原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子どもの進路決定

2008年11月19日 | 教育・学校
 ここのところ、子どもの学校へ足を運ぶ機会が続いた。
 我が子は現在中学3年生。 中高一貫校(高校からの入学者もあり)へ通学しているため高校は内部進学で受験はないのだが、高校でのコース分けにあたり、そのコース選択のための子ども本人と保護者と教員の三者面談や公開授業に保護者として出かけたためである。


 本ブログの教育・学校カテゴリーのバックナンバーでも繰り返し述べてきている通り、現在の学校のランク付けの根拠は、悲しいかな「偏差値」一辺倒である。
 中でも、嘆かわしいことに高校のランキングは難関大学進学率で決まっている。春先になると、週刊誌ではどこの高校が東大に何人合格させた、どうたらこうたらの何ともくだらないランキングを各出版社がこぞってデカデカと掲載しているのを、車内広告や新聞の広告欄等で皆さんも嫌でも見飽きていらっしゃることであろう。

 そんな歪んだ社会背景の中、特に進学高校は偏差値偏重の風潮に応えていかなければ生徒が集まらず生き残っていけない現状なのである。

 我が子が通う学校も生徒のほぼ100%が大学(短大も含む)へ進学する進学校である。 学校の知名度を上げるためには少しでも難関の大学への進学率を増加させたい、というのが学校側の魂胆である。
 そこで高校ではコース分け制度を導入している。難関大学へ進学するコース、それに準ずるコース、スポーツ推薦等で難関大学を狙うコース、そして我が子の学校は大学附属校であるため大学へ内部進学する一般コース、という選択肢である。

 学校としては一人でも多くの難関大学合格者(入学者)を出すためには、中学からの内部進学の生徒にも高校進学時点でレベルの高いコースを狙わせたい。そのため中3から成績別クラス編成制度を導入し、最上位クラスの生徒は難関コースを狙わせる教育に励んでいるという訳である。

 我が家の娘も現在どういう訳かこの最上位クラスに所属しており、周囲のほとんどの生徒が高校の難関コース及びそれに準ずるコースを狙っている。
 そのような環境の中、娘と夏頃から高校のコース選択について話し合ってきた。


 結果としては、我が家の娘は「一般コース」を選択することに決定した。
 我が子の場合のコース選択基準は、将来進学する大学の知名度でも何でもない。そんな表面的な事柄には元よりほとんど興味のない家庭環境で育てているため、子ども本人も大学の知名度等の上っ面だけの体裁には興味を持たずに育っている。(ただし、親が卒業、修了した大学、大学院には興味はあるらしい。特に女の子であるためか、母の私が卒業、修了した大学、大学院には相当の関心を持っている様子である。やはり親の背中を見て子は育つものなのかと、むしろ親として興味深い現象と捉えている。)

 コース選択にあたり、まず最優先したのが子どもの将来の職業希望である。とは言えども、まだ14歳の子どもに具体的な職業決定は困難だ。そこで、現在本人がどのような分野に興味があるかを第一の選択基準とした。

 次に考慮したのは、子どもの個性と今後に及ぶバランスの取れた成長である。大学進学を目指すとは言え、高校生活のすべてを受験勉強で明け暮れさせることは私自身の経験から避けたいと考えた。 ウン十年前にやはり進学高校で大学受験一辺倒だった私は、むしろそういう生活に潰されてしまったと悔やんだからである。 大人に近づく思春期の微妙で繊細な時期に、人間として経験するべきことは山ほどある。受験勉強一辺倒ではなく、多方面にバランスの取れた高校生活を送らせてやりたいものである。むしろ生活の充実が向学心をもたらすと、私は後々の経験から実感するのだ。

