私は、神社のおみくじで「凶」を引いた経験がある。
今から6年前の当エッセイ集2009年1月3日バックナンバー 「今年も大吉で行こう!」 に於いてその詳細を綴っているため、以下に今一度一部を要約して紹介しよう。
私は普段は星座や血液型、手相等々の「占い」にはさして関心のない人間なのだが、新年の初詣の際に「おみくじ」だけは毎年欠かさず引く習慣がある。 これには私なりの隠された“苦い過去”があるためだ。
今を遡ることウン十年前の高校生時代に、私は神社のおみくじで「凶」を引いた。 学校の夏休み中に、遠方の友人の家に別の友人と2人で泊りがけで遊びに行った。 真面目で健全な(?)高校生だったため、喫煙したり飲酒したりということは一切ないのだが、友人宅にルーレットやダーツなどの“賭博おもちゃ”がいろいろと装備されていて、それに3人ではまり深夜まで楽しんでいた。 おそらくチョコレートやキャンディなどのお菓子を賭けて遊んでいたのだと思う。
不思議現象は既にその時から始まっていた。 どうしたことか、私が大当たり大儲けの連続なのである。 それはもう“神がかり”としか言いようのない程、当たって当たって当たりまくるのだ。 例えば、ルーレットでは数字そのものがズバリと連続で何度も当たる! 他の友人達も負けて悔しいと言うよりも、私の当たり様がまさに“神がかり的”で皆で怖くなるほどだった。
さて次の日、宿泊させてもらったお宅の友人のお父上(開業医であられた)が、私達のために仕事を中断して隣県までドライブに連れて行って下さった。 道中に神社があり、そこでお参りをすることになった。高校生故にまだまだ子どもの私達は「占い」に関心がある。 3人で「おみくじ」を引いて比べっこすることしにしたところ、そこで私が引き当てたのが「凶」だったのだ。
神社にもよるようだが、おみくじで「凶」を引き当てる確率は至って低い(あるいは元々「凶」を入れていない神社もあるらしい)と聞いている。 その「凶」をまたまた引き当てた私に友人の一人が言う。「○ちゃん(私の名前)、昨日の“神がかり”がまだ続いてるね……」 まだまだ子どもである事が幸いして、「凶」を引き当てた事が物珍しい程度で、さほど気にするでもなく時間が過ぎた。
その後、列車で自宅への帰路に着くのだが事件はそこから始まる。
ターミナル駅でのバスへの乗り換え待ち時間に、友人とショッピングをしてから帰ろうということになり、無謀にも手荷物(お土産も入れて一人3個ずつ計6個)を駅構内に置きざりにしたまま街へ出かけた。 ショッピングを終えて駅に帰ると、私の荷物3個が跡形もなく全部消え去っている!! 友人の荷物はすべて残っているのに、何とも不思議な光景だ。
少し心当たりがあった。 列車の中で、薄着のTシャツ、ミニスカート姿で友人よりも体を露出していた長身の私は、見知らぬ男に目をつけられているような気配を感じていた。 列車を降りた後も、その男が後からついて来ているような不気味感があった。 後にその事実を警察の事情聴取にて話したのだが、結局荷物は見つからずじまいだった…。 忽然と消えた旅行かばんの中には私の身分が証明できる学生証や学習教材等々と共に、汚れた服や下着が沢山入っていた。
後々まで不気味感は続いた。 未だ未成年のうら若き私にとって、「凶」を実感させられた事件だった。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)
その事件後表立った被害には遭わなかったものの、忽然と消えた旅行かばんが発見される事は無く、不気味さを引きずる日々を送った。
それに懲りた私は、その後長年に渡って神社のおみくじを引く事はなかった。
さて、今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、1月3日付朝日新聞 別刷「be」between 「おみくじで『凶』が出たらヘコむ?」 との記事だ。
そのアンケート結果によれば、「はい」が38%、「いいえ」が62%と、「いいえ」優勢である。
おそらく「いいえ」と答えた人種とはそもそも「凶」を引いた経験が無いのではあるまいか?
