本エッセイ集開設初期頃の 2008.06.03付バックナンバーに、「商売っ気を出そう!」なる表題のエッセイが存在する。
これを今自分で読み直してみても、結構笑える。😁
とりあえず、当該バックナンバーの一部を以下に再掲載しよう。
近頃買い物に行くと、この店「売る気あるんだろうか?」と呆れる場面によく出くわす。
店に入って店員が暇を持て余しているように見えても「いらっしゃいませ!」の一言もなかったり、レジで会計をしようとしたら店員が面倒臭そうだったり、はたまた大手スーパーで買い物をしていると商品棚に商品を陳列しているパートのおばさん(?)に“忙しいんだからそこどいてよ”と言われんばかりに邪魔者扱いされたり、商品を手にとって見ているとその傍らで店員が無言でたたみ直したり…、例を挙げるときりがない。
ある時、腕時計(一応ブランドもの)のベルト部分の接着が取れてきたのでベルト交換も視野に入れ時計屋へ行った。
とりあえず私は尋ねた。「すみません。このベルトが取れかかっているんですが、接着し直していただくということは可能ですか?」 店主と思しき人物から返ってきた回答は「そんなのできないよ。ベルト替えなきゃダメだよ。」客として取り付く島がまったくない。
相手は商売をしているはずなのに客に対して何でそんなに否定的なのか。少し柔らかく「修理はできませんが、ベルト交換はいかがでしょうか?」と何で言えないのか。そう受け応えした方が幾ばくかの収益につながると私は思うのだが…。
「わかりました。」と一言だけ言い残し商売っ気のかけらもない店を去り、他店へ向かった。
今度は親切だ。まず時計をじっくり見てくれて「この時計の場合ベルトはお取り寄せになりますが、もしお客様がこのメーカーのベルトでなくてもよろしければ今すぐベルト交換できますが。」 「はい、それで結構です。」と、私。
そうして時計に合うベルトを何点か丹念に探してくれ、その中で私が一番気に入ったベルトにその場で付け替えてくれた。その腕時計は今でもバリバリの現役で活躍中である。
またある時、糸を買いに手芸店へ行った。 私は、手芸の趣味はなくド素人だ。
自分で目的の品を求めて店内を探せばよかったのだろうが、店員が暇そうだったのでいきなり尋ねた。「すみません。普通の糸が欲しいのですが。」
確かに私のこの“普通の糸”の表現はちっとも的を射ていないであろう。それは認めるが、何分素人のためこういう表現しか思いつかないのだ。
すると店員が少しイライラしつつ返ってきた答えは「普通の糸って何ですか!」 (だからそれをこっちが聞きたいんだってば…。)
「どういうことに使用されるのですか?」と何で聞き返せないのだろうか?
しょうがないので、素人の私が説明した。「ボタンをつけ直したり、ほつれた箇所を手で縫い直したりする糸です。」 それを聞いたか聞かないか呆れ顔の店員はそっけなく「ボタン付け糸ならこっちです。」と言い残してその場を去った。 たかが糸ひとつなので不本意ながらその店で買って帰った。
いい例の話もしよう。
つい先日、ブティックで夏物ワンピースを買った。 私はデザイン、柄とも気に入り試着してみてもサイズもバッチリ合うので買うことに決め、会計のためレジへ持って行った。 私の場合、洋服は自分の年齢より相当若好みなのだが、レジでは自分の年齢を考慮すると多少気後れする。 このブティックは小規模で店長と思しき若い女性ひとりが切り盛りしていたが、その女性店長は会計をしつつ「これ、すごく柄がいいでしょ!」と私を盛り立ててくれるのだ。なかなか商売っ気があってこれは気分がいい。このワンピース、私のお気に入りの一枚になりそうだ。またこのブティックに買いに来よう! (顧客なんて実に単純なものよ、商売人さん。)
いずれにしても、上記のような小売店舗の商売っ気のなさは今の時代の人間関係の希薄さに源を発しているように私は考察する。
人間関係が円滑に機能していた時代においては、商売も人間同士のコミュニケーション中心に成り立っていたように懐かしく思い出す。 私の子ども時代は、親に連れられて買い物に行ってその小売店の店主や店員や他の顧客も交えて一時話し込んだものだ。 子ども心に買い物は楽しい娯楽であったような記憶もある。
都会に移り住んで以降は、大型小売店舗等における顧客に付きまとっての押し売りもどきの過剰サービスが敬遠されてきたのは私にも理解できる。
ところが過剰サービスの廃止に便乗し過ぎて、商売の基本である顧客の要望に応えることまで排除してしまったのはなぜなのか。 大袈裟に言えばこの現象は現在の日本経済の低迷につながっていると言っても過言ではないようにも思う。
私には小売商売経験はないが、日常の買い物くらいある程度気持ちよくしたいものである。そんな顧客のささやかな要望にさえも応えらない程、小売店舗にとって現在は余裕のない厳しい時代であるのか?