 確かに進学を目指す高校生にとっての目先の目標は大学合格であることは認める。そして、晴れて大学に入学したならば、学問に励み未知の分野を掘り下げ、人間性をより深めて欲しいとも思う。だが長い人生において、大学とは単なる一通過点にしか過ぎない。人間が目指すべきものは長い将来に渡る幸福であろう。そのような大きな視野で物事の選択をしていくべきだとも子どもに伝えた。


 その結果「一般コース」を選択した子どもに私は念を押した。人間にとって高校レベルまでの基礎学力は生きていく上で必要不可欠のものであるから、今まで通りに学習は着実に滞りなく続けるように、と。 コースにかかわらず結果とは後からついて来るものだと。
 決して甘っちょろい親ではないつもりである。
Comments (8)

時間の価値

2008年11月16日 | その他オピニオン
 「時間」とは不思議な観念として空間と共にこの世に存在している。
 いや、「時間」なんてもしかしたらそもそもこの世に存在しないのかもしれない。少なくとも、人それぞれに、また場面によって、相対的な存在なのではなかろうか。
 愛おしい恋人と過ごす時には「時間」の存在を恨みたくもなる。誰しも「時間」を止めて、いつまでも二人だけで同じ空間を共有し続けたい思いであろう。
 

 さて、11月14日(金)朝日新聞夕刊の“こころ”のページの“悩みのレッスン”の今回の相談は、この「時間」を巡る相談である。
 
 早速、15歳女子中学生の「時間制限は必要?」と題する相談内容を以下に要約してみよう。
 私は数学の試験が苦手だ。別に数学が嫌いな訳ではないし難しい問題も解けるのだが、試験になると上がってしまって実力が出し切れなかったり、また、分かっていたのに時間がなくて解けないことも多々ある。
 数学者などは難しい問題をとても長い時間をかけて研究している。人間には自分が死ぬまでという時間の制限はある。だが、数学などは10分で解いても3日で解いても、解いたということには変わりはないと思う。数学に時間制限は必要なのか。
 以上が、女子中学生の相談内容の要約である。

 これに対する、創作家の明川哲也氏の回答を以下に要約する。
 素晴らしい。その疑問に至ったあなたは百点を取ったことで満足している人よりはるかに世界が見えている。学校とは本来、生きていく知恵を養う場所である。環境が激変しても難題が降りかかっても生きていける力とは、つまり、ひとつのことをあらゆる方向から見られる複眼的視野であり、そこに自分の活路を見い出せる能力である。数学をやるのもそのためだ。
 時間に関係なく数学に浸ればいいのではないかと気付いたあなたは、ひとつの自分の生き方を見つけ出している。生き方や価値観は与えられるものではなく、自分で切り開いていくものだ。試験はしょせん遊戯なのだと割り切り、気に入った学問をとことん追及して欲しい。
 以上が、明川氏の回答である。

 本ブログにおいて以前より何度も既述している通り、私は明川哲也氏のファンである。なぜならば、僭越ではあるが私の思考回路が明川氏とよく似ているためだ。
 今回の明川氏の回答も、まさしく私の見解と一致する。


 私事になるが、我が子は決して知的レベルが低くはなく、理解力や記憶力等の学習能力も決して劣っている訳ではないのだが、物事への取り組みがマイペースなところがあるため、過去においてこのマイペースを学校やその他子どもがかかわった機関から指摘され続けてきている。
 親である私は、元より人間の体内時計は人それぞれであると認識しているため、普段は我が子のペースを尊重しつつ教育育児に臨んでいる。
 だが悲しいかな、学校という集団内では学校が定めた(根拠の乏しい)時間配分に収まりきらない子どもは“逸脱児”とみなし、学校が定めた時間に収まりきれる“通常児”になれるよう指導教育しなければならないという使命に燃えているようだ。
 これは「時間」に関する複眼的な視野を持つと自負する私のような人間から見た場合、正直言って迷惑とも言える話だ。 学校には表向きは「ご迷惑をお掛けします」と頭を下げ教員の機嫌を損ねないよう重々配慮しつつ、我が子の持って生まれた個性や将来の可能性を潰されることのないよう、我が子と学校の間に入って常に調整役に徹しざるを得ない私である。

