原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ネット上の友達付き合いって如何なもの??

2012年03月07日 | 人間関係
 以前私はネット上の某ブログコミュニティにこの 「原左都子エッセイ集」 を登録した経験がある。
 4,5年前の当時、ネット上の反応とは我が想像以上に驚くほどの超スピードの世界だったようで、当該某コミュニティ上の見知らぬ登録者の方々からの「読者登録」が目まぐるしく届く日々にびっくり仰天、感激させられたものだ。
 それら読者の皆様の反応に原左都子としては出来得る限りの対応をしつつ、皆様の応援に答えるべく最大限の時間を割いて丁寧な個別対応をくり返して来た。

 その後1年半程が経過し、「原左都子エッセイ集」がネット上である程度恒常的な公開力を獲得したと察し始めた頃、私はこのネットコミュニティから身を引いた。

 決して、それは私の“思い上がり”感覚からではない。
 その第一の理由は、当該ネット某ブログコミュニティが「友達申請制度」を採用したからに他ならない。

 その時の我が心情を「原左都子エッセイ集」2009年2月のバックナンバー 「ネット友達は成立し得るか?」 に於いて綴っているため、以下にその一部を要約して紹介しよう。 
 このブログコミュニティは「読者登録制度」を廃止し、新たに「友達申請制度」を採用することにより今後はネット上の“友達作り”を応援する主体と変貌するようである。 早い話、この「友達申請制度」を利用したくない現会員は形骸会員と化し、事実上コミュニティから“村八分”扱いとなる様子だ。
 原左都子のように元々ネット上での“友達付合い”など欲していなかったブロガーの場合、コミュニティ側の趣旨との間に大きなギャップが生じ行き場が無くなってしまった現状である。
 さて、そもそもネット上で友達関係が成立するのかどうかについて考察してみよう。 私の場合、ネット上の人との付き合いとは「原左都子エッセイ集」を通じてのみなのであるが、この経験に基づいて私論を述べさせていただくことにする。
 人間という全人格の中の“一部分”において、それは成立し得るかもしれない。それが証拠に、この私もブログに頂戴する有意義なコメントを通じてコメンテイターの方と議論をさせていただくことにより、その人物像の一部に触れさせていただける思いがする。お会いした事はないけれど、何らかの“繋がり”を感じさせていただくことができる。それは、私の生活の一部分として活力を与えてくれていることも確かである。
 ところが、こういった関係が短期間で消え去る場合が多いのがネットというバーチャル世界の特徴であろう。そんな中、私の場合は一部ではあるがこの関係が長続きする方々も存在し、そこには“友達関係”が成立していると考えてよいのかとも思う。
 要するに、たとえネット上とは言え、“友達関係”の成立にはある程度の時間的持続を要するのではなかろうか。 すなわち、最初から「あなたとはお友達ね」とか、いきなり「友達になって下さい」という制度にはやはり無理が大きく違和感を抱かざるを得ない。
 友達とは、仲良しの契りを交わすことにより相手に友達でいることを強要するものではなく、お互いによい関係を創り上げていった結果として“友達関係”が自然と出来上がってくるものではなかろうか。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用。) 


 今回何故に私がこの記事を綴っているのかと言うと、先日ひょんなきっかけから現在ネット上の世界規模コミュニティとして著名な存在の 「Facebook」に登録する事になった故である。

 少し以前より、「原左都子エッセイ集」のファンの方々から「フェイスブック」への登録のお誘いを複数頂いていた。
 それらのせっかくのお誘いをすべて敬遠申し上げてきたのには、私なりの理由がある。 上記のごとく、某ブログコミュニティ登録が結果として不満足に陥ったのもその大きな理由の一つである。  あるいは、誰でも登録可能で言いたい放題の某メジャーネットコミュニティにおいて、複数の「原左都子エッセイ集」誹謗中傷バッシングが存在するのを発見する現状だ。(もちろん私自身はその種のコミュニティに参加するはずもないのだが、たまにネット検索をしてこの種の“書き込み”を発見しても、見知らぬ方々から無料で宣伝いただいていると善意に解釈している。)


 「フェイスブック」に話を移すが、先だって実際にこのネットコミュニティに登録する機会を得たことにより、登録後その実態が少しずつではあるが理解出来てきている原左都子である。

