4月中旬に自宅ベランダで転び左鎖骨と右手首を骨折し“全治2ヶ月”の診断後、明日6月12日でちょうど2ヶ月目を迎える。
5月後半頃からそろそろランニング練習を再開しようと志しつつも、5月下旬には季節外れの猛暑続き、そして梅雨入り直後より連日の豪雨に苛まれ、その計画が先延ばし状態だった。
将来五輪に出場する訳でもなく、たかが一ド素人ランナー(しかも高齢者域)の立場で何も練習再開をそんなに焦らずとも、ゆっくりと骨折の回復を待てばいいというのが大方のアドバイスであろう。
ところが一度骨折してみるとお分かり頂けるだろうが、そんな呑気な気分にはなれないものなのだ。
と言うのもバックナンバーでも記述済みだが、「骨折」とは“実に難儀な負傷”であることを実感させられっ放しの2カ月間だった。
その経緯を少し語ろう。
インフルエンザやノロウィルス感染罹患経験がある私だが、それらの場合、3日も寝込めば目に見えるように快方に向かっている我が体を実感でき、ああ生きててよかった!なる「生」に対する感謝の気持ちすら芽生えるものであろう。
ところが、これが一旦「骨折」となると、そうはいかない。
今日は回復しているだろうかと希望を持って朝起き上がろうとしても、(私の場合右左両腕に2箇所の骨折との最悪条件だったかもしれないが)、起き上がる動作すら簡単には叶わない。 やっとこさ起き上がって朝飯を作ろうとしても、これまた来る日も来る日も両腕が自由に使えない。 (それ以前の問題として、ギブスにコルセット着用状態では自力で着替えすら不自由なため、この2ヶ月間はずっと寝起き共に家庭内ではスポーツウェアで過ごすとの不本意状態も強いられ続けた…)
この状態とは、まるで牢獄にでも入れられている気分だ。 あるいは、独裁政権や歪んだ宗教統制の下に、不自由を強いられている市民の感覚と同様だ。 はたまた、老人施設に入居した要介護のお年寄りがケアスタッフの言いなりになり、最悪の場合爪でも剥がれるのかとの恐怖心すら苛まれる。
「骨折」との過酷な現実を一日も早く脱出しない事には、私はその歪んだ統制下で“不自由を強いられる”事に慣れてしまい、そのうち健全な人格を取り戻そうとの精神力すら失ってしまうであろう…
冗談抜きで、そんな恐怖心にすら苛まれていたのだ。
そんな私は、骨折当初より外科受診や買い物等の外出時に“お洒落”をして出かける事から“自分を取り戻す行動”を開始した。
何分不自由な両腕で洋服を上から着る事が難儀なため、下から着用可能な肩が大きく開いた洋服を家中物色し、結局娘の“ド派手”ワンピースを数枚借用することとした。 両腕が首までしか届かない状態で、化粧をせずして家から出ない根性も健在だった。
まずは外観を整えた私だが、それでも骨折状態はさほど快方に向かわず、次なる手段を考察した。
やはり自分が欲する行動を早期に取るべきだ! との理由で骨折直後より再開したのが当該「原左都子エッセイ集」である。
ただやはり私としては、総合的観点から我が日常を主体的に取り戻したい思いに駆られ続けていた。
そんな中、我が不運はまだまだ続く。
娘専用パソコンが古いバージョンのため“パワーポイント”機能が装備されておらず、買替えをしないと大学のレポート課題の提出すらままならない事態が発覚した。 (骨折する前に言ってよ… と思いつつ、娘のパソコン買替に付き合った。)
5月末の猛暑直前に、家庭内エアコンをすべて最新型に切り替える結論も出した。 それに際し買替え手配を自ら執行せねばならない“骨折の身の”私は、上記機種切り替え作業にも時間を取られた。
もっと不運な事には私の携帯電話も故障し、それを修理に出さねばならない運命にも遭った…(未だ修理中。 しかも借り物携帯が私の故障携帯よりも劣悪で、一日3回充電を要する始末…)
更には、昨年死去した義理姉の一周忌を6月末に実施するからその花束を持参して出席欲しいとの義母よりの電話もあれば、実母からは米国在住の姉に関する苦情が届く始末だ…
もっと言うと、我が住まいであるマンション物件が現在第1回大規模修繕期を迎えている。これに関しても、私はその計画案に関して意見書を提出し続けている。
極めつけは、我が所有の「賃貸マンション」である。 既に築年数が経過し、大いなる瑕疵問題を抱えている。 これの対応策も今後に続く我が深刻な課題である。
それら“踏んだり蹴ったり”の事務課題すべてを“骨折の身で”一応順調に進めつつ、それでも私は自分自身がやりたい事こそを実践したい思いに駆られていた。
そして、昨日ついにその一つを成し遂げたのだ!