 そのような私的事情も抱えている私は、この朝日新聞の投書者の15歳の女子中学生はこの年齢で既に「時間」に対する複眼的な視野を育てていて、明川氏の回答同様に十分素晴らしいと感じる。


 まさに明川氏のおっしゃる通り、生き方や価値観は他者から与えられるものではなく自分で切り開いていくものだ。
 人それぞれの体内時計を大切に育みつつ、特に将来のある若い世代の人々には、気に入った学問を時間の許す限りとことん追及したり、愛おしい恋人と時間を超越した満たされる空間を分かち合ったりして欲しいと願う私である。 
Comments (11)

行きずりの人と話そう

2008年11月14日 | 人間関係
 10月の朝日新聞朝刊「声」欄で、見知らぬ行きずりの人と会話をすることの是非について議論が展開された。
 この世にある程度長年生きている私の年代以上の世代の人々にとっては、おそらく行きずりの人と会話をする機会は日常さほど珍しいことではない。そのため、上記のような話題が議論の対象となること自体に、人間関係が希薄で閉鎖的な今の時代を痛感させられるのではなかろうか。


 では、まず女子高校生の投書から紹介しよう。
 電車内で歴史の勉強をしていると、右隣の年配の男性から「懐かしいなあ。僕も歴史をさんざん勉強したよ」と話しかけられた。一瞬何が起こったか分からなかったが「あっ、そうですか」と答えた。その後意外に話が盛り上がり話し込んだ。楽しかったし、ふとした出会いが嬉しかった。
 しかし周りの人々はそうは思わず、私たちが話している間、明らかに男性を警戒していた。知らない者同士が電車の中で語り合う状況は普通は怪しいのであろう。
 どうして皆こんなに人と接することを避けるのだろう。ずっと隣合って座る相手とちょっとした会話のひとつもできる状況にない社会は奇妙だ。相手を認識していて、そうでない振りをし合う状況はくすぐったい。日本人は昔からこうだったのか。
 以上が女子高校生による投書の要約である。


 続いては、子どもをめぐる同種の内容の「声」欄の議論を紹介しよう。

 75歳の女性の投書から。
 道中小学生の子どもに駅までの道を尋ねると、ひとりの男の子が丁寧に教えてくれた。その時、一緒にいたひとりの女の子が「知らない人と口を聞いてはいけないって言われてるでしょ」と男の子に小声でささやいた。凶悪な事件が頻発している現在、教師や親御さんは毎日子ども達にそのように言い聞かせているのだろうが、可愛い子ども達との会話も出来ず、悲しい気持ちになった。

 この投書に対して、子どもを持つ主婦の立場の意見は下記のようだ。
 もし我が子がこの女の子同様の発言をしたら悲しく思う。だが、子どもの学校の通学路で女児死体遺棄事件が起きており、保護者は一時も子どもから目が離せない状況だ。今は「優しそうな人でも悪い人かもしれない」と子どもに言うしかない…。


 本ブログのバックナンバーのインド旅行記においても既述したが、私にとっては見知らぬ人との出会いとは旅行の醍醐味のひとつである。その出会いのきっかけは笑顔であり会話であった。インドの人々の笑顔のお陰でよい出会いができ、思い出深い旅となったことについてはバックナンバー「見つめるインド人」で語った通りである。

 私は基本的に行きずりの人との偶然の出会いが好きな方である。
 先だっても地下鉄構内の上りエスカレーターに乗っていると、真後ろの女性が「素敵なスカートですね」と話しかけて下さる。とっさに「ありがとうございます」と答えると、エスカレーターを降りた所で「パンプスも素敵ですね。私もそんな格好がしたいの」と返してくれ、その後その女性と同方向に二人で並んで歩きつつファッション談議がしばらく続き、曲がり角で別れた。思いがけなく楽しい一時であった。