 「フェイスブック」とは「実名」会員登録が基本であるようだ。 
 これ程までに個人情報やプライバシー保護関連法が充実しつつある現代社会の時代背景下に於いて、“実名”と共に「学歴」「職歴」等々“バリバリの個人情報”を前面に打ち出して登録・公開する事を原則とするネットコミュニティ媒体が堂々と存在する事実を、原左都子は「フェイスブック」登録後に遅ればせながら認識した次第だ。
 私の場合はペンネームの「原左都子」登録が可能だったため、上記のプライバシー保護や個人情報保護等の法的観点から、もしかしたら今後の多大な危険を回避できたのかもしれない。
 
 それにしても不思議なのは、この「フェイスブック」で“実名”を曝け出している人物が膨大に存在する事実である。 それは“フェイスブックならば安全!”との根拠無き依存心と信頼感に拠るものであろうか??
 それが「有名人」である場合は、危険性の“バリアー”を十分張った上でのネット公開による宣伝活動に踏み切ったものと理解可能である。

 ところが、「フェイスブック」登録者とは“無名人”が大多数である現状にやはり驚かされる原左都子なのだ。
 それら“無名人登録者”の意図とは、自身の学歴や職歴を公開する事により、単に過去の仲間を集めて「同窓会」でも開きたいとのノスタルジー感覚なのか??とも察する。
 いやいや、そんな年寄り連中には付き合っている場合ではない若者達は、実名と共に自身の「学歴」等を公開する事によりネット上で大学OBのコネでも頼って就職活動を展開したいのか??


 原左都子の結論に入ろう。(ここでは「著名人」が宣伝目的でネットコミュニティ上に個人情報を登録公開している実態を除外した上での私論を展開する。)

 一般無名人の目的が何であろうと、ネットコミュニティに「仮名」であれ「実名」であれ登録しそれが元でご自身の人間関係が潤っているのであれば、私が何を申すでもない。
 (「フェイスブック」上に於いても私の場合、仮名ペンネームでの登録であるためその実態の程は推測がつかない。)

 それで本当にご自身の人間関係が潤っておられるのだろうか??
 私の過去の実体験と推測によれば、ネット上の人間関係が“潤う”賞味期限とは1年が限度かと捉えるのだ。 もちろんその後、現実世界で会合を持つ等の積極的段階を経る事によりその人間関係が持続することもあり得るのだろう。
 ただ正直なところ、私が考察するに初対面であろうが再会した相手であろうがネット上で手繰った人間関係を今後共に持続するのは困難極まるのが実情ではあるまいか??

 その成功例があるならば、こちらこそご伝授賜りたい思いである。
 特にある程度の年齢を重ね輝かしき時代を築いて来たと自負しつつ今現在「フェイスブック」に登録している有志氏に、ネット登録の虚しさに駆られている原左都子にその成功例を伝えて欲しいものだ。
 それを「フェイスブック」上でご伝授願いたいものだが、もしもその他よりのアクセスが多いとするならば、今後の我がネット上の行動展開に私なりの指針が描けるという事だよね。            

「凡人」 とは経済社会に於いて常に愚かな存在なのか?

2012年03月05日 | 時事論評
 (写真は、1ヶ月程前の新聞広告欄で見た女性ファッション雑誌広告内の漫画。 その内容が“くだらなさ過ぎる”ため我が目に留まった。   細かい部分が見辛い点をお詫びするが、要するに、一般女性読者が雑誌のモデル女性を羨ましがりその美しさと行動力に触発されて自身も進化を遂げるべく頑張ろう、との漫画の趣旨のようだ。)


 一凡人でしかあり得ない原左都子自身は、ある程度理性ある経済生活を実行できていると自負している。

 そんな私の場合も決して、生まれ持って人を羨ましがる事など一切ない“我関せず”気質だった訳ではない。 むしろ感受性が強く鋭い私は、人間関係において他者とのバランス感覚や上下関係を探り察知する能力に長けていると自己分析する。  単純な話、対人関係において「これは私の方が負けているぞ」と悟った時には相手に決して気付かれぬよう内面で対抗意識を燃やしたり、あるいは上記漫画のごとく自分より優れた相手を参考にして更に精進しようと志すこともあった。

 我が長い独身時代も佳境に差しかかり、当時の私なりの自己実現達成目標を順調にクリア出来つつあると認識し始めた頃から 「人が羨ましい」 との感覚が薄れていったように思う。
 もちろん今尚参考にするべく優れた人材は我が周囲にごまんと存在し、その方々から大いなるエネルギーを頂きつつの我が人生である。


