原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

シングル・アゲイン

2008年01月20日 | 音楽
 私は最近、とあるブログへ頻繁にお邪魔し、毎日1時間も2時間も長居させていただいている。(Tさん、毎日お世話になっております。)
 他人のブログにそんなに毎日長時間お邪魔していったい何をしているのかと言うと、実はTさんのブログは音楽ブログなのである。音楽好きな私はTさんのブログで音楽を聴かせていただきながら、音楽に合わせて踊ったりいっしょに歌ったりして楽しませていただいているのである。Tさんの音楽ブログを昨年12月に発見して以来、もうこの生活を1ヶ月半程続けているのであるが、まだ飽き足らない。すっかり私の日課として定着している。

 Tさんの音楽ブログは、フォークソングからディスコサウンド、映画音楽からバレエ音楽まで幅広く動画をダウンロードされていらっしゃる。しかも、日々更新のブログの世界であるため、次から次へとどんどんダウンロードされていらっしゃるのだ。 何もTさんのブログにお邪魔せずとも自分のCD等で音楽を聴いて楽しめばよいし、今まではそうしていたのであるが、私はTさんと同年代のためかTさんの選曲にはまってしまっていることがこれだけ熱心にTさんブログへ通いつめるひとつの理由である。また、CDの場合入れ替え等の操作が面倒だが、Tさんブログの場合クリックひとつで次々と選曲でき、効率がいいのも大きなメリットである。

 私がTさんブログへ通いつめていることについてTさんにメッセージを送らせていただいたところ、Tさんが私の好みの曲を入れて下さったこともある。それはディスコサウンドをはじめ70年代の洋楽である。それまでは、Tさんブログはフォークソングを中心に取り入れていらっしゃった。歌詞が入っている曲もあるため、私もそのフォークソングをカラオケ代わりに十分楽しませていただいていたのであるが、この70年代ディスコサウンドを入れて下さったお陰で私にとっては踊る楽しみも増えたという訳である。

 現在、私が一番楽しませていただいているのは往年のフォークソング女性ボーカルである。荒井由美(Tさんは、あえて荒井由美と記載されていると察する。私にとっても、あの方は松任谷由美であるよりも荒井由美である。)中島みゆき、竹内まりあ…。昔もよく聴いたしカラオケでも熱唱してきたが、今Tさんブログでひとりでしみじみ聴かせていただくと、昔とはまた違った趣があるものだ。
 私の場合、音楽には歌詞よりもメロディラインやリズム、音で入るタイプで、正直言って若かりし頃は歌詞はほとんど聞いていなかったに等しい。ところが、この年代になると歌詞が身にしみるのだ。表題に掲げた竹内まりあの「シングル・アゲイン」は1989年にヒットした曲である。この頃私はカラオケ三昧で、夜な夜なカラオケで熱唱していたと言っても過言ではないのだが、当時は歌詞の意味など無視してただただ酔った勢いで歌っていた。今、Tさんブログで聴かせていただくとこれがすばらしい。“手放した恋を今、あなたも悔やんでるなら、やっとほんとのさよならできる…♪” 気持ちが痛いほどわかって泣けるね…。 中島みゆきの「わかれうた」もすばらしい。“恋の終わりはいつもいつも、立ち去るものだけが美しい、残されてとまどう者達は、追いかけて焦がれて泣き狂う…♪ ”この年齢になると、別れる別れるって騒ぐ方より残される方がもっと辛いよなあ、って実感だよね。

 Tさん、本当にすばらしいブログをありがとうございます。音楽好きの私はまだまだ訪問させていただきますが、どうかTさんのペースでブログをご更新下さいますように。
    
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ティッシュがもらえない…

2008年01月18日 | 雑記
 先だっての朝日新聞「声」欄に意表を突く投書があった。スクラップをとっておらずうろ覚えなのであるが、確か60歳代位の女性からの投書で、街頭で配っているティッシュがもらえない、という趣旨の内容であった。
 その投書によると、この女性のお怒りの程はかなり深刻なご様子である。街頭ティッシュ配り人はどうも年寄りを差別しているようで避けている、極端な場合、もらおうと思って出した手に一度は渡しかけたティッシュを年寄りだと判断するととっさに引っ込めてまで手渡そうとしない、これはけしからん、とのことである。(何分うろ覚えのため、趣旨が違っておりましたらどうかお許し下さい。)

