本日のエッセイも、2020.03公開のバックナンバーより再掲載させていただく。
今一度、(2020.03.08)公開エッセイの核心部分を以下に振り替えらせていただこう。
朝日新聞2020.03.03付「争論・ネットが社会を分断」と題する記事から私論を導くこととしよう。
朝日新聞記事より、前書き部分を引用すると。
インターネットは多様な意見が交わされ、相互理解を深める「公共圏」になると期待されていた。 だが今は、社会を分断する原因になっているとの批判が強まっている。 ネットの言論について実証研究を重ねる2名の大学教授に話を聞いた。
・ 分断の原因はネットか?
・ 分断の中心は?
・ ネットは社会の「鏡」か?
(以上、記事の前書き部分を引用したもの。)
一旦私論だが、一体ネット上の如何なる媒体を捉えて、朝日新聞は上記提案を成しているのだろう?
私が日頃ネット上で馴染んでいるのは、当該「ブログ」との媒体と、SNSのひとつ「Facebook」のみだ。 そのうち、現在Facebookは単にブログ記事を転載しているに過ぎず、友達付き合いやその発展系の議論は一切成していない状態だ。
そんなネット環境下での我が印象とは。
「ネットが社会を分断」???? そんな大それた力(ちから)が現在のネットにあるとは到底思えない。
一昔前、私がブログを開設した頃のネットは、大いに風紀が乱れていた。
記事をアップすると同時に押し寄せるエロコメントやトラックバックの数々…。 ネット画面を開けば、エロ写真やエロ情報が氾濫し。
少し偏りがあるエッセイを公開すると、怒濤のごとく押し寄せる誹謗中傷ご意見。
そんな中、真面目に議論するコメントも沢山頂いた我がブログだった。
その頃こそが、我が「原左都子エッセ集」“華の時代”だったものと懐かしく振り返るが…。
その後ブログ世界は、一見“道徳心旺盛”に進化(後退?)を遂げたと私は分析する。
確かに、一見“平和かつ無難”に生まれ変わった印象はある。
ただ、そこには既に「議論」の余地など皆無だ。
皆さんブログ内容を綺麗にまとめ、それに対する反応もすべてが挨拶程度のさりげない内容に始終するに至っている。
それに従わないと、すぐさまバッシング行動に出るブログもある様子だ。 ほんの少しでも反論意見を記入しようものならば、門前払いあるいは無視に徹する行動に出るブログに接した経験がある。 (もちろん、こちらとてそんなブロガーは願い下げなのだが。)
それほどまでに自己の安泰を守ろうとするブログとの媒体に、まさかまさか、「社会を分断する力」が宿る訳もなかろう。
この朝日新聞記事に対し私と同類のご意見を述べられている大学教授氏のご見解の一部を紹介しよう。
いまのネット空間は、確かに分断しているように「見えます」。 それは、少数派が積極的にネットで意見を発信する一方で、中庸派はネットの議論にはほとんど参加しない「サイレントマジョリティー」になっているからです。 (中略)
その要因として、ネットには新聞や雑誌、テレビに比べ、人々を穏健化させる働きがあると考えられます。
(以下略すが、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
原左都子の私論だが。
まさに上記大学教授氏がおっしゃる通りの記述を、私もブログ上の人間関係に於いて経験する機会が現在多い。
実に“サイレントマジョリティー派”で満たされている現在のブログ世界であるとも言えよう。
(以上、昨日⦅2020.03》公開エッセイ「ネットが社会を分断?? ネットにそんな大それた力は無い。」より一部を引用したもの。)
朝日新聞2020.03.03付「争論・ネットが社会を分断」と題する記事から私論を導くこととしよう。
朝日新聞記事より、前書き部分を引用すると。
インターネットは多様な意見が交わされ、相互理解を深める「公共圏」になると期待されていた。 だが今は、社会を分断する原因になっているとの批判が強まっている。 ネットの言論について実証研究を重ねる2名の大学教授に話を聞いた。
・ 分断の原因はネットか?
・ 分断の中心は?
・ ネットは社会の「鏡」か?
(以上、記事の前書き部分を引用したもの。)
一旦私論だが、一体ネット上の如何なる媒体を捉えて、朝日新聞は上記提案を成しているのだろう?