 さてせっかく掲載した上記の新聞広告写真であるため、“アホ臭さ”を重々承知の上でここで女性雑誌広告の漫画内容を説明しよう。
 この女性ファッション雑誌は元々40代をターゲットとして発刊されているようだが、今回のテーマは 「いろいろと限界を感じる40代 何かに挑戦したいけれどすっかり諦めモード…」 とのことのようだ。
 モデルの42歳T氏は輝くばかりに美しく、読者の羨望を誘っているようだ。 漫画に出てくる一般読者曰く「42歳で子どももいてこれだけキレイって、なんなの!? 恵まれ過ぎ!!」 「(それに比して)この私のくたびれ感。だって一般人の現実の40代はこうよ。」 「どうせ(モデルさんには)家政婦もいてエステ行きまくりで料理とかしてないんでしょ。優雅なモデルさんの生活なんて私達には参考にならないわよ!」 ……
 ところがそのモデル氏の実態とは読者と同じ子持ちであるしダンナは多忙、育児を一人でこなす等日々主婦業に全力投球している模様だ。 読者女性曰く、「T氏も(主婦として)試行錯誤して来たのね… 美容もオシャレも地道な努力をして進化し続ける40代女性なんだ! 諦めたら終わりだわ!私ももっと頑張らなきゃ!!」 との結末のようだ…
 (以上、上記女性雑誌の広告漫画を引用要約)

 
 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 この種の女性雑誌とは、実際売れているのだろうか?
 と言うのも私の場合若い頃よりこの手の雑誌にほとんど興味がなく、今現在まで一度足りとて自分で購入した事がないのだ。(美容室や病院の待合室で手にする事はあるが。)
 私の場合お洒落には大いに興味がある。 自身の体型や雰囲気を自己分析してそれを活かすべく日頃のファッションに気遣い、例え近隣のスーパーを訪れる時とて必ずトータルコーディネートを心がけている。  専門家氏より見たらド素人の私のコーディネートは“はずしている”部分もあろうが、お洒落とは自己満足と捉えている私自身はファッション誌になど頼らずとて日々ほぼ満足のファッションライフである。 

 新聞広告欄で見聞するに、10代、20代、30代、40代、50代 と、女性ファッション雑誌は“年齢別”に花盛りの模様だ。
 現在50代後半の原左都子の場合、50代女性対象のファッション誌に関しては(興味はないものの)新聞紙上でその広告が自然と目に入ってくる。  2年程前より50代対象雑誌のモデルとして活躍されている 満田久子氏 に関しては、氏が女優として活躍され始めた若い頃より好意的に捉えさせていただいている。 新聞紙上の広告を見た限りにおいて、満田久子氏のモデルとしてのご活躍も華々しいようだ。  だが、私としては氏にはモデルとしてよりも今後はやはり女優としてご活躍いただきたい思いでもある。

 それにしてもこの種の雑誌が売れているからこそ、大手出版元は毎月デカデカと全国紙に広告を掲載できる現実なのであろう。
 という事は上記漫画の主人公である40代の主婦のごとく、一般女性とは家庭内で子どもを抱えつつこんな雑誌を購入して眺めながら、ウダウダ、悶々と日々暮らしている現実なのであろうか??

 そんな女性(要するに、ファッション雑誌のモデルさんを参考にして活気付くタイプの単細胞女性)が、昨今共に原左都子の周辺には一人として存在しないから不思議である。
 だからこそ、「ほんとにこの類の雑誌が売れてるの?」との疑義を抱かされるのだ。  それにしても今現在、晩婚・高齢出産など珍しくもない事象となっていると心得るが、 そんな今のご時世において、雑誌のモデルに憧れ羨ましく思う40代、50代の女性がこの世に現実に存在するとの設定に疑問を抱く私である。


 この種の雑誌とは、「凡人」を対象として発刊されている事には間違いないのだろう。
 ところが今現在の「凡人」とは既に多様性の幅が大きいことを、出版社は認識できているのだろうか? 