 あの街頭ティッシュは、受け取る派と受け取らない派に二分されるようだ。私は受け取る派である。ただし、一応体裁を考えて手を伸ばしてまでは受け取らない。配り人が積極的に手渡してくれた場合にのみ受け取ることにしている。

 今現在は一時期ほど配られていないようだが、以前、猛烈な勢いで配られていた時期がある。その内容は、サラ金やテレクラ業界のものが多かったようだ。その後、未成年者保護等の観点から規制されたのであろうか、ティッシュ配り人は激減している様子である。
 私がよく出歩く池袋では、池袋東口からサンシャインシティに行く通りの駅から信号までが“ティッシュストリート”と呼んでもいいくらい多数のティッシュ配り人が出没していた。わずか100m程の距離で20個位ティッシュをもらったこともある。
 子どもが小さい頃、外出時にティッシュを持ち忘れたことがあった。ちょうど子どもが風邪をひいていてティッシュが必要なため、少し遠回りをしてこの“ティッシュストリート”を歩き、大量のティッシュをゲットし重宝したことがある。(買えばいいのに意地汚くてスミマセン…)

 恐らく、配り人も一応配る相手を選ぶよう指示されているのではなかろうか。業者は当然ながら宣伝媒体のひとつとしてティッシュを配布しているのであるから、その効果が出ることを期待しているはずである。ある程度ターゲットを絞り込んで配布した方がコストパフォーマンスが高い。 
 年配の方はサラ金やテレクラ等には縁のない方が多いであろう。お年寄りだから避けているのではなくて、その業種のターゲットとはなりにくいから配布しないのであろう。 私もティッシュをもらって一瞬考えることもある。サラ金業種のティッシュの場合は “やっぱり金欠人間に見えるかな。”、テレクラの場合 “いかにも男に飢えてそうかな。”などと…。 

 でもまあ、渡す方はノルマを早くこなしたいから誰でもいいからさっさと配り終えたいんでしょうけどね。 少なくとも、一旦渡しかけたのを引っ込めるのはやめましょうかね。それはやっぱりもらう方はばつが悪いよ。

 あっ、いただいたティッシュは有効利用していますよ。その業種を利用しているという意味ではなく、ティッシュを1枚残らず使わせていただいておりますので悪しからず。
 
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中高一貫校急増の社会的背景とその是非

2008年01月16日 | 教育・学校
 ここ数年、公立私立を問わず中高一貫校が急増している。
 昨日(1月15日)の朝日新聞夕刊一面記事に、特に大都市圏において高校からの生徒募集をやめて中高一貫校化する私学が急増している現象が取り上げられている。

 この記事には、少子化により学校間の競争が激しくなる中、早い段階で生徒を囲い込み、6年一貫教育で進学実績を伸ばしたいという私学の思惑や、中高一貫組と高校からの入学組とで授業の進度を変える「二度手間」を学校が嫌う風潮があることが記載されている。 一方、公立中学からは「優秀な子が私立に流れてしまう」との嘆きが聞こえるとも記載している。

 特に数が多く学校の「生き残り」がより激しい女子校でこの一貫校化が目立つ。08年2月の入試から高校募集を停止する東京の某女子校の校長は「公立にも一貫校が生まれ、一貫教育のよさが広く認められてきている。首都圏での中学受験ブームも追い風になった。」と話しているらしい。
 事実、首都圏での小学6年生の今春の私立・国立受験率は過去最高だった今年度を若干上回り、17、7%に上昇すると推計されている。すなわち、今春、首都圏では6人に1人が中学受験に臨むことになる。
 
 この中高一貫校急増のマイナス面としてこの記事では、似たような境遇の生徒ばかりがずっといっしょにいることで、社会性が欠如することを心配する声もあがっていること、また、公立中学側からは、「クラスを引っ張る優秀な生徒が私立に行ってしまうと、公立中はリーダーを育てることから始めなくてはいけない」こと、及び、高校受験の選択肢が狭まること、につき記載している。