私が日頃ネット上で馴染んでいるのは、当該「ブログ」との媒体と、SNSのひとつ「Facebook」のみだ。 そのうち、現在Facebookは単にブログ記事を転載しているに過ぎず、友達付き合いやその発展系の議論は一切成していない状態だ。
そんなネット環境下での我が印象とは。
「ネットが社会を分断」???? そんな大それた力(ちから)が現在のネットにあるとは到底思えない。
一昔前、私がブログを開設した頃のネットは、大いに風紀が乱れていた。
記事をアップすると同時に押し寄せるエロコメントやトラックバックの数々…。 ネット画面を開けば、エロ写真やエロ情報が氾濫し。
少し偏りがあるエッセイを公開すると、怒濤のごとく押し寄せる誹謗中傷ご意見。
そんな中、真面目に議論するコメントも沢山頂いた我がブログだった。
その頃こそが、我が「原左都子エッセ集」“華の時代”だったものと懐かしく振り返るが…。
その後ブログ世界は、一見“道徳心旺盛”に進化(後退?)を遂げたと私は分析する。
確かに、一見“平和かつ無難”に生まれ変わった印象はある。
ただ、そこには既に「議論」の余地など皆無だ。
皆さんブログ内容を綺麗にまとめ、それに対する反応もすべてが挨拶程度のさりげない内容に始終するに至っている。
それに従わないと、すぐさまバッシング行動に出るブログもある様子だ。 ほんの少しでも反論意見を記入しようものならば、門前払いあるいは無視に徹する行動に出るブログに接した経験がある。 (もちろん、こちらとてそんなブロガーは願い下げなのだが。)
それほどまでに自己の安泰を守ろうとするブログとの媒体に、まさかまさか、「社会を分断する力」が宿る訳もなかろう。
この朝日新聞記事に対し私と同類のご意見を述べられている大学教授氏のご見解の一部を紹介しよう。
いまのネット空間は、確かに分断しているように「見えます」。 それは、少数派が積極的にネットで意見を発信する一方で、中庸派はネットの議論にはほとんど参加しない「サイレントマジョリティー」になっているからです。 (中略)
その要因として、ネットには新聞や雑誌、テレビに比べ、人々を穏健化させる働きがあると考えられます。
(以下略すが、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
原左都子の私論だが。
まさに上記大学教授氏がおっしゃる通りの記述を、私もブログ上の人間関係に於いて経験する機会が現在多い。
実に“サイレントマジョリティー派”で満たされている現在のブログ世界であるとも言えよう。
(以上、昨日⦅2020.03》公開エッセイ「ネットが社会を分断?? ネットにそんな大それた力は無い。」より一部を引用したもの。)
ここからは言い訳になるが、私としては昨日当該バックナンバーを公開した時点から、その反応の“乏しさ”を予想していたとも振り返る。
確かに時代は、めくるめく移り変わっているのだろう。
ブログを公開することにより大勢のブロガーが、ご自身の“穏健生活”を目指そうと、誰からもそれを責められる訳もなかろう。
ここは、“オピニオンエッセイブログ”を13年にも及ぶ年月に渡り公開し続けている原左都子こそが、今後進むべき道程を修正するべきか??
(そんなことあるわけもなく…。)
我が若き頃より培って来た信念をこの先変更出来るはずもなし!! との原点に立ち戻り。
今までのスタンスで我がエッセイブログを公開し続ける事こそが、我が進むべき道! との結論に至るのは必然だ。
(以上、「原左都子エッセイ集」2020公開バックナンバーの核心部分を再掲載したもの。)
2024.08現在に話を戻そう。
今現在、私の後ろのテレビ画面が、2024パリ五輪の「女子やり投げ」競技にて日本の北口榛花選手が決勝に残った映像を写し出している。
これを見ながらの執筆だと集中力が途切れるため、一旦テレビを消してエッセイ執筆に戻ろう。
上記再掲載文の最初の記述、「今やインターネットが社会を分断する原因になっている」との指摘に対して。
私論として、一体ネット上の如何なる媒体を捉えて、朝日新聞は上記提案を成しているのだろう? との回答として、原左都子は以下のように述べている。
そんなネット環境下での我が印象とは。
「ネットが社会を分断」???? そんな大それた力(ちから)が現在のネットにあるとは到底思えない。
一昔前、私がブログを開設した頃のネットは、大いに風紀が乱れていた。
記事をアップすると同時に押し寄せるエロコメントやトラックバックの数々…。 ネット画面を開けば、エロ写真やエロ情報が氾濫し。
少し偏りがあるエッセイを公開すると、怒濤のごとく押し寄せる誹謗中傷ご意見。
「ネットが社会を分断」???? そんな大それた力(ちから)が現在のネットにあるとは到底思えない。
一昔前、私がブログを開設した頃のネットは、大いに風紀が乱れていた。
記事をアップすると同時に押し寄せるエロコメントやトラックバックの数々…。 ネット画面を開けば、エロ写真やエロ情報が氾濫し。
少し偏りがあるエッセイを公開すると、怒濤のごとく押し寄せる誹謗中傷ご意見。
(後は略すが、上記我が記述をお読み下されば幸いです。)
今春(2024.05) に出席した同窓会会場にて、私は当該「原左都子エッセイ集」の名刺(かなり前に自身で作成したもの)を参加者全員(8名程の少人数だったが)に配布した。
その我が行動の反応が何ら無い現状だ。
時を遡って、当該「原左都子エッセイ集」公開初期頃(2008年頃だっただろうか?)にも同窓会会場にて「別の名刺」を参加者全員に配布した。
その際には、少なかったものの反応があった。
とにかく「原左都子エッセイ集」公開初期頃であり、未だエッセイ本数が少なかったにもかかわらず、わざわざお読み下さった同窓生のお一人から貴重なプラスの御意見を頂戴したものだ。
あれから17年程の年月が流れ、我が「原左都子エッセイ集」エッセイ本数が(自分でも分からない程の)膨大な数になっている今。
上述の如く、反応が無いのが当然の時代へと変遷しているようだ。
いえいえ、考えようによれば。
ブログを取り巻く環境の「自由度」が上がっているとも解釈できよう!
読む人がいようがいまいが。
とにかく、原左都子自身の体内から「本日も自己オピニオンエッセイを書くぞ!!!」なるエネルギーが燃焼・放出し続ける限り。
今後も私は末永く、パソコンに向かって日々エッセイ執筆に励む所存です!