 最後に原左都子に言わせてもらうと、今現在は“馬鹿げた”内容の雑誌も辛うじて売れ行きがよいのかもしれない。  ただ、我が国の現政権の動向を観察してもその先行きの危うさが露出しているごとく、我が国家、国民の今後の行く先など見通しが立たない現実である。
 「凡人」を「凡人」とならしめるべくいつまでも一般市民を愚かな存在と位置付け、低レベル商売を展開しているのでは、今後の我が国の経済社会とは破綻の一途を辿るばかりではあるまいか?

女は学歴よりも整形か?

2012年03月03日 | 時事論評
 いやはや驚くね~。 
 今回の表題に掲げた 「女は学歴より整形か?」 とのテーマが、ネット上で真剣にツイートされている今の時代背景のようだ。

 この表題のみをパソコンの画面で一見した私の“軽薄”な即答として、とりあえず「学歴」に軍配を挙げておこう。  何せ30代後半まで学業に熱く燃えていた原左都子である。 今現在もそのバックグラウンドを大いに活用しつつ、このように日々エッセイを綴り公開し続けている。


 上記「女は学歴より整形か?」に関するネット上のツイート内容を以下に少し紹介しよう。
 「女は大学院に行くより、整形した方が幸せになれる」  こんなツイートがネット上で話題になっている様子だ。  男女雇用機会均等法が制定されて以来、多くの女性は学を付けてキャリアウーマンを目指すようになったが、ここに来て女性の気持ちが変化しているのか。
 「整形して銀座・六本木でバイトすれば最強」… 2012年2月3日、ある女性のツイッターユーザーが「女は見た目だ。見た目が良い方が就職も有利。大学院行くより整形した方が幸せに生活出来るよ」とつぶやいた。 
これを取り上げたネットニュースサイトでは、「大学院学費へ投資するか、整形に投資するか。どちらを選ぶかは自由だが、ある意味で的を射た発言だろう。 もちろん、両方やればさらに良し」等々の記事を発表して、つぶやきの内容を全面的に肯定したとのことだ。
 大学に進学する女性は年々増加している。文部科学省の学校基本調査によると、4年制大学の学部・大学院を合わせた入学者数は2001年には約103万人だったが11年には約120万人になっている。 しかし大学院に入学する女性は2006年の約2万8300人をピークに減少傾向にあり、11年には2万8000人を割った。 大学院への進学を選択する女性がわずかだが減っているのは事実だ。
 この記事が公開されると、すぐ2ちゃんねるに「女は見た目だ。見た目が良い方が就職は有利。大学院行くより整形した方が幸せに生活出来る」というスレッドが立てられ、約4時間半で1000件の書き込みが寄せられたようだ。 「若くて美人で、ある程度の家事能力があれば高収入な男を選び放題。文系、院卒、不細工の高齢女より、百倍のイージーモード人生だよ。良い悪いじゃなくて真実だろ?」 「中途半端な大学院行って身につくスキルなんか求められてないからな。見た目がいい方がいいんだろ」 等々のつぶやきに賛同する書き込みと、「整形したら一生メンテナンスかかるんじゃないの?そんな金かかる女嫌だわ」「顔なんて若いうちだけだ。歳をとったら中身が重要だ」 など反対の書き込みが入り乱れたらしい。
 (以上、ネット情報より要約引用)


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 上記のネット引用文を読むと、何だか大学院へ進学する女性はアプリオリに皆「ブス」で、整形せねばこの世に生きていけないとでも言いたげではないか?!
 ちょっと待ってくれよ。 それは学歴のない奴らの認識不足ではあるまいか?  その前提からしてこの議論には大きな誤りがあるというものさ。 元々「女」をそれ程ステレオタイプに分類できる訳もないだろうにねえ~~。 
 (自分らの狭い世間で生きている範疇で物申すのもどうなのかとも言いたくなるが、ここは元教育者でもある原左都子としてはツイッター野郎どもが若い世代であろう事に配慮してそれを許す事にしよう。)

 原左都子も30代後半に公立大学大学院を修了しているが、我が同輩の女子学生の皆さんは実に美人揃いだったものだ。 (えっ? 院生選考過程で大学教授が自分好みの女性を合格させたって??) 進学・就職にかかわらずその種のマイナー見解がこの世に存在する事も承知しているが、私の感想では女子学生の皆さんは美女であるのに加えて頭脳明晰な、まさに“才色兼備”揃いだったことは確かだ。  (いえいえ、あくまでも私以外の女性の話だよ~~