 さて今回の朝日新聞の記事は、上記のごとく、中高一貫校の急増に対する学校側の言い分につき報道したものであるが、こういう問題は本来子ども及び保護者の立場から議論されるべきである。

 私見を先に述べると、生徒、保護者の多様性を考慮した場合、学校選択における選択肢が多いに越した事はない。子どもの能力、個性、適性及び家庭の経済事情等に見合う学校を自由に選択できる社会であるべきである。 そのような意味では、極端に中高一貫校が急増してしまうとアンバランスが生じ、一部の生徒の選択の幅が狭まるという弊害が出現する危険性がある。
 上記の記事の中に「公立にも一貫校が生まれ、一貫教育のよさが広く認められてきている。」とあるが、この記述に関しては信憑性が低いと私は考察する。公立の一貫校誕生後まだ2,3年しか経過しておらず、その真価の程については実証されているとは言い難い。
 結局、中高一貫校化は学校側の早期生徒囲い込み、及び教育の効率化、すなわち、学校側の経営事情改善に重点があると見るのが妥当であろう。

 一貫校化に対するマイナス要因としてあげられている“似たような境遇の生徒ばかりがずっと一緒にいることで社会性が欠如する”という考え方であるが、これは以前より私立学校全般に関してよく言われている言葉である。私見であるが、この記述も信憑性が低い。確かに私学は公立とは異なり各校の教育理念や校風に特徴があるのは事実だが、集まってくる生徒の個性は様々であり、家庭環境も様々である。ましてや、子どもは学校のみが生活の場ではない。子どもの価値観形成は様々な環境から影響を受ける。私立に進学したからと言って社会性が欠如するなどあり得ず、取り越し苦労、あるいはあくまで仮説の域を超えていないとしか言えないのではなかろうか。これは一貫校化のマイナス要因とは成り得ない。
 一方、公立側からの“クラスを引っ張る優秀な子が私立に行ってしまう”という記述も短絡的な発想としか言いようがない。国立私立受験の現状は、偏差値のみにより支配されていると言っても過言ではない。偏差値の高さイコール“優秀”では決してないことを教育者であるならば心得ているべきだ。 このブログのバックナンバー「組織論におけるパワー概念」でも既述しているが、人間の持つ“パワー”は多様である。クラスをひっぱる“優秀”な子どもは公立私立いずれにも偏差値にはかかわりなく必ず存在するものである。これも取り越し苦労、いや、偏見としか言いようがない。公立学校現場の教育者は、自校の生徒の能力をもっと信じて、3・3制に自信を持って常々子どもの教育に臨むべきである。

 という訳で最後に私論の結論を導くが、中高一貫化は学校側の経営の効率化が主たる目的であり、一時の流行現象と結論付けたい。
 教育の場はあくまで多様で選択の幅があるべきである。中高一貫校が存在してもよいのだが、それがアプリオリの善であるとは考えにくい。人間は環境が変わることにより成長できることも多い。6年一貫を選択するか、3、3制を選択するか、それは個人の自由である。このまま、中高一貫化が進み続けるとは考えにくい。いずれ自然淘汰されていき、両者が切磋琢磨しつつ存在し続けることであろう。
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偶然の再会

2008年01月14日 | 恋愛・男女関係
 大都会東京で暮らしていると、近所のスーパー等普段行き慣れた場所以外で偶然知人に出くわすということはまずない。この人口の多さから勘案して、知人に偶然出くわす可能性は確率的にもゼロに近いのではなかろうか。

 ところが、たまにこの偶然は起こるのである。

 個人的な話で恐縮だが、このブログの常連としてコメントを下さっている美術家のはるこ先生に池袋駅前の某資格取得学校の玄関前で偶然お会いしたことがある。税理士試験勉強のため私は週に何回かこの資格取得学校へ通っていたのであるが、私が学校の中に入ろうとしたところ、たまたま通りかかった女性がお声をかけて下さるのだ。池袋駅というと東京でも有数の大ターミナル駅である。はるこ先生は池袋駅近くにお住まいのため確率的には少し数値は上がるであろうが、それにしてもその偶然に私は驚いたものである。