片や「はい」と回答した人の中にも「凶はほとんど出ないはず」との楽観視派が多いのに加えて、「それ相応の理由があるはず」なる自己否定派や、「神仏のお告げ」なる信心深い人種も多いようだ。
ここで一旦、原左都子の私事及び私論に入ろう。
私の場合上記アンケート結果のいずれにも属さない事は明白だ。
一つ言えるのは、若き時代に神社で「凶」を引いた直後に偶然犯罪被害に遭遇した事態が、後々我が恐怖心を煽り続けている事は間違いない。 それが“神の思し召し”だったのか“必然性があった”のかに関しては我が専門外の事象であり論評不能である。 とにかく未熟な時代に経験した犯罪事件と「凶」とが今尚我が心理面で一つのトラウマとして合体してしまっている事は、揺るぎない事実である。
そんな私も、(おそらく娘を産んだ頃からと心得るが)正月には神社へ行って、おみくじを引くとの行動を再開したものだ。
それには、私なりの理由がある。
「凶」を引き当てる事実から逃げていてはならない! いつまでも過去のトラウマに囚われているのではなく、神社のおみくじくらい引いても罰が当たらない、と思い直したのだ。
その後、私はおみくじで「凶」を引き当てた事はない。
ところが、昨年(2014年)私は神社でおみくじを引いていない。
それが何故だったのかに関して記憶が薄いのだが、おそらく娘の成人の日の準備等で多忙だった故かもしれない。 それでも一応小さな神社で娘と共に初詣だけはしたのだが、何分小規模神社故に「おみくじ機械」すら設置されていなかった…
そうしたところ昨年(2014年)私は、我が人生に於いて稀にみる災難に幾度も見舞われる事態と相成った。 複数箇所の同時骨折に加え、我が所有賃貸物件入居者からの恐喝まがいの金銭請求による多大損失計上。 そして現在面倒をみている義母・実母が確実に老け込み我がケア負担が増大する始末だ…。
生粋の無宗教者にして、原左都子の論理で思う事があるのだ。
困難から逃避してはならないと。
我が人生に於ける最大の犯罪被害、高校生時代の(汚れた下着が一杯入った旅行鞄の)“置き引き事件”をいつまでもトラウマとして心理内に持ち続けるのではなく、私は私らしく強く生き抜くべきだ!
そのリベンジとして私は今後共、新年には神社参りをしておみくじを引こうと志している。
ところが本年に至っては、未だそれを実現する暇がないのが実情だ。
“七草粥”の1月7日までには近くの神社へ初詣して、是非おみくじを引いて来よう!
今から6年前の当エッセイ集2009年1月3日バックナンバー 「今年も大吉で行こう!」 に於いてその詳細を綴っているため、以下に今一度一部を要約して紹介しよう。
私は普段は星座や血液型、手相等々の「占い」にはさして関心のない人間なのだが、新年の初詣の際に「おみくじ」だけは毎年欠かさず引く習慣がある。 これには私なりの隠された“苦い過去”があるためだ。
今を遡ることウン十年前の高校生時代に、私は神社のおみくじで「凶」を引いた。 学校の夏休み中に、遠方の友人の家に別の友人と2人で泊りがけで遊びに行った。 真面目で健全な(?)高校生だったため、喫煙したり飲酒したりということは一切ないのだが、友人宅にルーレットやダーツなどの“賭博おもちゃ”がいろいろと装備されていて、それに3人ではまり深夜まで楽しんでいた。 おそらくチョコレートやキャンディなどのお菓子を賭けて遊んでいたのだと思う。
不思議現象は既にその時から始まっていた。 どうしたことか、私が大当たり大儲けの連続なのである。 それはもう“神がかり”としか言いようのない程、当たって当たって当たりまくるのだ。 例えば、ルーレットでは数字そのものがズバリと連続で何度も当たる! 他の友人達も負けて悔しいと言うよりも、私の当たり様がまさに“神がかり的”で皆で怖くなるほどだった。
さて次の日、宿泊させてもらったお宅の友人のお父上(開業医であられた)が、私達のために仕事を中断して隣県までドライブに連れて行って下さった。 道中に神社があり、そこでお参りをすることになった。高校生故にまだまだ子どもの私達は「占い」に関心がある。 3人で「おみくじ」を引いて比べっこすることしにしたところ、そこで私が引き当てたのが「凶」だったのだ。
神社にもよるようだが、おみくじで「凶」を引き当てる確率は至って低い(あるいは元々「凶」を入れていない神社もあるらしい)と聞いている。 その「凶」をまたまた引き当てた私に友人の一人が言う。「○ちゃん(私の名前)、昨日の“神がかり”がまだ続いてるね……」 まだまだ子どもである事が幸いして、「凶」を引き当てた事が物珍しい程度で、さほど気にするでもなく時間が過ぎた。
