発達障害を抱えている慶応大学所属20歳の学生氏だ。
当該学生氏曰く、「細かい事に注意を払い、じっとするのが苦手で好きなことに熱中してしまう。 反面、注意力が弱くても行動的で好きなことに夢中になれる。 そうプラスに見てくれる環境を作りたい。」 と訴えている。
(チームリーダー氏は)、幼い頃から考える子供だった。なぜ学校に行くのか、なぜ葉っぱは緑か、など… でも、大人は答えをくれなかった。 その後進学校に進んでも周囲の反応は同じ状態だった。 やがて、学校の外に居場所を求めるようになり、NPOに所属したりベンチャー企業でインターンシップをしたりする中で、「起業は物事を考えないとできない仕事。感覚が近いかも。」 自分が好きなことに挑戦しつつそれを仕事にして、「やりたいことをやりながら、ご飯も食っていきたい」
(このビジネスコンテストの大賞賞金とは100万円との事だが)、この元手で、来月会社設立の現実に向けて、発達障害者である当該若者は本格的準備に着手するらしい。
(以上、朝日新聞記事より要約引用。)
ここで一旦、原左都子の私事に入ろう。
昨日、郷里にて一人暮らしの我が実母から電話があった。
その内容とは、米国在住の我が実姉の“我がまま”に困惑しているとの趣旨だ。 我が姉は既に還暦を過ぎた年齢なのだが、我がまま放題の人生を貫いた挙句未だに母に電話で醜態を晒している現実のようだ。
その母からの電話に私応えて曰く、「あなたが平均寿命に達しようとしている現在に至って、何で60過ぎた娘の我がままを聞いてやってるの! 『いい加減にしろ!』と一言放てば済む話でしょう!」
ところが親とはたとえ実子と言えども、相手に得手不得手があるのだ。
次女の私に対しては好き勝手言える母が、その後電話で私に言うには、「あんたの娘と電話で話すとちょっとおかしいよ。 あれで大学卒業した後就職できるの??」
この現象に関して私から説明しよう。 要するに我が母にとって長女である米国在住娘の事を、次女である私から非難されたことが癪に障ったのだろう。 その復讐行為として、(自分にとって孫に当たる)我が娘の欠点を私相手に言い連ねたものと直ぐに分析出来た私だ。
そんな事に私が動じる訳もない。「あんたの心配には及ばないよ。我が娘は多少の個性は抱えているものの、今後世の中を十分に渡っていける教育を私が日々施しているよ。 それよりも、あなたこそ長女の教育を20歳までにきちんとするべきだったんじゃないの? それが出来てないから、未だに米国から我がまま放題の電話が来るんでしょ!」
原左都子の娘が出産時のトラブルにより産まれ持って抱えている事情に関する表面的瑕疵現象に関しては、当該エッセイ集に於いて小出しにしてきている。
(例えば、人とのコミュニケーション能力に関して苦手意識を抱えている事は事実であり、上記の祖母との事例ように、相手と直接相対しない電話での会話などその特質が表出するかもしれない。)
ただ重ねて言うが、私は娘本人の真なる成長を願いたいがために、娘小学校2年生以降は本人が抱え持つ事情に関して、たとえ学校現場とはいえどもその「医学診断名」を決して表ざたにしていないのはもちろんのこと、本人にも一切告げていない。
それを表ざたにする事による娘の将来に及ぶ“弊害”こそを回避するべきとの結論に達したからだ。
さて、冒頭の朝日新聞記事に戻ろう。
今回「ビジネスプランコンテスト」にて大賞をゲットした20歳の青年とは、自分が「発達障害者」である事を自覚しているようだ。
と言うことは、おそらく親がその旨本人に伝えたのであろう。 そして私の想像によれば、それを親から世間にも吹聴する事により、(失礼ながら親こそが)障害者社会保障特例に依存する等の手段で楽をしたかったのではなかろうか?
しかもこの家庭は、発達障害児である子供を慶応大学に入学させる程の経済力や縁故力もありそうだ。 更には、今回「ビジネスコンテストグランプリ」大賞に息子を輝かせた事実も、その後朝日新聞に取り上げさせた実態も、すべて親の“コネ力”ではないかと私は勘ぐっている。
最後に原左都子の私論で締めくくろう。
私に言わせてもらうと、「発達障害」とは、今尚医学的にその病態すべてが解明出来ているとは言い難い「障害」分野ではあるまいか? しかもその病態の程が個々により千差万別であるのも、この障害の特徴であろう。
もしも自分が産んだ子供に多少の不具合があり、それが医学関係者の判断で「発達障害児」に分類されたとて、親自身の能力範囲で育てられる自負があるならば、その子を「障害者」の位置付けから外し“普通の子”として成長を見守ってみては如何だろうか?
一番危険なのは、自分の子供に対して親自身から「あなたは発達障害児だ」と認識させてしまうことだと私は結論付ける。
何故ならば、発達障害児とは他者より秀でた高い能力をも有している一面があるからだ。 その能力こそを、外部機関に頼る前に親こそが見抜き大事に育成するべきである。
“ちょっと変”との世の馬鹿げた信憑性のない批判や中傷など、本人の高い能力部分と親の愛情及びバリア力でかわしつつ方向性を誤りさえしなければ、この世で健全に生き抜いていけるものと私は信じている!
