原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

そもそも「悪い事」って何なの?

2007年11月22日 | 左都子の市民講座
 前回の「なぜ悪い事をすると罰せられるの?」の続きのお話をしましょう。


 ○そもそも「悪い事」って何なの?

   逆から言うと 「善とは何か?」
   これは、哲学、倫理学における永遠の命題です。
   「善とは何か?」その答えはとっても難しいのです。
   紀元前4世紀に古代ギリシャの哲学者プラトンは
         「善とは“善のイデア”である」 と言いました。
   この他にもいろいろな哲学者が、いろいろな“善”を提唱しています。

   今回は法律の話なので、哲学の話はまたの機会にじっくりとしましょう。

   結論から言うと、この場合の「悪い事」とは
        “社会規範(特に“法”)からの逸脱行為”です。

   人間は社会の中で生きています。
   その社会の秩序を維持するためには“ルール”が必要です。
   この “ルール” =  社会規範 です。  要するに社会規範とは、
   我々が社会生活を営む上において守らなければならないルールのことです。

   社会規範には ①自然発生的にできてくるもの
             ②権力者が意識的に作るもの   があります。
   
   決して“Might is right.”(力は権利なり。)であってはなりません。
   社会秩序が維持されていてこそ、強者(権力者)も存在できるのです。


 <社会規範の種類>

  A. 法
     国家権力により強制される社会規範であり、最高に強力な社会規範。
     破ると制裁を受けます。すなわち、罰せられます。

  B. その他の社会規範
   a. 慣習
     社会の中で自然に生まれ、くりかえし行われている規範。
     社会生活上のしきたり、ならわし。
     
   b. 宗教
     個人的な規範ではあるが、ときには強力な社会規範。
      例: イスラム教、ヒンズー教 など
     我が国では一部の人々を除き、国民の日常生活と宗教はさほど
     密着していません。

   c. 道徳
     人の倫理観に訴える規範。
     人の心理的な側面を問題としています。

   法や一部の宗教とその他の社会規範の違いは、強制力を伴うか伴わないかに
   あります。
   法の強制力は、国家権力による物理的強制力です。
   これに対し、慣習、道徳などの強制力は心理的強制力です。
   時には、心理的強制力の方が強力な場合もあります。
   法的には責任を問われなくても、社会的制裁を受ける例は数多いです。

   社会規範は時代と共に移り行きます。
    例えば昔、刑法に「姦通罪」という規定がありました。が、
    有夫の婦のみが姦通罪を問われるのは「法の下の平等」に反すること、
    文化的発展により姦通罪を抑止する必要はなくなり、個人の倫理観に
    委ねられるようになったこと、
    により、法から道徳へ変化しました。


 以上で、「なぜ悪い事をすると罰せられるのか」の講座は終了です。 
 
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なぜ悪い事をすると罰せられるの?

2007年11月20日 | 左都子の市民講座
 「なぜ悪い事をすると罰せられるの?」

 この答えはとりあえず簡単!
 「法律で決まっているから」です。

 しかし、本当はこの問題はとても難しい。
  ○「罰する」ってどういうことなの?
  ○罰を与える人は何の権利があってそういう事をするの?
  ○そもそも「悪い事」って何なの?
       など、いろいろな問題を含んでいる。

 そこで、とりあえず法律は正しいものであるとして、それに従うことを前提に考える。
 そうすると、法律で決まっているから悪い事をすると処罰されることになる。

 逆に言うと、法律で決まっていないものは処罰しない。
           これを、 罪刑法定主義 という。

 しかしそうすると、“悪法も法なり”という問題も生じる。


 さて、各論に入ろう。

 ○「罰する」ってどういうことなの?

   1.悪い事をしたことに対する応報という考え方
      犯罪者に責任を取らせ、償いをさせるために罰するという考え方
      悪い事をした人はそれに見合う不利益を受けるのが当然だとする考え方
      この考えに従うと、 自分の犯した罪の重さ = 処罰の重さ
      の数式が成り立ち、
      例えば、殺人犯は死刑になるのが当然ということになる。

      しかし、そもそも「償い」とは個人の心の問題である。
      刑罰として国家が科するのは出すぎた態度ではないの?
             という問題も生じる。

   2.犯罪の防止という考え方
      悪い事をしないように罰するという考え方
      要するに、悪い事をした人を教育する意味で罰するという考え方
            = 教育刑論
      そして、他の人々に対しては、ああいう悪い事をすると罰せられるの
      だと威嚇することにより、法律を遵守させる目的もあるという考え方

      しかし、懲らしめや見せしめにより人間を犯罪から遠ざけるなんて、
      人をバカにしてない?
      そもそも、国家に個人の人格にまで介入する権利があるの?

 問題を抱えてはいるが、刑罰とは「応報」「防止」の両面から説明するしかない。
 すなわち、刑罰とは“過去の行為の清算”であり、“将来に向けた防犯”である。


 ○罰を与える人は何の権利があってそういう事をするの? 

   刑罰とは国家による個人への介入である。
   国家が個人を罰することができる根拠
    ①犯罪者の他人の利益の侵害を防止するため
    ②倫理秩序維持のため
    ③犯罪者自身の利益のため

   しかし、国家が個人の真の利益を判断できるのか?
   我々はなぜ、個人を処罰するというような大きな力を国家に与えて
   いるのか?        という問題は残る。
    例: 死刑存廃問題
     死刑を存続するか廃止するかは大いに議論の余地のある問題である。


 ○そもそも「悪い事」って何なの?
       につきましては、別講座にて解説します。お楽しみに!

