原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

一周忌法要の日に我が目に映った親族たちの光景

2014年06月29日 | 人間関係
 癌告知より7カ月間に渡る壮絶な膵臓癌闘病の後、昨年6月末に63歳にて命を終焉した義理姉の一周忌法要が、昨日都内墓地にて執り行われた。


 一昨年12月に身体の異常を訴えた義理姉の体内は、既に癌に侵されていた。
 即刻入院となり諸検査の結果、「膵臓癌末期、手術不能」の診断が下ると同時に、親族は余命3ヶ月~1年の宣告を受けた。
 本人自身が担当医にその事態を確認した上で医師より提示された余命を受入れ、抗癌剤投与を一切拒否して死期を待つ選択を下した。
 今後の将来に向けてまだまだ数多くの夢を抱いていた義理姉は、ホスピスでの病床にありながらそれら夢の実現を目指していたようだ。 と同時に近しい親族以外の面談を一切遮断し、心静かに死期を待つ覚悟も備えていた…。 
 昨年5月頃、医師より「後数日の命…」の診断が下った日、義理姉は自宅に戻って「死に際」を迎える選択をした。 ところがその後の生命力の程が物凄かった。 自宅ではホスピスにて体内に繋げていたチューブ類すべてを取り外し、経口投与可能な流動物のみ摂取状態でその後1ヶ月以上も命を繋いだ。 
 そして6月末のある日の早朝、義理姉は自宅ベッドにて静かに息を引き取った… 

 昨年7月初頭に施された義理姉葬儀の日は、夏の時期にして爽やかに晴れ渡り空気が澄んでいた印象がある。
 義理姉が亡くなった日の早朝に、自宅の庭に黄色の大輪の花が開花したそうだ。 それをご主人が押し花にして葬儀会場に持参し、棺桶に奉納しお別れした事が昨日の事のように我が映像として蘇る…。


 あれから1年が経過した。

 昨日の義理姉一周忌法要は、あいにくの梅雨時期末期の雨天に見舞われた。
 少し遅れてやってきた義母が、「1年なんて直ぐに過ぎるものね。 それにしても今日はこの雨模様で参列して下さった皆さんに申し訳ない思いだわ…。 あの子(義理姉)は気性の激しい所があったから、一周忌にこんな雨を降らせたのかしらね……」
 結局、墓地にての法要の時間帯は雨が降りやまないままだった。


 その後、一周忌会場は故人(義理姉)のご主人氏が事前に予約してくれていた「洋食店」へと移ろいだ。

 これに参加したのは、私も含めて6名である。 その内訳とは、義理姉血族が3名、後は血縁関係の無い親族達(私もその一員)である。

 ここで今回一周忌法要を迎えた我が義理姉親族に関して少し説明するならば、元々実業家一家であり過去の時代に於いて少なからずの営業利益を上げ続けて来た一族である。
 先々々(?)代が江戸日本橋に起業し代々引き継いで来た事業だが、残念ながら昭和戦後世代に移行して以降は、義理姉及び我が亭主が家業を引き継ぐ意思がないことが判明した時点で、義理母の判断にて事業すべてを“赤の他人”に有償で営業譲渡したとの歴史がある。
 現在に至っては手元財産運用の一環として「不動産貸付」を実施しており、その財産管理一切を長男の嫁であるこの私が義母より一任されている事に関しては、バックナンバーにても公開している。

 以上のような親族内の“力関係”の中、法要の席で血縁関係の無い私から発言出来る事柄など限られているのは重々承知の上だ。
 二次会「洋食店」会場にても、過去に事業を継続して多額の利益を計上し続けた“実質的権力者”である「義理母」中心に事が運ぶことなど「他人」の立場である私も重々承知の上だ。
 
 他家に嫁いだ立場の「他人」にとっては、嫁ぎ先一族内の力関係を把握せずして一族の一員として機能し得ない事を、この期に及んで改めて学習する思いだ。
 

 などと不謹慎な私事を綴り公開している以前の課題として、義理姉一周忌法要がすべて修了して帰宅した昨夜、ケアマンションに住む義理母より夜遅い時間帯に電話を頂戴した。

 「〇子さん(私の事)にはいつもお世話になっています。 本日は娘(私にとって義理姉)の一周忌に参列して下さいましてありがとうございました。 今後も青色申告等私の所有財産管理に関しては〇子さんにお世話にならないと事が済みませんので、引き続きどうか何卒よろしくお願いします。」 

 一族の要の立場で未だ君臨しそれを一族皆が暗黙の内に認めている“義理母”より、所有財産管理統括を今後も継続して欲しい意向を改めて受けたからには、私も今一度気持ちを引き締めその使命を果たし続ける事となろう。