この記事内容を読んで、原左都子は“マイナスイメージ”である種の不快感を抱かされたのだ。
とりあえずは、記事内容を以下に要約して紹介しよう。
今年3月末に、都内で高校生向けのビジネスプランニングコンテストが開かれた。 今年の大賞は3チーム。 その一つが「発達障害者の雇用システム」を提案したチームだった。
そのチームリーダーは、自ら発達障害を抱えている慶応大学所属20歳の学生氏だ。
当該学生氏曰く、「細かい事に注意を払い、じっとするのが苦手で好きなことに熱中してしまう。 反面、注意力が弱くても行動的で好きなことに夢中になれる。 そうプラスに見てくれる環境を作りたい。」 と訴えている。
(チームリーダー氏は)、幼い頃から考える子供だった。なぜ学校に行くのか、なぜ葉っぱは緑か、など… でも、大人は答えをくれなかった。 その後進学校に進んでも周囲の反応は同じ状態だった。 やがて、学校の外に居場所を求めるようになり、NPOに所属したりベンチャー企業でインターンシップをしたりする中で、「起業は物事を考えないとできない仕事。感覚が近いかも。」 自分が好きなことに挑戦しつつそれを仕事にして、「やりたいことをやりながら、ご飯も食っていきたい」
(このビジネスコンテストの大賞賞金とは100万円との事だが)、この元手で、来月会社設立の現実に向けて、発達障害者である当該若者は本格的準備に着手するらしい。
(以上、朝日新聞記事より要約引用。)
ここで一旦、原左都子の私事に入ろう。
昨日、郷里にて一人暮らしの我が実母から電話があった。
その内容とは、米国在住の我が実姉の“我がまま”に困惑しているとの趣旨だ。 我が姉は既に還暦を過ぎた年齢なのだが、我がまま放題の人生を貫いた挙句未だに母に電話で醜態を晒している現実のようだ。
その母からの電話に私応えて曰く、「あなたが平均寿命に達しようとしている現在に至って、何で60過ぎた娘の我がままを聞いてやってるの! 『いい加減にしろ!』と一言放てば済む話でしょう!」
ところが親とはたとえ実子と言えども、相手に得手不得手があるのだ。
次女の私に対しては好き勝手言える母が、その後電話で私に言うには、「あんたの娘と電話で話すとちょっとおかしいよ。 あれで大学卒業した後就職できるの??」
この現象に関して私から説明しよう。 要するに我が母にとって長女である米国在住娘の事を、次女である私から非難されたことが癪に障ったのだろう。 その復讐行為として、(自分にとって孫に当たる)我が娘の欠点を私相手に言い連ねたものと直ぐに分析出来た私だ。
そんな事に私が動じる訳もない。「あんたの心配には及ばないよ。我が娘は多少の個性は抱えているものの、今後世の中を十分に渡っていける教育を私が日々施しているよ。 それよりも、あなたこそ長女の教育を20歳までにきちんとするべきだったんじゃないの? それが出来てないから、未だに米国から我がまま放題の電話が来るんでしょ!」
原左都子の娘が出産時のトラブルにより産まれ持って抱えている事情に関する表面的瑕疵現象に関しては、当該エッセイ集に於いて小出しにしてきている。
(例えば、人とのコミュニケーション能力に関して苦手意識を抱えている事は事実であり、上記の祖母との事例ように、相手と直接相対しない電話での会話などその特質が表出するかもしれない。)
ただ重ねて言うが、私は娘本人の真なる成長を願いたいがために、娘小学校2年生以降は本人が抱え持つ事情に関して、たとえ学校現場とはいえどもその「医学診断名」を決して表ざたにしていないのはもちろんのこと、本人にも一切告げていない。
それを表ざたにする事による娘の将来に及ぶ“弊害”こそを回避するべきとの結論に達したからだ。
さて、冒頭の朝日新聞記事に戻ろう。
今回「ビジネスプランコンテスト」にて大賞をゲットした20歳の青年とは、自分が「発達障害者」である事を自覚しているようだ。
と言うことは、おそらく親がその旨本人に伝えたのであろう。 そして私の想像によれば、それを親から世間にも吹聴する事により、(失礼ながら親こそが)障害者社会保障特例に依存する等の手段で楽をしたかったのではなかろうか?
しかもこの家庭は、発達障害児である子供を慶応大学に入学させる程の経済力や縁故力もありそうだ。 更には、今回「ビジネスコンテストグランプリ」大賞に息子を輝かせた事実も、その後朝日新聞に取り上げさせた実態も、すべて親の“コネ力”ではないかと私は勘ぐっている。
最後に原左都子の私論で締めくくろう。
私に言わせてもらうと、「発達障害」とは、今尚医学的にその病態すべてが解明出来ているとは言い難い「障害」分野ではあるまいか? しかもその病態の程が個々により千差万別であるのも、この障害の特徴であろう。
もしも自分が産んだ子供に多少の不具合があり、それが医学関係者の判断で「発達障害児」に分類されたとて、親自身の能力範囲で育てられる自負があるならば、その子を「障害者」の位置付けから外し“普通の子”として成長を見守ってみては如何だろうか?
一番危険なのは、自分の子供に対して親自身から「あなたは発達障害児だ」と認識させてしまうことだと私は結論付ける。
何故ならば、発達障害児とは他者より秀でた高い能力をも有している一面があるからだ。 その能力こそを、外部機関に頼る前に親こそが見抜き大事に育成するべきである。
“ちょっと変”との世の馬鹿げた信憑性のない批判や中傷など、本人の高い能力部分と親の愛情及びバリア力でかわしつつ方向性を誤りさえしなければ、この世で健全に生き抜いていけるものと私は信じている!