原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「自然科学概論」 小講座 Ⅷ

2021年07月28日 | 学問・研究
(冒頭写真は、原左都子が2度目の大学にて受講したA先生による「自然科学概論」の講義ノートより掲載したもの。)


 左都子の「自然科学概論」小講座はテーマが変わり、「ギリシャ科学の継承」へと移ります。

 A先生の講義によると、ギリシャ人は法律・政治・文学が得意だったために、それらに関心が無かった(ラテン語の)ローマ帝国へはスムーズに伝承されなかったらしい。
 ギリシャには、プラトン・アリストテレス等著名な哲学者たちが存在するが、ギリシャの学問をラテン語に翻訳したものはほとんど無い、とのことだ。
 

          
 そのローマ帝国は、東がギリシャ語圏、西がラテン語圏と分裂して滅ぶ運命にあった。 
 ゲルマン民族の国家は学術レベルが低く、ローマを理想としていた。

 プラトンの著書「ティマイオス」は前半部のみがラテン語に翻訳されている。(カルキデュウスによると)
 この著書は、プラトン自身にとっては重要な位置づけにないらしいが、科学史上、重要な意味をもつ。
 デモクリトスの影響を受けた「幾何学原子論」では、正多面体を火、空気、水、土、それぞれの元素に結び付けている。
 ある意味では、近代的chemistry(化学)を先取りした思想の本である。

 アリストテレスの場合、論理学上の書作の一部が4世紀前半頃、ボエティウスによりラテン語に翻訳されている。

 エウクレイデス「原論」、プトレマイオス「アルマゲスト」、アルキメデス
に関しては翻訳が無い。
 ローマ時代の医者 ガレノスの著作は、(哲学、科学分野も)すべてギリシャ語で書かれている。
 プラトンの「ティマイオス」は、神の世界の創造につき研究する学者たちに影響を与えた。

          
 「東の世界」(申し訳ないが原左都子として意味不明だが、後述するアレキサンドリアより東とのことか?)において、学問活動の伝統は保たれていく。
 アリストテレスは「アルマゲスト」の注釈を成したが、このように学問活動において、“注釈”が主たる活動となり。
 異教・異端の迫害により、学問が排斥されていく。

 “新プラトン派”は、プラトンとアリストテレスの両者を混合したような派閥であり、神秘主義的で宗教に近い派閥だったが異教と扱われ、迫害された。
 これにより、ヒパチア(女性科学者か?)は殺害された。

 “アテネ アカデミー” のシンプリキオスは、アルキメデスの注釈を沢山書いた。 新プラトン派から迫害され、アカデミーも閉鎖させられた。

 “ネストリウス派”は431年に、異端とされた。
 三位一体説を認めるのが正統派とされ、それを認めないのが異端とされた。
 
 451年にカルゲドンにより唱えられた“単性論”は、歴史上その後も時々息を吹き返している。 ニュートンも、この“単性論者”である。

 とにかく、異端論者の科学者が多かったようだ。
 アレキサンドリアは危険な場所だったため、科学者は東へ逃げた。
 その途中で(エデッサ)アカデミーを創設したが、489年に閉鎖させられている。

          
 そして、ペルシャへ。
 ここでアカデミーの思想が受け入れられ、辛うじて古代科学が伝承される。
 ジュンディシャープル を中心に活動した。
 この町は、特に医学の町として名高い。



 原左都子の後記だが。

 この辺(ギリシャ及び、エジプトのアレキサンドリアあたり)はプラトン哲学から命名した娘が中2の夏に家族旅行をして訪れているのに。
 古代ギリシャにプラトンが創設したアカデメイアのみは現地を確かに見学したが、その他は残念ながら訪れずに帰国している。

 出発前に当該A先生の講義ノートを見ておけばもっと有意義な旅行になっただろうに、と今更ながれ悔やまれるなあ…

 ただ現地は夏場は猛暑を通り越して激暑につき、この辺りを旅行される場合は、真夏の時期を避けられることを是非共お勧めしたい。


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