   
        

組織論における「パワー」概念

2007年11月19日 | 学問・研究
 組織論に「パワー」という概念がある。この場合の「パワー」とは、個人ないし集団が相互に行使するあらゆる種類の影響を意味する。 Max Weber は、「パワーとは行為者が社会関係の中で抵抗を排除してでも、それが依拠する基盤が何であれ、自己の意思を貫徹する立場にある可能性である。」と定義している。 Blau は、このWeber の定義を拡張して「パワーとは、定期的に与える報酬を差し止める形態をとろうと、罰の形態をとうろと、脅かすことで抵抗を排除してでも、人々あるいは集団がその意思を他者に強いる能力である。」としている。
 「パワー」を一種の心理的力として、個人間の相互作用におけるその潜在性の側面を強調する立場もある。French=Raven は「パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力である。」と定義する。
 「パワー」の定義は多様であるがこれらの定義に一致していることは、パワー現象は二人あるいはそれ以上の人々の相互作用という複数の状況のみに生起することであり、社会的行為者間の関係においてのみ意味のある概念であるとしていることである。

 上記のFrench=Raven は、潜在力としての「パワー」を“報償的パワー”、“強制的パワー”、“正当的パワー”、“同一的パワー”、“専門的パワー”の5類型に細分化した。この「パワーの5類型」は学説としては認められていないようだが、興味深い考え方であるのでここで紹介しよう。
 例えば、この「パワーの5類型」を教師の生徒に対する教育指導に当てはめてみると、“報償的パワー”とは生徒に対する正の評価の付与、“強制的パワー”とは同じく負の評価、処罰の付与、“正当的パワー”とは教師の地位、権限の行使による指導、“同一的パワー”とは教師の人格による生徒との信頼関係の確立、“専門的パワー”とは生徒への学術指導等専門的情報の提供、以上のように操作化できると思われる。
 これらのうち、いかなる「パワー」がいかに行使されるかは組織目標達成に決定的影響を与える。しかしながら、最適な「パワー」の分布と行使は組織環境や組織構造の影響を受ける。すなわち、上記の教師の例の場合、教師の行使する「パワー」は結果的に所属する学校の校風創出に影響を与えるであろうし、逆にその学校の教育理念は教師が行使するべき「パワー」を決定するであろう。
 教師の資質としての理想型は、これら五つの「パワー」をバランスよく備え、条件適合的にそれらの「パワー」を行使し得ることであろう。しかし、そのような理想型の人材は存在し得るすべはなく、ひとりひとりがいずれかの「パワー」を偏在させているのが現実であろう。そこで、組織はそれら偏った人材をバランスよく確保することにより組織全体の均衡を保ち、組織目標達成を可能とするのであろう。学校現場における多様な人材の確保は、多様な個性をもつ生徒への対応という点でも有効である。ただ、組織が確固たる理念や風土を既に創り上げている場合においては、組織成員個々人のもつ資質や信条との間に齟齬が生じ、両者の間にコンフリクトが発生し、組織からの逸脱を企てる成員も生じるであろう。

 以上、原左都子自身の教員経験も交えつつ私論を展開したエッセイである。

 さて、皆さんはいかなる「パワー」をお持ちでしょうか? あなたがお持ちのその「パワー」が周囲に影響を及ぼし、世界をも動かしているのかもしれませんね。
 

 参考文献 : 野中郁次郎他著「組織現象の理論と測定」1989年
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サンバクラブリーゼンシー

2007年11月18日 | 恋愛・男女関係
 ウィークエンドのこんな夜は、いつもとちょっと趣向を変えて、心ときめいた青春の一ページでも綴ってみましょう。 


 ひと昔前の話になるが、新宿西口超高層ビルの一角にある外資系Hホテルの別館に、「サンバクラブリーゼンシー」というディスコがあった。ここはディスコとはいっても顧客の年齢層が若過ぎず比較的落ち着いた雰囲気が特徴で、当時、一部のアダルト層にはひとつの隠れた人気スポットだった。

 その日、僕は会社の社員表彰式がHホテルであった流れの2次会のため、表彰式に出席した仲間数人とこの「サンバクラブリーゼンシー」に繰り出していた。
 仲間と盛り上がっていると、隣の席に女の子二人連れが案内されてきた。黒い服を着た方の女の子のノースリーブのすらりと伸びた繊細な腕が、一瞬にして僕の目に焼きついた。年齢的にもちょうど狙い目なのだが、向こうは二人連れ、こちらは数人、人数が合わない。迷ったが、別グループの男連中に先を越されてもしゃくだし、僕はグループのリーダー格でもあったので、思い切って早速声をかけた。ふたりは快く応じてくれ、いっしょに飲むことになった。
 そのうち、運がいいことに僕の仲間のうち若い連中が先に帰ることになり、うまいぐあいに2対2になった。 女の子たちの酔いも回り始め、さらに盛り上がる。僕はどうしても黒い服の彼女の細い腕が気になる。どうにかして触れたい。だんだん後のことはどうでもよくなり、頭の中はその下心だけになっていく。彼女の腕に触れる妙案はないものかと思いをめぐらせているうち、ウィスキーの水割りを作る氷を利用する方法を考え付いた。氷の冷たさを利用して一瞬にして腕を握ろうとたくらんだのだ。これが思った以上の大成功で僕は彼女の腕を握ることができた。

 という訳で、僕の「サンバクラブリーゼンシー」の思い出は“彼女の細い腕”と“氷”なのである。

 その後、二人はどうなったかって?  それは、 ひ・み・つ… 

 
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量子力学的実在の特異性

2007年11月15日 | 学問・研究
 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。

 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。
  
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