それは表題に提示した「5㎞ランニング練習」である。
ランニング中とは、上記に示したような“我が身にまつわる(心理内)無理難題”をすべて払拭してくれそうな効用が期待できるのだ。
それはどういう事かと説明すると、ランニング中(私の場合は)いつも体力極限状態で、自分の息や心臓の負担が続く事だけを祈り走っているとも言える。 実際には我が心肺状態は良好で、今まで一度たりとてランニング中に不具合状態に襲われた事が無い事を幸運と捉え、これも我が自信に繋げているのだが。
昨日の5㎞ランニング練習は、正直なところ過去最悪タイムを記録したに過ぎない。
それでも私自身としては、やっと自分自身の「骨折負傷」より一歩踏み出せた思いである。
まだまだ鎖骨骨折の左腕はまっすぐ上まで上がらないし、右手首骨折に関しても肘から下に未だ痛みがある。 そんな不具合を抱えている身にして、自分の意思で前進せんとの精神力が内在している事実に、自ら感動出来る事こそが素晴らしいと評価したい。
上記に記したごとく、独裁政権下や歪んだ宗教統制下に不自由を強いられている市民の皆さんも、今後同じ目に遭いそうな「集団的自衛権」議論下にある“何処かの国民の皆さん”も、それらの重圧を自分自身の力で打破してこそ、この世に生き延びれると気付く事に期待したいものだ。
5月後半頃からそろそろランニング練習を再開しようと志しつつも、5月下旬には季節外れの猛暑続き、そして梅雨入り直後より連日の豪雨に苛まれ、その計画が先延ばし状態だった。
将来五輪に出場する訳でもなく、たかが一ド素人ランナー(しかも高齢者域)の立場で何も練習再開をそんなに焦らずとも、ゆっくりと骨折の回復を待てばいいというのが大方のアドバイスであろう。
ところが一度骨折してみるとお分かり頂けるだろうが、そんな呑気な気分にはなれないものなのだ。
と言うのもバックナンバーでも記述済みだが、「骨折」とは“実に難儀な負傷”であることを実感させられっ放しの2カ月間だった。
その経緯を少し語ろう。
インフルエンザやノロウィルス感染罹患経験がある私だが、それらの場合、3日も寝込めば目に見えるように快方に向かっている我が体を実感でき、ああ生きててよかった!なる「生」に対する感謝の気持ちすら芽生えるものであろう。
ところが、これが一旦「骨折」となると、そうはいかない。
今日は回復しているだろうかと希望を持って朝起き上がろうとしても、(私の場合右左両腕に2箇所の骨折との最悪条件だったかもしれないが)、起き上がる動作すら簡単には叶わない。 やっとこさ起き上がって朝飯を作ろうとしても、これまた来る日も来る日も両腕が自由に使えない。 (それ以前の問題として、ギブスにコルセット着用状態では自力で着替えすら不自由なため、この2ヶ月間はずっと寝起き共に家庭内ではスポーツウェアで過ごすとの不本意状態も強いられ続けた…)
この状態とは、まるで牢獄にでも入れられている気分だ。 あるいは、独裁政権や歪んだ宗教統制の下に、不自由を強いられている市民の感覚と同様だ。 はたまた、老人施設に入居した要介護のお年寄りがケアスタッフの言いなりになり、最悪の場合爪でも剥がれるのかとの恐怖心すら苛まれる。
「骨折」との過酷な現実を一日も早く脱出しない事には、私はその歪んだ統制下で“不自由を強いられる”事に慣れてしまい、そのうち健全な人格を取り戻そうとの精神力すら失ってしまうであろう…
冗談抜きで、そんな恐怖心にすら苛まれていたのだ。
