原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

放射能論議は是非共冷静・慎重に…

2011年09月19日 | 時事論評
 本日(9月19日)昼間のNHKニュースにおいて、福島第一原発事故関連の報道を2本立て続けに見聞した。

 その一つは、日本原子力学会が本日開会されたニュースである。
 この学会の全体会において、学会長であられる東大教授が以下のような内容の挨拶を述べる影像がニュースで映し出された。
 「3月11日に発生した東日本大震災に連動して福島第一原発事故が生じ、福島県民をはじめとする国民の皆さんに多大なご迷惑をおかけしていることを大変遺憾に思っている。 このような大規模原発事故が発生することは我々原子力学会においても想定していなかった事実を認め、お詫び申し上げたい。」

 私論に入るが、東日本大震災自体は天災であろうが、福島第一原発事故は“人災”であることを本エッセイ集のバックナンバーにおいて再三指摘してきている。
 “人災”である以上、その責任を取るべき人物なり組織が必ずや存在するはずだ。 それは政府であり、そして原発開発、推進、運営に係わった専門家達であろう。 
 その意味で原発研究の専門家集団である 日本原子力学会 の責任は重いものがあると前々より捉えていた私であるが、本日初めて謝罪らしき言葉が聞けた思いだ。 願わくばこの非常時においてはもっと早い時期に学会臨時総会を開催して、上記の謝罪の言葉を福島の皆さん及び国民に向かって発して欲しかったものだ。
 現在開催されている原子力学会総会においては、おそらく今後の原発放射能汚染よりの復興に対する専門的な意見が取り交わされていることであろう。 遅ればせながらでもよいから、どうか一日も早い原発事故収束のために専門家集団は日々精進を続け、その情報を逐一国民に公開して欲しいものである。


 そしてもう一つのニュースは、昨夜愛知県日進市において開催された花火大会において、福島県川俣町で作られた花火を打ち上げ中止としたとの報道である。
 この花火大会においては福島県川俣市で制作された花火80発を、日進市において福島原発復興支援目的とのスローガンの下に打ち上げ予定だったとのことだ。 ところがその事実を知った愛知県地元住民より、放射能不安趣旨のクレームがメール等で寄せられたらしい。 開催主宰者である自治体はこのクレームを受け入れ、急きょ川俣市の花火の打ち上げ中止を決定したとのことである。 当然のことながら、福島県川俣市側は困惑を表明しているようだ。

 私論に入るが、この種の復興支援イベントとは企画段階から慎重に計画実行されるべきだったの一言に尽きるのではあるまいか。
 原左都子自身は決して、先だって暴言を吐いて辞任した鉢呂ナンタラ大臣のごとく福島が「死のまち」などとは捉えていない。 いつか遠い未来には必ずや福島の皆さんのかけがえのない郷里として復興する日が来るであろうことを、一国民として祈っている。
 ただ、一旦目に見えない放射能にレベル7で汚染された国や地域がその脅威から復興出来る時期の遠さを、我が過去の医学経験からある程度は理解できる気もするのだ…。 その観点から考察すると、愛知県の自治体において昨夜行われようとしていた川俣市の業者制作による花火の放射能の程を愛知県側の市民が慮る思いも理解できる気もする。
 福島の皆さんの復興支援を是非共行いたい気持ちは国民皆山々であろうが、ここは自治体の長や幹部たるもの放射能の脅威も少しは視野に入れて、企画段階から世間を騒がす結果とならぬよう、そして福島県民の皆さんの感情を逆なでする結果も回避するべく重々配慮した上でイベントを開催して欲しいものである。


 さて私事に移るが、先だってネット上のアンケートサイトより福島原発事故にかかわる放射能の影響を日々どれ程認識して行動しているか、との趣旨のアンケートが届いた。
 原左都子の場合、本エッセイ集において原発事故に関する私論を再三述べて来ているが、実は個人的な対応策に関して詳述する事は一貫して控えて来た。 それはこのエッセイ集をお読み下さった方が、私の行動を真似して世間よりバッシングされる等の被害を避けたい意思故である。