 かつては子どもを連れていると、年配の女性がよく声をかけてくれたものである。私は必ず丁寧に返答をするため、長い立ち話に発展する事はよくあった。笑顔で話していると子どもも喜んで会話に同調してきて、可愛がってもらえたものだ。


 さて、朝日新聞「声」欄の投書に話を戻そう。

 昨今、子どもが犠牲になる事件が多発している現状を考慮すると、特に小学生位までの若年の子ども達に対する危機管理教育は重要で不可欠である。保護者として「優しそうな人でも悪い人かもしれない」と子どもに諭すのはやむを得ないこととも判断できる。

 一方で、子ども自身の判断能力に委ねられる年齢に子どもが達したならば、危機管理の基本教育は貫きつつ、子どもの判断に任せる余地が出てきてもよいのかもしれない。
 その場合の前提となるのは、小さい頃から保護者が子どもと共に行動することであろう。見知らぬ人とのコミュニケーションを親子で体験することが、子育て上不可欠と私は考える。もしも、保護者自身が頭から見知らぬ人は悪人、あるいは“自分には何の関係もない人”と捉えて接触を避けていると、子どもも将来同様の行動をとる可能性が高くなるのではなかろうか。その場合、せっかくのすばらしい人との出会いのチャンスも失うこととなり、人間関係の希薄化に拍車がかかり、今以上にギスギスした社会になってしまうことが予想される。そして、そのような閉鎖的な社会からの疎外感を感じて孤立する人々が増え、犯罪も増えていくという悪循環に陥っているのが現在の社会の構図なのではなかろうか。

 上記の投稿者の女子高校生は、見知らぬ人に対するとっさの人物判断能力が十分に備わっているのではないかと察する。投書文を読む限り、電車の中での行きずりの男性との有意義な一時を十分に共有できている。
 見知らぬ人との偶然の出会いを楽しい、嬉しいと感じられる心を育てているこんな女子高校生がいることが、私にとっては今時とても嬉しい発見である。


 投書者の女子高校生さん、昔の日本には人間関係において平和な時代もあって、日本人は意外とフレンドリーで、見知らぬ行きずりの人々といい人間関係を築いていたものですよ。そんなすばらしい文化を若い世代にも受け継いで欲しいとも私は思っています。
   
Comments (10)

なぜ落ちぶれる?

2008年11月11日 | お金
 先週インドから帰国後真っ先に目に入ったニュースが、一世を風靡した音楽プロデューサー小室哲也容疑者の著作権譲渡詐欺容疑逮捕事件である。


 小室氏は90年代を中心に数多くの大ヒット曲を手がけ音楽芸能界で活躍すると共に、その著作権収入等により巨額の富を築いた人物である。

 小室氏は若い女性の高音のボーカルを好むようで、90年代以降のどの曲を聴いても女性ボーカルの無理のあるキーキー声の高音が耳障りであるし、かつ曲風がアップテンポの単調なリズムの曲ばかりで、私にとってはさほどインパクトはなかった。

 加えてこの人の女性遍歴は特異的である。お気に入りの懇親の女性をにわかアーチストに仕立て上げて、公私の境目なく引っ張り回すのがお好きなようだ。子どものような華原朋ちゃんとお手々つないでマスコミに登場していた辺りはまだ可愛げもあったが、その後、自分の目にかなった篠原涼子、アサミ、……、KEIKOと次々と歌手としてプロデュースしデビューさせては、入籍し子どもも産ませて飽きたらポイ捨てで次の女へ鞍替えし、巨額の慰謝料を与えれば済むと思っていた様子だ。