そんな私は、骨折当初より外科受診や買い物等の外出時に“お洒落”をして出かける事から“自分を取り戻す行動”を開始した。
何分不自由な両腕で洋服を上から着る事が難儀なため、下から着用可能な肩が大きく開いた洋服を家中物色し、結局娘の“ド派手”ワンピースを数枚借用することとした。 両腕が首までしか届かない状態で、化粧をせずして家から出ない根性も健在だった。
まずは外観を整えた私だが、それでも骨折状態はさほど快方に向かわず、次なる手段を考察した。
やはり自分が欲する行動を早期に取るべきだ! との理由で骨折直後より再開したのが当該「原左都子エッセイ集」である。
ただやはり私としては、総合的観点から我が日常を主体的に取り戻したい思いに駆られ続けていた。
そんな中、我が不運はまだまだ続く。
娘専用パソコンが古いバージョンのため“パワーポイント”機能が装備されておらず、買替えをしないと大学のレポート課題の提出すらままならない事態が発覚した。 (骨折する前に言ってよ… と思いつつ、娘のパソコン買替に付き合った。)
5月末の猛暑直前に、家庭内エアコンをすべて最新型に切り替える結論も出した。 それに際し買替え手配を自ら執行せねばならない“骨折の身の”私は、上記機種切り替え作業にも時間を取られた。
もっと不運な事には私の携帯電話も故障し、それを修理に出さねばならない運命にも遭った…(未だ修理中。 しかも借り物携帯が私の故障携帯よりも劣悪で、一日3回充電を要する始末…)
更には、昨年死去した義理姉の一周忌を6月末に実施するからその花束を持参して出席欲しいとの義母よりの電話もあれば、実母からは米国在住の姉に関する苦情が届く始末だ…
もっと言うと、我が住まいであるマンション物件が現在第1回大規模修繕期を迎えている。これに関しても、私はその計画案に関して意見書を提出し続けている。
極めつけは、我が所有の「賃貸マンション」である。 既に築年数が経過し、大いなる瑕疵問題を抱えている。 これの対応策も今後に続く我が深刻な課題である。
それら“踏んだり蹴ったり”の事務課題すべてを“骨折の身で”一応順調に進めつつ、それでも私は自分自身がやりたい事こそを実践したい思いに駆られていた。
そして、昨日ついにその一つを成し遂げたのだ!
それは表題に提示した「5㎞ランニング練習」である。
ランニング中とは、上記に示したような“我が身にまつわる(心理内)無理難題”をすべて払拭してくれそうな効用が期待できるのだ。
それはどういう事かと説明すると、ランニング中(私の場合は)いつも体力極限状態で、自分の息や心臓の負担が続く事だけを祈り走っているとも言える。 実際には我が心肺状態は良好で、今まで一度たりとてランニング中に不具合状態に襲われた事が無い事を幸運と捉え、これも我が自信に繋げているのだが。
昨日の5㎞ランニング練習は、正直なところ過去最悪タイムを記録したに過ぎない。
それでも私自身としては、やっと自分自身の「骨折負傷」より一歩踏み出せた思いである。
まだまだ鎖骨骨折の左腕はまっすぐ上まで上がらないし、右手首骨折に関しても肘から下に未だ痛みがある。 そんな不具合を抱えている身にして、自分の意思で前進せんとの精神力が内在している事実に、自ら感動出来る事こそが素晴らしいと評価したい。
上記に記したごとく、独裁政権下や歪んだ宗教統制下に不自由を強いられている市民の皆さんも、今後同じ目に遭いそうな「集団的自衛権」議論下にある“何処かの国民の皆さん”も、それらの重圧を自分自身の力で打破してこそ、この世に生き延びれると気付く事に期待したいものだ。