 今回は上記アンケートに回答したことをきっかけとして、私の放射能に対する日々の防御行動について少しだけ語る事にしよう。

 結論から言うと、私はおそらく慎重派である。 
 例えばスーパー等で買い物をする時には“福島産”あるいはその近辺産の表示がある場合、購入を避ける事にしている。
 また生協の宅配を利用している私であるが、生協宅配においては現在セシウム汚染に対する対応策として生協自らが放射能量検出結果を記述した紙が配布されてくる。 このデータの解釈までをも詳細に分析して商品を購入している私だ。
 と言うのも皆さんもある程度ご存知であろうが、福島原発事故以降セシウム等の放射能汚染に関する“危険度の基準値”が大幅に押し上げられている現実である。 あの事故を正当化せねば今は国家が成り立たない国政の切羽詰った事情も理解できないではない。 ただ国政が定めた基準値をそのまま受け止め「基準値内」とのお墨付きの食材を長年摂取し続ける弊害には、国民自らが自主的に危機感を持ちつつ行動するべきなのだ。(参考のため「基準値内」とはセシウムが含まれている、との意味である。)

 いえいえ、私も当然ながら福島の復興を願う皆さんの思いは重々理解できている。
 ただその思いと、自分の健康を放射能汚染から守っていくこととは元々相容れない命題ではなかろうか?

 先だってのテレビ番組に於いて、とある有名人教授が「福島の野菜や牛肉を食べると健康を害するからできるだけ捨てよう」と発言をして世の物議を醸しているらしい。
 上記有名人が発した言葉自体には信憑性があると私も考えるが、確かにこの種の著名人がメディアで発言をする時には視聴者が千差万別であるが故のその影響力の程を鑑みるべきであろう。

 ただ、放射能汚染を巡る対応策とはやはり慎重になされるべきというのが原左都子の私論であることは揺らぎない。
 土を削ったらそこで子ども達が運動会をしてもOK???  福島はじめ東北地方の野菜や牛肉等の農作物を食べる事こそが復興に繋がる…… ???
 どう対処すれば、その種の短絡的発想から抜け出れないでいる善良復興支援者達の真の放射能汚染被害を守る事が出来るのだろう……  


 日本原子力学会も本日遅ればせながら自らの過ちを認めた事だし、原左都子も真に国民の健康を放射能汚染から守るために今後如何なる行動を取ればよいのかについて、引き続き考えていくことにしよう。
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学校行事ごときに翻弄されたくない!

2011年09月17日 | 教育・学校
 我が子が通っている学校に於いて、本日と明日文化祭が開催されている。

 子どもが中1の時には義務教育課程でもあるし、一応保護者の責任として娘の様子を見る目的で文化祭を訪ねた。
 我が子は、“右向け右”と言われたら左を向きたい天邪鬼の原左都子ほどは“集団嫌い”ではなく素直で従順な子なのだが、持って生まれた個性故か学校の運動会や文化祭のごとくの祭典を小さい頃より好んでいない。
 それでも中1頃はまだまだ無邪気な年頃だったためか、それなりに自分のノルマをこなしつつ時間を送っていたようだ。

 現在高3となり大学受験直前の今となってはもはや文化祭も“任意参加”かと思っていたら、そうではなく全員強制参加とのことだ。 
 「で、一体何をやるの?」と聞いてみると、クラスの出し物として“ドリンクバー”を出店するとのことだが、これは“言い出しっぺ”を中心とした少数グループの嗜好であり、当然ながら30何名かいるクラス全員がこれに好き好んで取り組むはずもない。 それでも全員強制参加となれば、部活展示等別枠の担当がない限り、これを手伝わねばならない。 文化祭開催のために1日半もの長い期間授業を取り止めて準備期間が設けられており、当日も含めると3日半もこの“好まない手伝い”で貴重な日々を潰さざるを得ないことになる。

 「で、どうやってその長い時間を潰してるの?」と娘に尋ねてみると、「教室の端っこに座っているしかない。グループでつるんでいるクラスメート達も座り込んで、お喋りばかりしている。」……  「時々、これ手伝ってもらえる?と言って“言い出しっぺ”グループが単純作業を持ってくると、私を含めた他グループは快くそれを手伝っているよ。」…… 


