本そのものを読むよりも、「書評」を読むことを好む原左都子だが。
今回も、朝日新聞2021.11.06付“書評”より、キム・ジヘ著『差別はたいてい悪意のない人がする』に対する、 トミヤマユキコ氏による書評「思考の死角で足をどけるために」を取り上げさせていただこう。
早速、トミヤマユキコ氏による「思考の死角で足をどけるために」と題する書評の一部を要約引用させていただこう。
本書は、差別はよくないと考えている人ですら差別をすることがある、という少々つらい事実を、様々な文献・データを横断しつつ丁寧に教えてくれる。
プロローグは著者自身の失敗談。 彼女はあるシンポジウムで「決定障害」という言葉を何の気なしに使ってしまう。「ぐずぐずと何ごとも深く考えすぎてしまう」傾向を意味する言葉だが、そうした傾向を言い表したいばかりに「障害」と使ってよかったのか。 彼女は、障害者の人権活動に携わっている活動家に電話取材をして、「私たちがどれだけ日常的に『障害』という言葉を否定的な意味を込めて使っているか」を知ることとなった。差別する側の人々について日々研究している人間にも、思考の死角はある。ひとつひとつ改めていくしか道はない。
差別は「ひとつの軸」ではできておらず、「多重性」を持つという議論がとりわけ印象に残った。 たとえば、私は女性として差別された経験を持つが、その一方で、健常者、異性愛者、正規労働者という軸で考えれば、完全にマジョリティ。 それと気づかず享受している特権があり、誰かを踏みつけにしている可能性がある。 本書を読むと、自分から足をどけられる人間になりそうな気がする。 敢えてシンプルに評すならば、無神経でダサいことはもうやめたいと思わせてくれる本だ。 「不平等な世の中を維持するために苦労を続けるのか。それとも、平等な世の中を維持するための不便や不都合な状況を我慢するのか:という問いから逃げてはいけない。 いい我慢は積極的に引き受けていこうじゃないか。
(以上、朝日新聞「書評」コーナーより要約引用したもの。)
今回の表題に関しては、この書評を読んで原左都子が日頃感じている“世間の人々の歪んだ感覚”を表現させていただいたものだ。
そして、この書評を読んで我が脳裏に一番に浮かんだのは。
「発達障害」との言葉である。
我が娘がこれに該当しているが故に、幼少の頃より専門研究施設へ通わせ、そのケアをしてきた私だが。
まず思い出すのは、その専門研究機関にて娘が最初に「発達障害」と判断された時の光景だ。(当時はその言葉が未だ一般的ではなかった時代背景であり、別の表現、例えばADHD,LD等々がなされていた。)
それらの言葉が総括されて一般的になったのが「発達障害」と私は認識している。
娘担当の研究者氏がおっしゃるには、「やはり娘さんを総合判断して、その範疇に当てはまるかと結論付けます。」
親である私と亭主が問うて、「ということは、娘には障害があるということですね?」
研究者氏曰く、「そういうことになります。」
亭主と私が更に問うて、「それは治るものなのですか?」
研究者曰く、「障害とは本来治るものではありません。 ただ少しでもその症状を軽減するべく周囲がフォローを続けることにより、子供さんの未来が明るくなることは十分にあり得ます。 それを研究者である私どもも支援申しあげますので、とりあえずこの施設でその対応を受けてみませんか?」
医学関係者、教育関係者でもあった私はその研究者の発言が十分に理解できて、すぐに娘のフォロー体制に入った。
ここでは途中経過は略すが、結果として娘幼少期に専門筋の特別支援を受けられたことや、娘のサリバンを一貫して担当している私自身が医学・教育分野に長けていた事実により。
我が娘自身のたゆまぬ努力が一番の成果となり、私立中高一貫校受験に合格し、その後大学も公募制推薦入試に一発合格し。
現在は、中小企業ではあるが正社員としての仕事も自分自身でゲットして勤務し、既に6年近い年月が流れている。
その間に、周囲よりよく耳にしたのは。
「発達障害って、障害ではなく親の育て方が悪かったりしてまともに育っていない子のことなのよ」
「単なる本人の個性に過ぎないのに親が大騒ぎして障害者に位置付け、その特権を得ようとしている」
「その子たちの進学や就職が叶うのは、親のコネ等でしかありえない」 …😨 😱
最後に、私見でまとめよう。
そもそもこれらの反論をなす人種とは、元より「障害」との言葉に関しての理解が欠落しているのであろう。
下手すると、それを克服して健常者より優位な地位に就くことが許せない!、がごとくの歪んだ感覚すら抱かされたりもする。😫
自分が善人であると信じること自体は素晴らしいのであろうが。
もう少し視野を広げると、もっといろんな世界が見えてきて。
今後もっともっと、ご自身の人生をエンジョイできるのではないでしょうか!?!