 そんなこんなで、私個人的には小室氏には昔も今も特段興味はないのだが、この人の音楽的才能は一般的観点から認めてもよいであろうと思われる。
 その類稀な才能で築き上げた個人の巨額な資産(100億とも言われるが)を自分の好き放題に贅沢三昧しようが、誰に責められることもないと言えなくもないのだが…。
 報道によると、海外で音楽事業を展開し、元妻へ巨額の慰謝料を支払いつつ、朝からシャンパンを飲み、50万円の高級ワインを夜な夜な味わい、フェラーリ等の高級外車を乗り回し…… 90年代以降ずっと、贅沢の限りを尽くし続けていた模様である。
 揚句の果てに巨額の借金を背負い、今回の詐欺容疑逮捕に至ったものである。


 もう少し、頭が働かなかったものなのか。

 音楽の世界、特に流行歌の世界など、その名の通り“流行(はやり)失さり”の激しい世界である。今流行っていても明日には廃れているものだ。そういう世界だ。誰が考えたっていつまでも人気が持続する訳などない。先見の明をもって、将来の収支予測をし行動計画を立てるべきだった。当然ながら背後に会計専門家も控えているであろうに、この失態はどうしたことか。

 そして、プロの音楽家としての人生を全うしたいのならば、長い人生における自身の音楽とのかかわり方を直視し続けることを最優先するべきだ。真に音楽を愛しているのならば、自分が築いた巨額財産のバブルに浮かれて暮らすことよりも、音楽活動に集中することの方が楽しく有意義であったはずである。

 それとも、“人気”や“名声”とはそれ程魅力的なのか。贅沢三昧し続けている“小室哲也”の姿が“売り”でもあったのだろうか。
 そんなつまらない人生を送って、なぜせっかくの才能を無にして自ら落ちぶれようとするのか…。
 

 宝くじの巨額当選者に幸せになる人は少ないとも一般に言われているが、それは自らお金の使い方を心得ず、主体性なく周囲の金融投資機関等の口車に乗せられ安易に投資行動に出てしまうためであろう。

 人気稼業には必ずや“廃れ”と“終焉”が訪れるものだ。人気者が一時の勢いで築いた財産とは、宝くじが当たったのと似ている。財産を持てる者は自ら財産管理の力量を培うべきでもある。

 一時の“流行”という勢いに乗って稼いだ財産の全てを深い思慮もなく自己満足のために短期間で使い果たし、巨額の借金まで抱えるに至り、揚句の果てに著作権譲渡詐欺行為にまで及んだ小室氏の落ちぶれようは、端で見ていてもあまりにも惨めとしか言いようがない…。
  
Comments (16)

見つめるインド人

2008年11月08日 | 旅行・グルメ
(写真はアグラにある世界文化遺産“ファテープル・シークリー”で出会ったプライベートスクールの小学生たち)

 インドは、日本人を含む黄色人種系の観光客が少ない。私が今までに訪れた世界の国々の中で、一番日本人を見かけない国だったように感じる。
 そのため物珍しいせいか、インド人からの注目度が高い。どこへ行っても大勢のインド人の大きな黒い瞳に見つめられる。好奇心が強く純粋で素直な国民性なのかもしれない。皆さん、遠慮のない視線を投げかけてくる。
 私など、こういう現地の人とのふれあいが旅行の大きな楽しみのひとつであるため、注がれた視線にいつもすかさず微笑み返すのだが、あちらもとてもいい顔で微笑み返してくれる。(ただし微笑み返してくれるのは中流階級以上のインド人だ。下流階級の人々は決して微笑まない。最低限の衣食住に精一杯で微笑む余裕などないのが現状なのであろう。)