 いや~~。 娘の虚しい思いは大いに分かるよ。

 ここで原左都子自身の中高生時代の文化祭経験を振り返ってみよう。
 中学生の時はブラスバンド部に所属していて、文化祭とはブラスバンド部の定期演奏会の場でもあったためそれに集中することができた。 そのお陰でクラスの催し物に参加しなくて済んだのは“集団嫌い”の私としてはラッキーだったのであろう。
 高校でもオーケストラ部に所属して文化祭のステージがあったためほぼ同様なのだが、このオーケストラ部の負担度合いが中学時代程でもなく、クラスの催し物にも参加せざるを得ない立場にあった。

 これが世代を超えた我が娘の現状と重なるのだ。 
 やはり“言い出しっぺ”グループが自分勝手に催し物を決定して、クラスの皆にその是非を問うでもなく勝手にそれを進めるのが「文化祭」というものの私の印象だ。
 ただ、昔は今よりも周囲の皆に協調性があったのだろう。 40何名かいるクラスのほぼ全員がそれを快く手伝っているのだ。 おそらくその偏った状況に嫌悪感を抱いていたのは、当時より天邪鬼気質の原左都子一人だったのかと振り返る。 それでも本心を押し殺し協調性があるふりをして場を繕ってきた私だが、何故あの時“言い出しっぺ”グループに対して、「あなた達の勝手な趣味に翻弄される他のクラスの人達の迷惑に少しは思いを巡らしたらどうなの!!」等々と反旗を翻さなかったのかと、今思えば不思議である。 
 そうしなかったのは要するに、学校における文化祭など私にとっては取るに足りない事象だったからであろう。 

 それに比して、娘の話によると時代は進化していることを実感である。 “言い出しっぺ”グループ自体も、他のクラス員の心情をある程度理解して行動できているところが評価できそうだ。 
 嗜好や趣味が多様な生徒の集合体であるクラスの中で“言い出しっぺ”の案を受け入れてクラスの出し物として認めてくれたクラスメートへ気遣う姿勢が「これやってもらえる?」の一言に集結されているように私は感じる。 この“言い出しっぺ”側の配慮心が感じられたならば、私も過去の高校時代にもう少し前向きに対処できたようにも思う。
  

 それにしても“言い出しっぺ”(どうやら娘の私学においては、既に指定校推薦により大学合格ゲットが決定して浮かれている生徒達らしいのだが…)の趣味に付き合わされるがために、大学受験を直前に控えているこの時期に、3日半も勉強から離れて教室の片隅でただただ座って過ごさねばならないその他高3受験生の現状こそ何とかしてもらえないものか?

 教育現場はこれこそが“教育”と勘違いしてはいないだろうか???

 中高校生時代とは、まだまだ皆未熟で発展途上の年代である。 そんな未熟者の集合体の中で、表向きにリーダーシップを取っているがごとく見える“言い出しっぺ”の存在が学級の担任にとっては大いに好都合であることは、元教育者の私も多少は理解可能である。 この種すなわち“言い出しっぺ”の生徒が学級に存在しないことには、特に文化祭のごとくの行事に於いて担任とは学級運営が成り立たないと言っても過言ではないであろう。
 ところが学級担任をはじめとする学校現場教育者が“言い出しっぺ”生徒に依存せんとするその単純発想には、多様性があり個性豊かな生徒の将来伸びゆく能力を育む思想が欠如していることに私は懸念感を抱かされるのだ。

 
 最後に余談になるが、娘の学級において今回の文化祭クラスの出し物を中心に統率している“言い出しっぺ”女子生徒達は、その“表向きのリーダーシップ力”が評価されて既に指定校推薦をゲットしているらしいことについては上記に述べている。 
 その女子生徒達が親しいグループ内において、「大学に入ったらいい男をゲットしたいよね!!」「そうだよね!」等々の話題で、一般入試を目指す他生徒達を尻目に日々盛り上がっているとのことだ。