その後、列車で自宅への帰路に着くのだが事件はそこから始まる。
ターミナル駅でのバスへの乗り換え待ち時間に、友人とショッピングをしてから帰ろうということになり、無謀にも手荷物(お土産も入れて一人3個ずつ計6個)を駅構内に置きざりにしたまま街へ出かけた。 ショッピングを終えて駅に帰ると、私の荷物3個が跡形もなく全部消え去っている!! 友人の荷物はすべて残っているのに、何とも不思議な光景だ。
少し心当たりがあった。 列車の中で、薄着のTシャツ、ミニスカート姿で友人よりも体を露出していた長身の私は、見知らぬ男に目をつけられているような気配を感じていた。 列車を降りた後も、その男が後からついて来ているような不気味感があった。 後にその事実を警察の事情聴取にて話したのだが、結局荷物は見つからずじまいだった…。 忽然と消えた旅行かばんの中には私の身分が証明できる学生証や学習教材等々と共に、汚れた服や下着が沢山入っていた。
後々まで不気味感は続いた。 未だ未成年のうら若き私にとって、「凶」を実感させられた事件だった。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)
その事件後表立った被害には遭わなかったものの、忽然と消えた旅行かばんが発見される事は無く、不気味さを引きずる日々を送った。
それに懲りた私は、その後長年に渡って神社のおみくじを引く事はなかった。
さて、今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、1月3日付朝日新聞 別刷「be」between 「おみくじで『凶』が出たらヘコむ?」 との記事だ。
そのアンケート結果によれば、「はい」が38%、「いいえ」が62%と、「いいえ」優勢である。
おそらく「いいえ」と答えた人種とはそもそも「凶」を引いた経験が無いのではあるまいか?
片や「はい」と回答した人の中にも「凶はほとんど出ないはず」との楽観視派が多いのに加えて、「それ相応の理由があるはず」なる自己否定派や、「神仏のお告げ」なる信心深い人種も多いようだ。
ここで一旦、原左都子の私事及び私論に入ろう。
私の場合上記アンケート結果のいずれにも属さない事は明白だ。
一つ言えるのは、若き時代に神社で「凶」を引いた直後に偶然犯罪被害に遭遇した事態が、後々我が恐怖心を煽り続けている事は間違いない。 それが“神の思し召し”だったのか“必然性があった”のかに関しては我が専門外の事象であり論評不能である。 とにかく未熟な時代に経験した犯罪事件と「凶」とが今尚我が心理面で一つのトラウマとして合体してしまっている事は、揺るぎない事実である。
そんな私も、(おそらく娘を産んだ頃からと心得るが)正月には神社へ行って、おみくじを引くとの行動を再開したものだ。
それには、私なりの理由がある。
「凶」を引き当てる事実から逃げていてはならない! いつまでも過去のトラウマに囚われているのではなく、神社のおみくじくらい引いても罰が当たらない、と思い直したのだ。
その後、私はおみくじで「凶」を引き当てた事はない。
ところが、昨年(2014年)私は神社でおみくじを引いていない。
それが何故だったのかに関して記憶が薄いのだが、おそらく娘の成人の日の準備等で多忙だった故かもしれない。 それでも一応小さな神社で娘と共に初詣だけはしたのだが、何分小規模神社故に「おみくじ機械」すら設置されていなかった…
そうしたところ昨年(2014年)私は、我が人生に於いて稀にみる災難に幾度も見舞われる事態と相成った。 複数箇所の同時骨折に加え、我が所有賃貸物件入居者からの恐喝まがいの金銭請求による多大損失計上。 そして現在面倒をみている義母・実母が確実に老け込み我がケア負担が増大する始末だ…。
生粋の無宗教者にして、原左都子の論理で思う事があるのだ。
困難から逃避してはならないと。
我が人生に於ける最大の犯罪被害、高校生時代の(汚れた下着が一杯入った旅行鞄の)“置き引き事件”をいつまでもトラウマとして心理内に持ち続けるのではなく、私は私らしく強く生き抜くべきだ!
そのリベンジとして私は今後共、新年には神社参りをしておみくじを引こうと志している。
ところが本年に至っては、未だそれを実現する暇がないのが実情だ。
“七草粥”の1月7日までには近くの神社へ初詣して、是非おみくじを引いて来よう!