 私は若かりし頃、“神がかり”としか表現できないようなこの偶然の再会を経験している。ある人物にこの大都会東京で何度も何度も偶然出くわすのだ。
 その人物とは私が20歳代後半にお付き合いをしていた男性なのであるが、決してどちらかがストーカーをしているという訳でもないのにあちこちで偶然会うのだ。冗談抜きで、デートの約束をする手間が省けるほど偶然会うのである。
 その理由は考えられる。駅はいくつも離れているのだが同じ沿線に住んでおり、勤務先も駅は異なるが同じ沿線、あちらの実家が私の住んでいる駅と偶然いっしょという風に、地理的な共通項がいくつもあったことが偶然会える確率を高めていたことは事実だ。必然的にその沿線で偶然会うことが多発する。
 例えば、私の自宅の最寄駅で偶然会う。あちらは実家に行こうとして下車したらしい。「じゃあ、お茶飲もうよ。」と言うことになる。 あるいは、電車に乗っているとあちらが同じドアから乗り込んでくる。これに関しては偶然性は高い。お互いの勤務時間帯がずれていたため、普段会うことはないからだ。たまたまどちらかが早かったり遅かったりするとこういうことも起こり得るのであろうが、10両以上ある電車の同じドアから乗り込んでくるというのも奇遇である。「じゃあ、いっしょに食事しようか。」という話になる。
 同じ沿線内ではともかく、大ターミナル駅新宿でもこの彼と偶然会ったことがある。新宿の高野ビル(今、まだあるのであろうか。)前は以前待ち合わせスポットとして有名だったのだが、ここで別の人物と待ち合わせをしていると、あちらも別の人物との待ち合わせで偶然会った。この時はお互いに別件の用で時間がなくデートはしなかったが。
 ふたりでこの偶然をよく驚き合ったものだ。「きっと、赤い糸で結ばれてるね。」なんて言いながら…。残念ながらそうではなかったようで、別れの日はいずれやってくるのであるが…。
 そしてこの彼と別れた後、別の男性とレストランで食事をしようとして入ったら、またそこでその彼に偶然出くわした。
 この話にはまだ続きがある。結局この偶然会う彼とは別れた後も友達としてたまに会ったりもしていた。
 30歳を過ぎて転居もし、お互いの生活環境も大きく変わり、この彼とは疎遠になっていた。そんな折、また偶然の再会が待ち受けていたのである。この偶然にはお互いに一番驚いたのであるが、今度は地下鉄丸の内線でのことである。前回の記事に書いたが私は丸ビルでの仕事帰り、東京駅から丸の内線を利用していた。乗り換えの都合上、いつも乗る車両のドアは決めドア付近で立つことにしていたのであるが、電車が次の銀座駅に着いたとき、な、なんとその彼が同じドアから乗り込んで来たのである。もう何年かぶりでの再会であった。あちらは、その日仕事の都合でたまたま丸の内線を利用したらしい。驚き合って、飲んで帰ろうということになり電車を降りた。
 それ以来何度か連絡があってお会いしたことがあるが、もう現在では連絡先も不明であり、偶然お会いすることもない。 もしかしたら、お互いに加齢のため風貌が変わってしまっていて偶然お会いしていても気付かないのかもしれないが。

 その後、どうなさっていますか?  
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丸の内でのお仕事

2008年01月12日 | 仕事・就職
 東京駅丸の内口駅前のビジネス街のビル群の中で最も駅近なのは丸ビルである。この丸ビル、2002年に建て替えられた後はビジネスビルとしてのみではなく、昨年建て替えられた隣の新丸ビルと共に、今や東京駅前最大の観光スポットとしてその名を轟かせている。

 建て替えられて新しくなった丸ビルではなく、建替えのために壊されてしまった歴史的建造物時代の旧丸ビルに私は4年間勤めたことがある。普通、丸の内に勤務と言うとOLをイメージするが、私の場合丸ビルでOLをしていた訳ではない。(私の職歴は多岐に渡るが、OL経験は一切ない。) 旧丸ビルの存在は有名であるが、その丸ビルの最上階にレストランラウンジがあったことは一般に知られていないであろう。私は、このラウンジで夜ラウンジコンパニオンのアルバイトを4年間続けたのである。