 何とも可愛らしくていいじゃないか! 
 と思いつつ、ウン十年前の我が高校時代に文化祭を牛耳っていた女生徒陣も大学卒業後さほどの職業経験がないまま早期に結婚し子どもを設け、それが女の幸せとの人生を歩み今に至っている様子が単なる偶然ではないようで感慨深い原左都子である。 
 
 まあ、人生とはそういうものであろう。
 たかが思春期の成長途上に行われる学校の文化祭であるが、それを多感期にどう受け止めどう対処したのかが、その後の人生の歴史の行く末を物語るような気もするのだ。

 我が娘よ。 人間の長き人生において、学校の「文化祭」ごときは直ぐに忘れ去る取るに足りない事象にしか過ぎないよ。
 今後もそんなたわいない事象に翻弄される事なく、自分らしい確固たる専門力を着実に磨きつつ我が道を歩んで行こうね! 
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素晴らしいダンススタジオを見つけました!

2011年09月15日 | 音楽
 (写真は、東京都内某所にある多目的スタジオ。 現在原左都子はこのスタジオで、ご覧のようにダンス用レギンスの上にミニスカートスタイルでダンスを楽しんでいます。♪♪)

 
 このスタジオ凄いでしょ!! 我ながらよくぞまあこんな立派なスタジオを見つけたものである。

 話を遡ると、私は先だっての8月末日付(実際は7月下旬より一度も行っていないが)で今まで通っていたスポーツジムを退会した。 (本エッセイ集2011年7月バックナンバー「喧嘩売らずに身を引くべきか?」において退会の詳細理由を綴っておりますので、よろしければご参照下さい。)

 その後一刻も早く趣味のダンスを再開したい私は、自宅からなるべく近い場所のダンススタジオをネット検索中心に探し始めた。
 そうしたところ、これが意外とあるではないか!

 まずは一件目として、自宅からメトロ利用で2駅目という好立地条件のレンタルスタジオを発見し、即座に個室を一室予約した。
 このレンタルスタジオは大中小それぞれの広さの個室が数室ずつある比較的こぢんまりとしたスタジオで、床の素材もダンスの種目に合わせてコンパネ、リノリウムから選択できる。 個人で利用する場合10畳程の部屋で十分だが、その場合 ¥1,000/時 と安価なレンタル料金もうれしい。
 とりあえず予約してあったリノリウムの部屋を訪れてみると、これが予測より結構広い。 片側全面ガラス張りの部屋で早速ウォーミングアップの後ダンスを始めた私である。
 ところが、困ったことには隣のコンパネの部屋でどうやらフラメンコの練習をしているらしき足音が大音量で響いてくるのだ。  床を激しく蹴りつつ踊るフラメンコダンサーの足音が大音量であることは知る人ぞ知ろう。  (なるほど、この手のレンタルスタジオの場合、隣室足音騒音の問題があるのか……)  これでは自分のダンスに集中できない。 ただし、これに関してはコンパネ隣室を避けて予約すればある程度改善される問題点であろうと判定し、一応合格点を付けた。
 

 ダンスを嗜んでおられる方はご存知であろうが、ひと昔前には上記のようなダンス向けのレンタルスタジオは首都圏でも数少なかったものである。
 それに対し、楽器演奏者向けのスタジオは結構な数存在していた。 若かりし頃にアマチュアロックバンドの一員であった私は、普段の練習時にはその種のスタジオのお世話になった。

 時が経過し、クラシックバレエを習っていた我が子が小学校高学年の頃トーシューズを履くことになった。 それまでは自宅のフローリング部屋でバレエ練習をさせていたのだが、トーシューズの足音も上記フラメンコ同様に大音量を発するため、集合住宅の我が家においてはその騒音の程を考慮すると到底自宅では練習をさせられない。
 そこで、私は娘がトーシューズを履いての練習が可能なレンタルスタジオを探すことと相成ったのであるが、これには難儀した。 上記のごとく個人レッスン向けのレンタルスタジオなど、当時皆無の状態だったのだ。
 それもそのはずである。 我が子が小学生の頃に通っていたバレエ教室の広さとてせいぜい20畳程度であり、そこに20名程の生徒達がひしめき合っていた。 その狭さでは舞台用の練習が不能なため、舞台前のリハーサル時には教室主宰者がレンタルスタジオを借りての練習となるのだが、これが遠方だったりさほど広くなかったりするのだ。 そのレンタル料のスポンサーでもある一保護者としては「こんな所でリハーサルするの??」と愕然とさせられたものである。
 我が娘の個人的トーシューズ練習に当たっても、何とかレンタルスタジオを探し出すことができたのだが、これもラッキーだったとしか言いようがない程にひと昔前はダンススタジオは希少な存在であった。