 それに加えて、この私は(我が人生において整形経験は一度たりとてないが)大学院進学前の大学生時代に丸の内、六本木界隈でコンパニオン派遣業務を経験している事も、本エッセイ集バックナンバーで幾度か公開している。  という訳で、上記ニュースサイトが言うところの「両方(学業と金儲けという意味に解して)やればさらによし」を今から20数年前に既に経験済みである。
 ところがこの職種とて、元々の美人は元より「整形」を施したからといって即金に直結する訳ではあり得ず、業務上何が求められているかを判断する頭の回転力があってこそ成功する業(なりわい)だったものだぞ。

 まあそういう訳で、ここで再び 「女は学歴よりも整形か?」 に関する原左都子の結論を語ると、女といえどももっと視野を広くして “自分らしく努力を重ねられる道を開拓しつつ自分なりの人生を歩むべき” との話になろう。


 ところで今日私が今回のエッセイを綴ろうと思い立ったきっかけとは、朝日新聞本日(3月3日)の “悩みのるつぼ” の相談を見たからに他ならない。

 60歳主婦による相談の題目 「もし上野さんが美人だったら?」 を一見した原左都子は仰天してしまったのだ!
 上野さんとは社会学者で現在東大教授の 上野千鶴子氏 であられるのだが、私が20代後半頃から尊敬申し上げている上野氏を、ほぼ同年代の女性がまるで誹謗中傷するかのごとくの“悩み相談”の投稿を、よくぞまあ朝日新聞が取り上げたものだと驚かされた。
 しかも、それに誠実に回答している上野氏のキャパにも恐れ入った次第である。
 
 ここで上記相談内容を紹介したいところだが、60歳主婦の投稿とはどうやら「相談」というよりも、ご自身が過去において「綺麗」と言われる部類だったことを自慢することにより今の自身を正当化するべく内容と私は結論付けるのだ。 それにしても、その比較対象として上野氏を持ち出して「もし上野さんが美人だったら?」との挑戦状を送りつけるとは、何ともまあ身の程知らずのおばさんだ。 

 その相談内に於いて、1980年に京都大学での講演に際し上野氏が質問をされた事実に関して、相談者の夫が傍らで「あれが上野千鶴子だよ」と言ったとの一文に、私も興味を惹かれた。
 私の場合残念ながらその講演には出席していない。 当時20代後半に差しかかっていた原左都子にとって 上野千鶴子氏 とは新聞紙上でしか拝見できない遠い存在の学者氏であられたが、我が今後の人生を指南してくれそうなエネルギーに満ち溢れた女性だったものだ。  私が当時更なる学問を触発されたのは上野氏のみではないのだが、学問の第一線で活躍する先駆者女性達のエネルギーをメディア上でもらったからこそ、原左都子は30代間近にして再び我が学業の道に邁進できたとも言える。


 最後に、上記“悩みのるつぼ”回答者の上野千鶴子氏の今回の回答の一部を要約引用してこの記事を締めくくろう。
 ここで証言しておくが、過去の時代にウーマンリブに参加した女性達に綺麗な女性は沢山いた。 察するに相談者の女性はそこそこ幸福な人生を送って来られたようだ。 それがご自身の「容貌」のお陰と限定されている処には疑問があるが、私(上野氏)の場合はこれまで生きてきた上で男女を問わず他人との関係をつくるのに(顔が不自由なために)不都合があった事は一度もない。 弱者に想像力を持つために自分が弱者である理由もなかった。
 容貌は容貌、幸福は幸福、知識欲はまた別。 そのあいだに何の相関もない、ということぐらい相談者もご自身の現在の趣味であられる本を今後読めば分かるはずだ。
 (以上、上野千鶴子氏の回答よりその一部を要約引用)

 原左都子の結論をさらに述べずとも、学者としての確固たる地位を何十年来のご努力の下に築き上げて来られている上野千鶴子氏の上記回答で、相談者の女性も我が身の愚かさを多少なりとも思い知った事に違いない。

 それにしても、厳しい現代を生き抜かんとする若き女性達にとって時代は進化しているのかと思いきや、そうではない現実(学歴か整形か等のくだらない議論に翻弄されている現実)に愕然とさせられる思いでもある。

 我が結論としては、世代を問わず日本の女性の皆さん個々人がご自身の特質を認識しつつも欲する道を究めんと、日々努力する人生を歩むことに期待したいものだ。