ここ数年、何処へ行っても(身内高齢者を含め)お年寄り達と縁がある私だが、彼ら(彼女ら)ご高齢者の皆さんを観察したり会合したりする日々の中、思う事がある。
先だって公園で行きずりの92歳のご婦人と出会い、一緒に一時ダンスを踊り立ち話をした話題をエッセイに綴った。
公園ダンス歴が既に7,8年になる私だが、行きずりの関係で話しかけて下さるのは大抵がお年寄りだ。
小学生くらいまでの子供達も、私がダンスを踊っているのを見ると興味深そうに立ち止まったりはするが、話しかけてくることはまずない。 その他の世代はチラリと視線を投げてくることはあれど、決して近づいては来ないし、大方は見ないふりをして去って行く。
そうそう。 ある時犬を連れて散歩中の中年女性とお話をした事がある。
この時の状況を述べると、ダンスをしている私を女性が連れていた犬が立ち止まってじっと見るのだ。(同様のシチュエーションはよくあるが、大抵は 飼い主が “こら、見るな!” と言わんばかりに犬の首のロープを無理やり引っ張って連れ去って行く。)
ところが、その女性は違った。 犬の“意思”を尊重し一緒に立ち止まったのだ。 それに気が付いた私はダンスをやめ女性と犬の所へ行って挨拶した後、犬のすぐそばに座って私に注目してくれた犬の頭を撫でた。 その行動で犬が私に懐いてくれ何とも可愛いので、「こんなに懐いてくれるのですね。可愛いですね!」と本心を述べると、「もしかしたら犬を飼われていますか? 犬の匂いに惹かれたりするようです。」と女性。 「いえ、飼っていませんが、こんなに可愛いならば飼いたくなりますね!」 などと話していると、女性が「ダンスのお邪魔をしてごめんなさい。」とおっしゃるので、「こちらこそ、可愛いご愛犬に懐いて頂きありがとうございました。」と挨拶した。 その後も犬は、私の方を何度も振り返りつつ散歩道を去って行った。
あっと、話題がついつい横道に外れ、我が公園での“行きずりの出会い物語”になってしまったようだ。
ここで、今回のテーマに戻そう。
上記、公園でダンスを一緒に踊った92歳のご婦人を “Aさん” としよう。
このAさん、元々明るく人見知りをしないタイプのようだ。 おそらく、日々散歩中に出会った人達との会話を楽しんでおられる事だろう。
加えて、私がAさんに感心させられた一番の理由は、お亡くなりになったご亭主の話題に一切触れなかった事だ。 私が察するに、ご亭主が亡くなってからさほどの年月が経過していないと推測出来るにもかかわらず…。
これに比し、例えば昨年のイタリア個人旅行中に出会った日本人団体旅行客の女性高齢者(78歳との事だったが)など、イタリアでの我々母娘との一期一会の出会い中に、亡くなったご亭主の介護の様子を事細かく話されるのだ。
海外旅行にまで出て、何故異国のこの地で出会った見知らぬ他人にご自身のご亭主の話題を中心に設定するのか??、と聞いてあげながら辟易とさせられたものだ。 おそらく同国人ならばご自身の辛さを理解してもらえると期待し、心の内を打ち明けたのだろう。
この78歳のご婦人は、「主人が亡くなった今、私にとって旅行こそが楽しみ!」 とおっしゃるのだが。 そうであるならば尚更、亡くなったご亭主の介護の辛さを旅先で行きずりの人に聞いてもらうとの手段を取るご自身の心理状態こそに決着を付けない内は、その辛さからいつまでも解放されないのではなかろうか??、と無情にも感じざるを得なかった……。
確かに、高齢域に達して一人残される配偶者のその後の生き様とは、先に他界するご亭主(奥方)の年齢により大きく左右されるのかもしれない。
上記イタリア旅行中に知り合った女性の場合、未だ78歳。 おそらくもっとご亭主と共に生きて行かれようと志されていたのだろう。
片や、92歳のAさん。 男性の平均寿命を鑑みると、ご亭主はあらかじめ予想可能なご年齢にての他界だったのかと推測可能だ。 それ故に、ご自身が92歳に至ってあれ程にお元気で、今現在も公園内を散歩しつつ私にまでお声を掛けて下さったのかと嬉しく思う。
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
現在、高齢者有料介護施設へ入居中の我が身内高齢者2名(義母及び実母)の保証人を任されている関係で、必然的に普段より高齢者に関心が向くのは現在の我が宿命であるとして。
そのお陰の長所として、私は世間で知り合う高齢者の皆様に対し“興味が持てるようになった”と自己分析するのだ。
ただ、この世の誰が高齢者に興味を持つんだ!? というのが世間一般の本音ではなかろうか。
高齢者対策と政権をはじめ各種公的機関が大騒ぎしている割には、特に核家族の若い世代程、そんなの他人事と考え無関心でいる事に間違いないだろう。
下手をすると、身内高齢者より如何に高額年金を巻き上げるか?? にまで若い世代家族内での魂胆が及んでは、刑事事件にまで発展しそうだ。
高齢者にとっては、身内に身を斬られそうな今の厳しい世の中である事に間違いないだろう。
そんな逆境の下、高齢者自身こそが老齢初期段階から身内をはじめとする他者に依存することなく、いつまでも主体性を持ち自力で生き抜くことこそが身を助けるものと、私は信じるのだが…
