冒頭から、朝日新聞本日2021.11.03付「社説」“憲法公布75年 学術・研究取り巻く危うさ” の一部を要約引用しよう。
75年前のきょう、日本国憲法が公布された。 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理に掲げ、戦後日本の歩みをつくってきた。
明治憲法にはなかった規定のひとつが、「学問の自由は、これを保障する」という第23条だ。 意に添わぬ学説や研究を政府が弾圧し、学者も動員して遂行した戦争の反省を踏まえ、思想・良心の自由などと共に明記された。 (中略)
この「学問の自由」、そして政治と研究の間に、昨年来、多くの人の目が注がれた。
きっかけのひつとは、新型コロナ禍だ。
感染防止策を講じつつ社会や経済をどう維持するのか、ある程度の試行錯誤があるのはやむを得ない。 不信を招いたのは、専門家の見解や提言のうち、自らの施策に役立つものは採り入れ、そうでないものには耳を貸さないという政治のご都合主義だ。 社会や財政の事情も勘案して総合的な判断を下すのが政治の役割だが、科学をつまみ食いし、隠れみのにするのは責任逃れに他ならない。
唐突な一斉休校、Go to事業の強行、緊急事態宣言下での五輪の開催…。 責任の所在があいまいなまま、市民の健康と生活が危機にさらされた。
そしてコロナ禍の渦中にあがったのが、日本学術会議会員の任命拒否問題だ。
いまだに政府は理由を説明せず、議論自体を拒む。 そこから見えるのは、政権に異を唱える研究者に制裁を加え、学術会議、さらには学界全体をコントロール下におき、自分達の「役に立つ」存在に変えていこうという思惑である。
政府は、大学などに支出する資金を削る一方、防衛省に予算をふり向け、安全保障に「役に立つ」研究への参加を促してきた。 こうした方針に協力的でない学術会議を敵視し、人事や組織改革で揺さぶりをかけてきたのは明らかだ。 (中略)
「役に立つ」ことを学問・研究に求める姿勢は、「選択と集中の掛け声とともに近年急速に強まっている。
むろん事故や災害、病気を防ぎ、生活を豊かにする研究は重要だ。 しかしそこでも思考停止は禁物だ。 研究が何を生み、何をもたらすかを見極め、必要に応じて異を唱えることは、研究に携わる者の責務である。
あわせて、社会を一変させるような発見や技術革新には、既存の研究の延長にとどまらない発想が求められていることも忘れてはならない。 成果にとらわれない地道な基礎研究がその土台であり、これを軽んずれば将来の芽を摘むことになる。
学問・研究に対する正しい理解を欠く政治のうえに、豊かな社会は到来しない。 憲法23条が説くところをかみしめたい。
(以上、本日文化の日の朝日新聞「社説」の一部を要約引用したもの。)
ここで「文化の日」の由来に関して、5月3日の「憲法記念日」も交えて、以下にウィキペディアより引用しておこう。
文化の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。日本国憲法は公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっている。
休日としては、1873年(明治6年)に公布された年中祭日祝日の休暇日を定む(明治6年太政官布告第344号)以降1911年(明治44年)までは天長節、1927年(昭和2年)に改正された休日に関する件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947年(昭和22年)までは明治節として、明治天皇の誕生日による休日となっていた。
(以上、ウィキペディア情報より引用したもの。)
要するに、11月3日文化の日が、日本国憲法の“公布”の日。 そして5月3日の憲法記念日が、日本国憲法の“施行”の日と捉えてよいだろう。
原左都子の、くだらない余談で恐縮だが。
9年程前に、63歳の若さで膵臓癌により壮絶死した我が義理姉の誕生日が「文化の日」だった。(生きておられたら、本日72歳になったのだろう。)
片や、我が娘の誕生日が11月23日の「勤労感謝の日」なのだが。
義理姉生前の原家飲み会の場で、その話題が出た際に。
私が、「お義姉さんの誕生日が“文化の日”とは何とも粋ですね! うちの娘など、“勤労感謝の日”が誕生日ですよ。 何だか貧乏臭いし、生涯働いて生きる身かと実感させられたりもします…」
(今現在の娘の母としての感想だが、それぞ最高の幸福😊 と実感している。)
話題を朝日新聞「社説」に戻すならば。
原左都子として、全面的に同感!の社説内容だった。
特に、私が当該社説に賛同するのは、日本学術会議会員の任命拒否問題だ。
いまだに政府は理由を説明せず、議論自体を拒む。 そこから見えるのは、政権に異を唱える研究者に制裁を加え、学術会議、さらには学界全体をコントロール下におき、自分達の「役に立つ」存在に変えていこうという思惑…
この部分である。
まさに“文化的”とは言い難い、このような対応しか出来ない政権がまたもや国政選挙で勝利を収めてしまった事実に、辟易とさせられるばかりだ…