 さて、いよいよ原左都子が現在趣味のダンスを楽しんでいる上記写真のスタジオに話を移そう。
 
 実はこの多目的スタジオに関して、私は半年程前より新聞折込チラシやネット検索である程度の狙いを定めていた。 ただ、このスタジオは公立総合体育館の一施設であるという理由から、利用者の多様性の程を推し量りつつ敬遠していた私である。
 ある時、たまたまこの総合体育館を利用した人物がネット上でその体験記を述べているのを発見した。 それによると、今時珍しくもないがこの施設の日頃の運営は民間企業に委託されているとのことである。 そうか、それならば意外と融通が利いて有効利用できるかもしれないぞ!との思いでこの施設を訪れた私だった。
 
 原左都子とは、なんとラッキーなのだろう!!  

 この多目的スタジオは写真の3倍程の広さがあるのだが、これを自由に使用してOK!との係員からのお達しである!

 ただし、公的施設であるならば当然ながらその条件があって然るべきだ。 このスタジオは“多目的”と表現した通り普段は各種のダンスやフィットネス等のプログラムを提供する場として一般市民に利用されていることは私も承知している。
 その合間に一時のみ使用されていない時間帯がある事を発見した私が、「この空き時間を個人的に利用することは可能ですか?」と係員に問うたのである。
 そうしたところ 「どうぞご利用下さい」 との快諾を得られ、上記写真のごとく7月下旬頃より利用しているといういきさつだ。

 公的機関でなくとも、大震災に関連する節電対応により空調や照明が抑制されることは当然ながら承知の上である。
 それでも時々ジョギングをするお年寄りや、レッスンを終えたエクササイズの先生が自己鍛錬される場面にも出くわす。 
 ただ私のように1時間びっしり自主ダンスを踊る人種にはまだ巡り逢っておらず、この広いスタジオをほぼ独占状態なのは実にラッキーである。 


(現在、このスタジオは「撮影禁止措置」となっている事をお伝えします。)
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政治家の暴言、どうにかならないものか??

2011年09月12日 | 時事論評
 冒頭から余談であるが、民主党野田政権の藤村官房長官がメディアの会見において頻繁に使用する国語表現の一部に首を傾げている私である。
 本日(9月11日)昼のNHKニュースに於いても発したのだが、記者会見の場で藤村氏が野田総理を代弁して応えて曰く 「野田総理は○○と考えておられることと“拝察します”」 

 「拝察する」との表現は、私もこの「原左都子エッセイ集」においてよく使用する言い回しである。 
 「拝察する」とは「察する」の謙譲語である。 謙譲語である以上、当然ながら自分が謙ることによって相手を敬おうとする場合に使用されるべきである。
 そこで私は、本エッセイを綴るに当たっての記載対象である相手が年齢・地位等において私よりも目上の存在であると判断した場合や、ここでは一歩下がって相手を立てておいた方が無難であろうと判断する場合にこの言葉を使用している。

 野田氏と藤村氏の関係の場合、メディア報道によると藤村氏は野田氏の“側近中の側近”であるようだ。 2人の個人的関係内において、側近である藤村氏が自分を官房長官に任命してくれた総理である野田氏を是が非でも敬おうとの意思で、「拝察します」の言葉が自然と表出してくるのであろう。

 ところが国民の観点から考察すると、これは滑稽ではなかろうか?
 確かに法的権限上も一国の首相と官房長官の関係に於いては首相が上位に位置しているため、官房長官が記者会見において「(首相のご意思を)拝察する」との表現を用いても絶対的な誤りだとは言えないのかもしれない。
 ただ近年(永田町のコップの中で)ころころと入れ替わる短命政権の有様や野田政権の今後の見通しの程を慮った場合、藤村氏の「(首相のご意思を)拝察する」との表現はやはり原左都子個人的には滑稽であり、大いなる違和感を抱かされるのだ。 
 ここは前官房長官であられた枝野氏のごとく「総理は○○と考えて“おられると思う”」程度の表現でよいのではあるまいか、藤村さん?