 子どもはもっと好奇心旺盛で、積極的に声をかけてくる。「ナマステ!(ヒンズー語で“こんにちは”」「ハロー!」などなどと。喜んで応じると、すぐになついてくる。至ってフレンドリーだ。 例えば、上の写真はアグラの観光地“ファテープル・シークリー”で出会った、遠足か校外学習か何かで現地に来ていたプライベートスクールの小学生たちである。目敏く日本人の我々を見つけると、駆け寄って来て「ハロー!」と言って握手を求めてくる。私が微笑みながら快く応じていると、引率の先生と思しき人や周囲にいた観光中のインド人の大人までが駆けつけてきて握手を求めてくる。まるで売れっ子タレント並みの大人気者にでもなった気分の私である♪♪  その後、小学生グループはずっと私の回りを取り囲みつつ付いてきて、皆が話しかけてきたりスキンシップを求めてきたり、とにかく何とも可愛らしい。私が写真を撮ろうとすると皆が喜んで我先にとカメラの前に立ち、この写真のような満面の笑みを振りまいてくれる。お陰でこの観光地を出るまで、この小学生たちとの楽しい一時を共有させてもらえた。
(今の日本の小学生のように「大人を見たら悪者と思え」的な寂しい教育環境の下とは大違いの、自然体で無邪気な子ども達である。)

 大人のインド人が声をかけてくれる第一声で一番多かったのは“Are you Chinese?”である。後は“Korean?”あるいは“Thai?”というのもあったが、残念ながら“Jananese?”が出ない。う~ん、日本の国力、知名度はここまで堕ちぶれているのか??と、こんなところで妙に実感させられる。
 一昔前までは、世界中に日本人観光客が蔓延っていたものだ。どこの国に行っても日本の“団体さん”が醜態を晒していたものだが、すっかりアジア諸国のニューリッチ層にその座を取って替わられている模様だ。
 せっかく海外旅行へ行っても周囲に日本人が多かったり日本語が聞こえてくると大いに白けるものだが、そういう意味でも今回のインド旅行は異国を満喫できたと言える。

 複数のインド人男性に年齢を尋ねられるのにも意表を突かれた。 まずは、ガイドのサキール氏だ。2日目のドライブ中にいきなり「何歳ですか?」との質問を受けた時には一瞬たじろいだ。日本では昔から女性に対して年齢を聞くことは失礼だとされているし、また近年は個人情報保護の観点からも公共の場で年齢を尋ねられることは皆無だ。 おそらくインドでは年齢を尋ねることはありふれた会話のひとつなのであろう。公表する程の年齢でもないためとっさにこちらから聞き返してごまかしたのだが、人間同士が親しくなるワンステップのようで少しも悪い気はしないものである。


 そんな一方で、見つめるが微笑まない下流階級の存在がやはり気にかかる。
 車が信号待ちの度に目敏く観光客を見つけて、車がひしめく道路上を命がけで車の窓硝子を叩きにくる子ども達。中には“サーカス芸”を身につけ、信号待ちの車の狭間でバック転を披露したりしてお金をせがむ子もいれば、自分がまだ3、4歳なのに赤ちゃんを抱いてやってきて「チチ、チチ(乳)」と言いながらミルク代を要求してくる幼女もいる。この子達の視線は真剣ではあるが、決して微笑まない。私は少額紙幣や日本から持参してきたお菓子をあげたりしたのだが、心境は複雑だ。

 片や、インド国内線のエアラインを利用しているのは言わずと知れているが皆上流階級だ。たまたま席で隣り合わせた青年はデリーで国際線に乗り継いでこれから仕事でニューヨークへ向かうと言う、IT産業に従事するエリートエンジニアだ。聞いてみたところ、やはり数学はハードに勉強したという。フレンドリーに話しかけてくれるのだが、流暢な英語についていけず残念ながら話がとぎれとぎれになる。


 以上のように、ごく一部の上流階級と大勢の下流階級が入り乱れつつ日々の暮らしを営むインドという国の実態を私は垣間見てきた訳である。
 いつの日かの未来に、文明の歴史や伝統があり自然環境も豊かなインドというすばらしい大地に生を受けた全国民が、心から微笑むことのできる社会が築かれる日の到来を私は望むばかりである。 
Comments (14)