先だって公園で行きずりの92歳のご婦人と出会い、一緒に一時ダンスを踊り立ち話をした話題をエッセイに綴った。
公園ダンス歴が既に7,8年になる私だが、行きずりの関係で話しかけて下さるのは大抵がお年寄りだ。
小学生くらいまでの子供達も、私がダンスを踊っているのを見ると興味深そうに立ち止まったりはするが、話しかけてくることはまずない。 その他の世代はチラリと視線を投げてくることはあれど、決して近づいては来ないし、大方は見ないふりをして去って行く。
そうそう。 ある時犬を連れて散歩中の中年女性とお話をした事がある。
この時の状況を述べると、ダンスをしている私を女性が連れていた犬が立ち止まってじっと見るのだ。(同様のシチュエーションはよくあるが、大抵は 飼い主が “こら、見るな!” と言わんばかりに犬の首のロープを無理やり引っ張って連れ去って行く。)
ところが、その女性は違った。 犬の“意思”を尊重し一緒に立ち止まったのだ。 それに気が付いた私はダンスをやめ女性と犬の所へ行って挨拶した後、犬のすぐそばに座って私に注目してくれた犬の頭を撫でた。 その行動で犬が私に懐いてくれ何とも可愛いので、「こんなに懐いてくれるのですね。可愛いですね!」と本心を述べると、「もしかしたら犬を飼われていますか? 犬の匂いに惹かれたりするようです。」と女性。 「いえ、飼っていませんが、こんなに可愛いならば飼いたくなりますね!」 などと話していると、女性が「ダンスのお邪魔をしてごめんなさい。」とおっしゃるので、「こちらこそ、可愛いご愛犬に懐いて頂きありがとうございました。」と挨拶した。 その後も犬は、私の方を何度も振り返りつつ散歩道を去って行った。
あっと、話題がついつい横道に外れ、我が公園での“行きずりの出会い物語”になってしまったようだ。
ここで、今回のテーマに戻そう。
上記、公園でダンスを一緒に踊った92歳のご婦人を “Aさん” としよう。
このAさん、元々明るく人見知りをしないタイプのようだ。 おそらく、日々散歩中に出会った人達との会話を楽しんでおられる事だろう。
加えて、私がAさんに感心させられた一番の理由は、お亡くなりになったご亭主の話題に一切触れなかった事だ。 私が察するに、ご亭主が亡くなってからさほどの年月が経過していないと推測出来るにもかかわらず…。
これに比し、例えば昨年のイタリア個人旅行中に出会った日本人団体旅行客の女性高齢者(78歳との事だったが)など、イタリアでの我々母娘との一期一会の出会い中に、亡くなったご亭主の介護の様子を事細かく話されるのだ。
海外旅行にまで出て、何故異国のこの地で出会った見知らぬ他人にご自身のご亭主の話題を中心に設定するのか??、と聞いてあげながら辟易とさせられたものだ。 おそらく同国人ならばご自身の辛さを理解してもらえると期待し、心の内を打ち明けたのだろう。
この78歳のご婦人は、「主人が亡くなった今、私にとって旅行こそが楽しみ!」 とおっしゃるのだが。 そうであるならば尚更、亡くなったご亭主の介護の辛さを旅先で行きずりの人に聞いてもらうとの手段を取るご自身の心理状態こそに決着を付けない内は、その辛さからいつまでも解放されないのではなかろうか??、と無情にも感じざるを得なかった……。
確かに、高齢域に達して一人残される配偶者のその後の生き様とは、先に他界するご亭主(奥方)の年齢により大きく左右されるのかもしれない。
上記イタリア旅行中に知り合った女性の場合、未だ78歳。 おそらくもっとご亭主と共に生きて行かれようと志されていたのだろう。
片や、92歳のAさん。 男性の平均寿命を鑑みると、ご亭主はあらかじめ予想可能なご年齢にての他界だったのかと推測可能だ。 それ故に、ご自身が92歳に至ってあれ程にお元気で、今現在も公園内を散歩しつつ私にまでお声を掛けて下さったのかと嬉しく思う。
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
現在、高齢者有料介護施設へ入居中の我が身内高齢者2名(義母及び実母)の保証人を任されている関係で、必然的に普段より高齢者に関心が向くのは現在の我が宿命であるとして。
そのお陰の長所として、私は世間で知り合う高齢者の皆様に対し“興味が持てるようになった”と自己分析するのだ。
ただ、この世の誰が高齢者に興味を持つんだ!? というのが世間一般の本音ではなかろうか。
高齢者対策と政権をはじめ各種公的機関が大騒ぎしている割には、特に核家族の若い世代程、そんなの他人事と考え無関心でいる事に間違いないだろう。
下手をすると、身内高齢者より如何に高額年金を巻き上げるか?? にまで若い世代家族内での魂胆が及んでは、刑事事件にまで発展しそうだ。
高齢者にとっては、身内に身を斬られそうな今の厳しい世の中である事に間違いないだろう。
そんな逆境の下、高齢者自身こそが老齢初期段階から身内をはじめとする他者に依存することなく、いつまでも主体性を持ち自力で生き抜くことこそが身を助けるものと、私は信じるのだが…