 本日その前官房長官枝野氏が、先だって致命的暴言を吐いて経済産業相を辞任した鉢呂氏の後任大臣として任命されたようだ。
 (個人的には民主党が政権を奪取して間もない頃から枝野氏の政治家としての総合力を認めている私としては、何故野田氏は政権閣僚として最初から民主党内においては類稀なこの人材を投入しなかったのかと、残念に思っていたところであった。)

 それにしても、2009年秋に政権が民主党に移って以降1年足らずの短期間でころころと政権交代する中で、暴言を吐く閣僚が多発している現状である。
 民主党政権における閣僚が発するその暴言のレベルの程が劣悪過ぎるのではなかろうか??

 いえいえ、政治家の失言は今に始まった事ではない。
 自民党政権時代にもそれは数多く存在した。 例えば、麻生氏の失言についてはこのエッセイ集においても取り上げている。 国会答弁において秘書が書いた原稿の漢字の読み方を間違えるミスが多発したことをバッシングされた麻生氏は、「私はあまり新聞を読まない」等と応答して言葉を濁したりしたものだ。 こういう失言も国民の失笑、落胆を買うことには間違いないが、まだしも国民の実被害の程は少なかったのではあるまいか?

 それに対して民主党内で昨今続いている閣僚の“暴言”の程は、一国民として聞くに堪えない低レベルの様相である。
 例えば7月には菅政権の下で松本龍復興担当相が、東日本大震災で被災した岩手、宮城県知事との会談で暴言を発した責任を取って辞職している。 同氏は大臣として任命された直後の7月に両知事と面会した際、「知事は大臣より先に来て待ってろ!」 「(私は)九州の人間だから東北の何市がどこの県か知らない」 「知恵を出さないやつは助けない。突き放す時は突き放す」等々と暴言を吐き散らしたのだ。 この事実に関して、被災地住民の感情を逆なでする言動だとして野党より厳しい批判を受けた上での退陣だった。

 今回の鉢呂経産相の暴言も、上記の松本氏と似たりよったりだった。
 先だって野田総理等の閣僚と共に福島第一原発の現地に一時のみ立ち寄り視察した後、東京に戻った鉢呂氏は記者会見の場で、こともあろうに原発事故に見舞われた地を「死のまち」と表現したとのことである。
 これに関しては、福島第一原発周辺の放射能汚染の程を医学的観点から本気で考察している私も、一体いつになれば地域住民の皆さんがこの郷里の地で再び生を営めるようになるのかを心より心配申し上げている。 (2011年5月の本エッセイ集バックナンバー「フクシマが“幸運”と“富”の地 福島 に蘇る日」においてその詳細を綴っておりますのでよろしければご参照下さい。)

 鉢呂氏の暴言はまだまだ続く。 今度は議員宿舎において記者に対応した際「(福島原発の)放射能をつけちゃうぞ!」との暴言を吐いたとの事である。
 野田政権閣僚軍団が福島第一原発現地を視察している風景はメディアを通じて私も見聞した。 猛暑の中、複数のメタボおじさんどもがあの防御服を着用しての現地視察はさぞや大変であった事だろうね。
 だからと言ってその苦悩の思いを記者団に八つ当たりするなどもっての他だよ、鉢呂さん。


