原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

郷里医学部の故恩師より贈り届けられた小論文集

2017年11月18日 | 学問・研究
 (写真左は、昨日我が郷里の医学部故恩師のご遺族より私宛にお贈り頂いた、恩師が生前に記された小論文集。 右側は、当恩師が40年程前の私の卒業後に医学雑誌へ投稿して下さった我が卒業研究論文の小冊子。)


 昨夜残業のため遅い時間帯に帰宅した娘が、上記写真の左側 我が故恩師よりお贈り頂いた書物を郵便受けから持ち帰って来た。

 随分と分厚く重い書物と感じつつ、一体恩師が如何なる書物を私にお送り下さったのだろうとの興味深い思いで開封した。
 恩師ご本人は、昨年秋にお亡くなりになっている。 その記憶が未だ浅い中、当該書物をお送り下さったのは恩師の奥様と二人の息子さんの連名となっていた。


 昨夜届いたばかりで、恩師著「道を求めて」との小論文集に未だほんの少ししか目を通していない段階だ。
 そのため、本日のエッセイでは右側の我が卒業研究論文を通して、恩師中村先生との学生時代の思い出を振り返ることとする。


 上記「Hayem液を使用しない視算法による赤血球算定法の検討」と題する卒業研究論文こそ、私の「科学者の端くれ」人生の出発点であり、一番最初に公に発表した医学論文(と言えるほどの代物ではないが)だ。

 これを医学雑誌に投稿してくれた張本人が中村先生だ。 
 たかが学生の卒論など、大抵未発表のまま埋もれ去り消えゆくのが通常だろう。
 ところが、中村先生は違った。 優秀と判断する学生論文を積極的に世に発表していく主義の先生だった。 中には、卒業に先立って学生の身分で名立たる(「臨床病理学会」だっただろうか?)医学学会全国総会の場で発表した仲間もいた。
 
 それに比し、我が卒論の内容など医学的トピックス性の欠片も無い内容だ。
 ただただ丹念にサンプリング実験を繰り返し、結論を導いた単純な実験医学論文の部類に過ぎない。 ただ、そんな地道な実験作業を熱心に繰り返す我が姿を、中村先生は必ずや見てくれていた。

 ある時、私が中村先生に訴えた。  学生の卒論など、学生同士でサンプルを採取し(例えばそれが血液の場合、学生同士で採血し合ってサンプルをゲットするのが通常だったが)検体対象としたのが事実だ。 ただそれを繰り返していても、臨床現場に於いて様々な病状を抱える患者氏達の赤血球サンプリングが不能だと考えた私は。
 それを打破するため、大学付属病院にて検査済みの実際の患者氏達の血液を入手できないか、と中村先生に訴え出たのだ。 そうしたところすぐさま中村先生は、大学病院から私が欲する患者検査後の廃棄する運命にある血液の残りを何度も持ち帰って下さったのだ。
 この中村先生のお力添えが無ければ、我が卒論はまるで意味をなさなかっただろう。
 健常人の赤血球では得られない、例えば溶血性(赤血球が体内で溶ける症状)のある患者等々の血液をサンプリング対象と出来た事により我が卒論に幅が出て、ある程度有意の結論が導けたのだ。 

 今一度断っておくが、我が卒論は決して当時の医学トピックスを追う類のものではなかった。
 それでも毎夜遅くまで実験室で幾度もサンプリングを繰り返したり、あるいは、先生に患者の検査後の血液を要求した事実から、中村先生には熱心な学生と捉えられたことであろう。


 その後私が就職活動をするに当たり、当時の時代背景としては大変珍しく、臨床現場である地元の病院ではなく私は上京して民間医学企業への就職を決定した。
 それを快く応援して下さったのは、中村先生一人だった。 その他の先生方は「何もそんな冒険せずとも」「地元大病院で活躍できるのに」等々不快感を提示された。

 その後、何と中村先生は、我が東京の医学民間企業に学生を引き連れて見学に訪れたいと私に直接願い出て来られたのだ。 私が当該企業に就職後、わずか2,3年の頃だ。
 それに私の所属企業も応えてくれ、学生30名程を引き連れてやって来た中村先生と久しぶりのご対面だった。
 いやはや、中村先生の“先見の明”にも驚かされる。 我が所属医学関連企業は(私の大いなる働きもあり??)その後“破竹の勢い”で成長を遂げることと相成って、今や押しも押されもしない東証一部上場大企業に成長している。
 その後、中村先生の働きかけが大きいと想像するが、我が大学の後輩たちは臨床現場のみならず基礎医学分野や民間企業への進出が劇的に増大している様子だ。


 中村先生とはご生前長年に渡り、ずっと年賀状のやり取りをさせて頂いただろうか。

 その後私が当該医学民間企業を退職して新たに大学・大学院進学するに際しても、大いなるエールを送って下さったものだ。 
 更なる後に娘を産んだ暁に某国立研究開発法人にて研究助手を始めた折にも、「頑張り続けているね!」旨の返信を頂いたことを記憶している。


 最後に私論だが。

 徹底した学校嫌い・集団嫌いの私だが、どうやら2度経験した大学(及び大学院)では素晴らしき恩師に恵まれたようだ。

 今思うに実際学生が自分の実力を発揮出来て本気で頑張れる機会とは、自分自身がある程度成長した後に “学問の府”に於いて出会える専門力ある恩師の下に限られるのではあるまいか?

 そういう意味で、今回紹介した中村先生も実に素晴らしい恩師であられたと懐古させて頂ける機会を与えて下さったご遺族に、感謝申し上げたい。