 私は30歳を過ぎて再び学生になり、修士取得までの6年間学業に励んだことについては、当ブログのバックナンバー「パーコン」で既に述べている。 繰り返すが、私は30歳を過ぎた頃、自らの意思でそれまで勤務した医学関係の民間企業を退職し学生になった。大学院修了までの6年間独り身で学業に励んだ訳であるが、自力で生計を立てつつ学業に没頭するためには、手っ取り早く稼げる仕事を選択するのが一番の方策であった。民間企業勤務中に単独で購入した分譲マンションの住宅ローンもまだほとんど未返済であった。 大学の長期休暇中にはそれまでの自分の専門の医学分野の人材派遣で集中的に稼ぎ、普段の土日祝日にはパーティコンパニオンやワープロのデモンストレーター等単発の仕事で収入を得、土日夜には家庭教師をし、そして平日夜には旧丸ビルのラウンジでラウンジコンパニオンをしていたという訳である。
 パーコン(パーティコンパニオン)同様、当時は既にラウンジコンパニオンのアルバイトは私立女子大生の間ではそう珍しいことでもなかった。しかし、国公立の女子学生のアルバイトコンパニオンはやはりまだ希少な存在であった。したたかな私はそこを狙ったのも事実である。
 そして、この丸ビルの最上階のラウンジは客層が丸ビル及び周辺ビルに勤務する会社帰りのサラリーマンの常連固定客ばかりである。(三菱ブループ企業のエリートサラリーマンがほとんどであった。) 当時はまだ個人情報をオープンにすることにより自己アピールをすることが一般的な時代で、客からのよくある質問が「アルバイトでしょ、どこの大学?」である。 国公立の学生であることを告げると一目置いてくれるというのか、とにかく客の受けがすこぶるいいのである。 断っておくが、ラウンジコンパニオンは着席はしない。あくまで立って歩きながら水割りを作ったり等のサービスなのであるが、客と二言三言程度の会話はする。「もし良かったら連絡して。」などと言って、名刺を手渡される事は日常茶飯事である。また、閉店時間が早く仕事の終了時間も20時30分(わずか2時間の仕事)と早い時間帯なのであるが、「下で待ってるから。」といって私の仕事終了を待っていてくれて飲みに連れて行ってくれる客もいたりする。(常連客ばかりだから安心。もちろん相手は選ぶよ。) とにかく時給はいいし3倍美味しい仕事であった。 人脈作りにはもってこいの仕事で、この仕事のお陰でよき相談相手や飲み友達に恵まれたものだ。この仕事を辞めた後も長年お世話になった方々も何人かいる。
 ときどき、チップをいただけることもある。お断りするのであるが、まさかそれで引っ込める客はいない。そこで、そっと受け取る。大抵は千円札1枚なのであるがときどき五千円札の時もある。ロングドレスを着ているためポケットがない。このチップをどこに収めるかと言うと、先輩コンパニオンに教わったのだが、胸とブラジャーの隙間にすばやく挟み込むのである。
 などと書くと不謹慎極まりない!とお怒りの方もいらっしゃるであろうが、その仕事内容は至って厳しい。とにかく客商売は忍耐力が勝負だ。当ブログのバックナンバーの記事「パーコン」でも既述しているが、コンパニオンの仕事には、“華”“気品”そして“おもてなしの心”が要求される。どんなに疲れていようが顔を塗りたくり、颯爽と姿勢を正し笑顔でいなくてはいけない。 片や客はお酒も入っているし、対応に苦慮した経験も数多い。それでも、お客様は神様である。失礼は許されない。

 私にとってこの客商売経験(パーコン、その他も含めて)は自己の人格形成に大いに役立ち、人間の幅がさらに広がったと自負している。故に、こうやってあえてブログで公開しているのだ。
 私は、このラウンジコンパニオンを3月まで経験した直後の4月から、高校教員として某公立高校へ赴任した。生徒指導上、この客商売経験がプラスに作用したことはいうまでもない。
 
 今後の教員研修の中に客商売を盛り込み、教員を鍛えなおした方が良いのではないかと私は真剣に考えているほどである。

 様々な職業経験をすることにより、人間は自分の幅を広げていくことができる。
それを短期間であるとはいえ自分自身の人生で実証してきた私が訴えるのであるが、どうか世間の皆さん、少なくともご自身の狭い見識で職業差別をすることはもう終わりにしませんか。
  
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