 今年3月11日に我が国に発生した未曾有の大震災、及びそれに関連して引き起こしてしまった福島第一原発事故という過去の政権がもたらした“人災”の後始末を担って立つ現政権の役割は甚大なものであろう。 
 そういう大命題を背負っているからこそ、今一度野田政権には手綱を引き締めて大震災復興を目玉とする国政に勢力を注いで欲しいものである。
 まさか野田氏がメディアの政権発足初期支持率世論調査結果を真に受けて有頂天になっているとは思わないが、そんな国民の一時のバブル期待感など砂上の楼閣に過ぎないことは明白である。 教育行政が手薄い環境下で育たざるを得なかったこの国における特に若い世代の国民気質を勘案した場合、ほんのちょっとしたことですぐに政権支持率が急降下することくらいは野田氏も認識していることと信じたい。

 暴言によりわずか9日で辞任に追い込まれるがごとく閣僚を任命した責任は大きいものがあることを、野田総理は再度自覚するべきである。
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俳優 向井理 の自信の根源をいじくる。

2011年09月10日 | 時事論評
 俳優 向井理氏 といえば、今を時めく“旬”真っ盛りの日本の男優であろう。

 私がこの人物の存在を知ったのは、昨年社会現象にもなったNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で氏が漫画家水木しげる役を演じるのを見たのが最初であった。
 その後今年のNHK大河ドラマ「江」にも、主人公 江 の3番目の夫徳川秀忠役として出演中である。

 この向井理氏が、昨日(9月9日)のNHK昼の番組「スタジオパークからこんにちは」のゲストとして登場した。
 
 ここで原左都子の個人的な嗜好について話すと、世間が騒ぐ程には特段この人物に魅力を感じてはいない。
 ただ、何故世間一般の女性陣が向井理氏を好むのかを理解できる気はするのだ。
 何と言っても外見的容姿に恵まれている。 長身で均整の取れた体型に童顔小顔の容貌…。 特にその童顔の容貌には、久しく日本のドラマ界には出没していない母性本能をくすぐるかのようなオーラが発散されているのを見て取れる。
 そして氏が醸し出す雰囲気もその容貌に釣り合っていて、女性陣は氏が発するオーラにコケティッシュな魅力を感じ取っているのではなかろうか?

 ところが私が世間が騒ぐ程には向井氏になびけないのは、この“一見柔らかく優しげな独特の雰囲気”が多少鼻に付く故である。
 向井氏が“醸し出す”と表現したが、これが天然に醸し出されているのか、あるいは本人が意識して演出しているのかは不明である。
 昨日の「スタジオパークからこんにちは」においても、相変わらずこの“一見柔らかく優しげな独特の雰囲気”を醸し出しつつ言葉流暢にアナウンサーとの会話を展開していた。

 その向井氏の独特の雰囲気の裏に、私はいつも“横柄とも表現できる自信の程”を感じ取り嫌気がさしてしまう。
 これが芸歴数十年のベテラン俳優であれば私とてそれを容認できるであろう。 ところが向井氏の場合29歳という若さ、そして芸能界においてさほどの芸歴がないにもかかわらずこの自信の程は一体何なのか??、との懐疑心を抱いてしまう私はやはり天邪鬼か?

 「原左都子エッセイ集」2010年9月バックナンバー「ゲゲゲの女房が高視聴率だった訳」に於いても、私は向井氏を批判的に論評している。 その内容を以下に少し振り返ってみよう。
 「ゲゲゲの女房」が高視聴率だった事に関する一番多いメディア論評とは、水木しげる氏を演じた俳優 向井理氏 の存在感であるようだ。 確かに向井氏の容姿は“朝ドラ”の中心的ファンであろう熟年女性を引きつける一種コケティッシュな魅力があることに私も同意する。 ところが私が多少懸念するのは、この人気のフィーバーふりは、何だか“熟年女性の韓流男優への一過性の感染症”と同様であるに過ぎないのではないだろうかという点である。
 向井氏が自らの学位論文(?)で高い評価を受けた過去の“自伝”を私は承知しているが故に、氏が学問研究を極めるよりも、持ち前の容姿を利用して簡単に成功を勝ち取れる俳優稼業の道に“逃げた”との思いが否めないでいるのだ。 私も過去において学者を目指した端くれだからこその考察なのだが……
 生涯研究者として生き抜くより、一時役者としてフィーバーする方が簡単に世に名を売れるし、とりあえず金儲けできそうだものねえ~。 だたその後の人生の安泰という意味で未だ28歳の貴方の今回の選択はどうなのだろうね、向井さん?? そういう意味で意地悪くも貴方の今後の役者としての生命力に興味がある私でもあるよ~。
 私論としてはこの番組が高視聴率をゲットした理由とは、専業主婦役として始終控え目な演技で水木氏役の向井氏をバックアップし続けた主役松下奈緒氏が、自分に与えられた役柄を冷静に解釈して演じ切ったこそであると結論付ける。
  