店に入って店員が暇を持て余しているように見えても「いらっしゃいませ!」の一言もなかったり、レジで会計をしようとしたら店員が面倒臭そうだったり、はたまた大手スーパーで買い物をしていると商品棚に商品を陳列しているパートのおばさん(?)に“忙しいんだからそこどいてよ”と言われんばかりに邪魔者扱いされたり、商品を手にとって見ているとその傍らで店員が無言でたたみ直したり…、例を挙げるときりがない。
ある時、腕時計(一応ブランドもの)のベルト部分の接着が取れてきたのでベルト交換も視野に入れ時計屋へ行った。
とりあえず私は尋ねた。「すみません。このベルトが取れかかっているんですが、接着し直していただくということは可能ですか?」 店主と思しき人物から返ってきた回答は「そんなのできないよ。ベルト替えなきゃダメだよ。」客として取り付く島がまったくない。
相手は商売をしているはずなのに客に対して何でそんなに否定的なのか。少し柔らかく「修理はできませんが、ベルト交換はいかがでしょうか?」と何で言えないのか。そう受け応えした方が幾ばくかの収益につながると私は思うのだが…。
「わかりました。」と一言だけ言い残し商売っ気のかけらもない店を去り、他店へ向かった。
今度は親切だ。まず時計をじっくり見てくれて「この時計の場合ベルトはお取り寄せになりますが、もしお客様がこのメーカーのベルトでなくてもよろしければ今すぐベルト交換できますが。」 「はい、それで結構です。」と、私。
そうして時計に合うベルトを何点か丹念に探してくれ、その中で私が一番気に入ったベルトにその場で付け替えてくれた。その腕時計は今でもバリバリの現役で活躍中である。
またある時、糸を買いに手芸店へ行った。 私は、手芸の趣味はなくド素人だ。
自分で目的の品を求めて店内を探せばよかったのだろうが、店員が暇そうだったのでいきなり尋ねた。「すみません。普通の糸が欲しいのですが。」
確かに私のこの“普通の糸”の表現はちっとも的を射ていないであろう。それは認めるが、何分素人のためこういう表現しか思いつかないのだ。
すると店員が少しイライラしつつ返ってきた答えは「普通の糸って何ですか!」 (だからそれをこっちが聞きたいんだってば…。)
「どういうことに使用されるのですか?」と何で聞き返せないのだろうか?
しょうがないので、素人の私が説明した。「ボタンをつけ直したり、ほつれた箇所を手で縫い直したりする糸です。」 それを聞いたか聞かないか呆れ顔の店員はそっけなく「ボタン付け糸ならこっちです。」と言い残してその場を去った。 たかが糸ひとつなので不本意ながらその店で買って帰った。
いい例の話もしよう。
つい先日、ブティックで夏物ワンピースを買った。 私はデザイン、柄とも気に入り試着してみてもサイズもバッチリ合うので買うことに決め、会計のためレジへ持って行った。 私の場合、洋服は自分の年齢より相当若好みなのだが、レジでは自分の年齢を考慮すると多少気後れする。 このブティックは小規模で店長と思しき若い女性ひとりが切り盛りしていたが、その女性店長は会計をしつつ「これ、すごく柄がいいでしょ!」と私を盛り立ててくれるのだ。なかなか商売っ気があってこれは気分がいい。このワンピース、私のお気に入りの一枚になりそうだ。またこのブティックに買いに来よう! (顧客なんて実に単純なものよ、商売人さん。)
いずれにしても、上記のような小売店舗の商売っ気のなさは今の時代の人間関係の希薄さに源を発しているように私は考察する。
人間関係が円滑に機能していた時代においては、商売も人間同士のコミュニケーション中心に成り立っていたように懐かしく思い出す。 私の子ども時代は、親に連れられて買い物に行ってその小売店の店主や店員や他の顧客も交えて一時話し込んだものだ。 子ども心に買い物は楽しい娯楽であったような記憶もある。
都会に移り住んで以降は、大型小売店舗等における顧客に付きまとっての押し売りもどきの過剰サービスが敬遠されてきたのは私にも理解できる。
ところが過剰サービスの廃止に便乗し過ぎて、商売の基本である顧客の要望に応えることまで排除してしまったのはなぜなのか。 大袈裟に言えばこの現象は現在の日本経済の低迷につながっていると言っても過言ではないようにも思う。
私には小売商売経験はないが、日常の買い物くらいある程度気持ちよくしたいものである。そんな顧客のささやかな要望にさえも応えらない程、小売店舗にとって現在は余裕のない厳しい時代であるのか?
(以上、2008.06付バックナンバーより一部を引用したもの。)
2008年と言えば、今から16年も前の話となる。
2024年現在までの長き年月の流れと共に、世の「商売形態」も大幅に変遷を遂げた感がある。
スーパーへ行けばレジには人影が無く、顧客個々が自分でセルフレジを「ピッ、ピッ」と通して一人でレジ清算をして買った商品を持ち帰る。
今時の大型商業施設では、係員側から顧客に声を掛けることはまれだ。 用件があれば順番札を配られて係員が来るのを待ち、個別対応となる。
そうそう 小売店では店員より声を掛けてくれる場面もあるが。 今時都会では“小売店”という店舗の存在すら見かけなくなっている。
そんな時代背景の下では、「商売っ気」なる言葉自体が形骸化して当然とも考察可能だ。
よく言えば、「売買関係における合理化・洗練化」とでも表現できようか??
買い物の本来の目的とは、顧客側からすれば “自分が欲する商品を手に入れる事” であり。 本来はそこに人間関係が入り込む必要など皆無と結論づけられそうにも思う。
ネット通販など、その最たる存在とも言えよう。
とにかく、この世の「人的商売形態」は大きく移ろいだ。
利便性が確実に高まった今の世の中でもあり、またちょぴり寂しい時代の到来でもある…