 上記バックナンバーの自らの記載を読み直してみて、私が向井理氏を受け入れられない一番の理由はその後半部分にあることを再確認した。
 現在は俳優業という厳しい芸能の世界で、向井氏が今の地位をゲットしたのは茨の道程だったことだろう。 ただそれならば、向井氏にとっての過去の栄光でしかない学位を自分のバックグラウンドとしてメディアに公言する必然性は何もなかったのではあるまいか? いや、向井氏が方向転換した矛先がその論文と間接的にでも繋がっているのならばそれを表ざたにする意味合いも少し理解できるが、現在向井氏が演じている数々の役柄は理学関係の氏の論文とは何ら接点がないことは明白だ。 
 こういう人種に限って、俳優業が下降線を辿り始めた場合、元の専門に戻ろうとするよねえ~。 ただ、日々科学技術革新が激しい今の時代においてはそれは不可能であろうね。
 それから申し訳ないが、私は貴方が俳優として売れない時期にヌードを披露していることもネット情報として入手している。 それは貴方が自分の過去の専門分野を捨て去り芸能界で生き抜くことに体を張った故であろうが、それならば尚更過去の学位を公表するのはやめてよ。  私も含めて過去の学位取得者が迷惑するから…。


 昨日の「スタジオパーク」においてはさすが生番組故であろうか、一見冷静沈着そうな向井理氏にも若さ故の失言が幾つかあった。

 例えば氏は過去に共演した女優氏や一緒に写真集を創った女性カメラマン氏を、「ちゃん」付けで呼ぶ癖があるようだ。 例えば「じゅりちゃん」「みかちゃん」のごとく…
 これは公共放送においてはやはりまずいであろう。 貴方が熟年男優であるならいざ知らず、20代にしてこの表現を用いると、私のようなおばさんには(もうねんごろの仲なのかな~~??)という意地悪い印象しか抱けないものだよ。 この場合、公共放送番組に於いては相手の女性の立場も考慮して「上野さん」「蜷川さん」と表現するべきであろう。

 そして「好きな女性のタイプは?」との視聴者からの質問に対して「自分とはタイプの異なる女性」との趣旨の回答をし、その理由として「タイプが異なる女性の場合そういう考え方もあると受容できる」と向井氏が応えたと記憶している。 これはさすがに20代らしく、若くて可愛かったね~~~。  ところが人間とは皆多様性を内面に秘めていてそもそもタイプ分け不能であり、年齢を重ね自分の思考の幅が広がるにつれ他者が持っている多様性を受け入れられるようになるものだよ、向井さん。

 「ボランティア活動が自己満足でいい」との向井氏の発言に関して番組の最後に視聴者から同調意見が寄せられたが、これに関してはもう少し議論されるべき課題であると原左都子は捉える。
 向井氏位の若い世代の場合、自分が何かを成し遂げそれに自らが感動する経験こそが大事とのその向井氏の論理は許されるのかもしれない。
 ただ私論としては、ボランティア活動の被対象者である相手側の“ありがた迷惑”や周囲の反響までをも視野に入れ、活動の目標到達度を是非共検証して欲しい思いだ。 ボランティア提供者側の自己満足がもたらす影響に対する後々までの責任を取れて初めて、ボランティア活動とはこの世に存続し続けられるのではあるまいか?
 (これに関しては、時を改めて私論の詳細を公開したいものである。)


 向井理さん、貴方には俳優としての大いなる展望があるようですので今後のご活躍を見守っていますよ!  
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