原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

C'est tre's bon!   エスカルゴ! ( vol.2)

2019年06月25日 | 旅行・グルメ
 (写真は、私が2019.06.24の夜、某所にて食したエスカルゴ、等々… )


 本文に関しては、明日(6・25)綴る予定でおります。


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 公開する程の内容でもないのだが…  

 昨日何故私が上記レストランを訪れたかというと、それは娘の恩恵だ。
 
 昨夜、娘が職場の「送別会」に出席した。 この時期に「送別会」というのも珍しいだろうが、娘が勤務している企業ではこれが恒例のようだ。 
 何故ならば、その企業の職種柄“外部出向者”がほとんどであるからだろう。 この時期「異動」が多いようで、今回も娘の職場内の7,8名が「出向」を終えて他企業へ移ると言う。

 それにしても、この“アルハラ”“セクハラ”“パワハラ”等々不必要にハラスメントが叫ばれる時代に、何とも律義な企業である。
 たとえ外部出向者であれ、たとえ勤務期間が短期であろうが、必ずや課を挙げて「歓迎会」と「送別会」を実行している。

 これまた我が娘も、それを上塗りするかのように“律義”な子で、ただの一滴たりとて酒を飲めず、加えて会話が超苦手にもかかわらず、職場の飲み会には皆勤賞ものの出席度合いだ。
 いや、確かにそんな子に育てたのは、サリバンの私だなあ。 それにしても娘がいつも好んで飲み会に出席するのが不可思議で、「飲み会」から帰宅すると「面白かった??」の質問をする。 その回答もいつも同じ「まあまあかな。」だが。
 たまには奇特にも、寡黙な娘に一生懸命話しかけて下さる上司や同僚も存在するらしい。 (いや、これサリバンの私とて根気がいる作業なのに、よくぞまあ我慢強く娘の相手をして下さったと感謝感激だ!)



 と言う訳で、昨夜は娘の帰りが遅い事を周知していたため、サリバンの私も羽目を外すこととしたとの成り行きだ。
 午後から某博物館へ出かけ、(この内容に関しては、本日午後公開のエッセイにて綴る予定です。)その帰りに立ち寄ったのが冒頭写真のレストランだ。
 
 このレストランの写真をご覧いただけると、テーブルやお皿の模様から何処のレストランであるか分かる方々も多い事だろう。
 全国チェーン展開する名の知れた(リーズナブルな価格で著名な)イタリアンレストランだ。

 昨夜は、我が大好物の“エスカルゴ”を食したく思い、迷いなくこのレストランを選択した。
 参考だが、この“エスカルゴ”のお味の程はまあまあだ。 と言うより、¥399- の割には上出来の味付けではなかろうか? 
 我が記憶によれば、デパ地下等でチェーン展開しているフランス料理系店「FL0」にて販売されている冷凍エスカルゴが1個¥180- (だったと記憶しているが)等と比較して“超安価!”な事には絶対間違いない。 それでこの味を出せるならば、たまには食べに行きたくなるというものだ。

 写真後方のデカンタは白ワイン500mlだが、これを入店後直ぐほぼ一気飲みした後、次のお替りは250mlのデカンタといつもより少しセーブした。
 (写真をご覧頂けるとお分かりだろうが、私の場合食べる前に一気飲みしない事には酒が極度にまずくなるため、食べる前にこの程度の量のアルコール飲料をいつも一気飲みした後に料理に手を付ける習慣がある。 酒に弱い方は決して真似をなさいませんように。)
 
 その後スーパーに立ち寄り食材を買い求めたところ、夜間は「半額」シールが貼られている商品が数多く随分とお得な事! 心ウキウキ“半額もの”食材を沢山購入して帰宅した。

発達障害の子を下手に褒めるより、親こそが共に歩もう

2019年06月23日 | 教育・学校
 (写真は、本エッセイ集昨日2019.06.22公開のバックナンバー「ウィーン・プランター大観覧車とドナウタワー」をスマホで閲覧すると、必ずや画面上に掲示される“広告”の一部を撮影したもの。)


 遅ればせながらスマホを購入した後、我が「原左都子エッセイ集」本文記載内容をスマホにて確認する作業を実行している。
 その際に、必ずや記事文章内の“キーワード”を拾ったと思しき各種様々な広告が、本文エッセイの上下に所狭しと表示される。
 実に鬱陶しいのだが、パソコン同様にこれもスマホの宿命と諦めつつ、それら広告を上手く避けながらエッセイ本文を読むことにすっかり慣れてきている今日この頃だが。


 冒頭にて紹介した昨日公開のエッセイに関しても、スマホのそのページを開く都度、“とある広告”が必ずや現れる。
 これぞ冒頭の写真だが、、どうやら「発達障害児対象の教育テキスト」販売目的業者の広告のようだ。

 おそらく、我が前回公開エッセイのこの箇所より“キーワード”を拾ったのだろうと思しき部分を、以下に再掲載しよう。

 << あるいはやはり昨夏米国旅行時のごとく、私のペース中心に行動を続けていると娘の反発を食らったりもするのだ。 何分生まれ持って自分の心理状態の表出が苦手な娘である。 不平不満があろうがそれが極限に達するまで内心に秘め、決して口に出さないとの特質を抱えている。 とどのつまり“凍結状態”とのストライキを起こすのだが、これに気が付くかその予感がした時点で改善策を提案するのがサリバン(私の事)の使命である。(誤解無きよう記載しておくが、決して甘やかしている訳ではない! 娘が持って生まれた事情故に、丁寧な配慮と対応が必須なのだ。)>>
 (以上、昨日公開の我がエッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 ところで、本エッセイ集に於いて私は少なからず「発達障害」に関する話題を取り上げ、私論を公開している。 その一つである2018.09.25 公開の「発達障害の多様性」と題するエッセイの一部を以下に再掲載させていただこう。

  娘のサリバン業を幼少の頃より主体的に担当している我が身にして、今までの人生に於いて数々の「発達障害児」と接する機会があった。 故に、発達障害児(者)達と一言でいえどもその実態には大いなる“多様性”があることは熟知している。
 「発達障害児」の中で何と言っても一番問題なのは、他者に迷惑を及ぼす特質を持つ人材だろう。 例えば、ADHD などは多動性があり落ち着きがない事で著名だが。 この児童が教室に一人存在するだけで教室内の風紀が乱れ周囲に迷惑を及ぼすため、教育現場ではその対応に困惑することであろう。
 あるいは、暴力気質がある発達障害者も困りものだ。 当然ながら女子にもこの部類の子が存在するが、我が娘も某発達障害研究所内で人目が無い時に、この気質を抱える少女に殴る蹴るの被害を受けている。
 そうではなく他者に全く迷惑が掛からない「発達障害児」は、その存在が放置されてしまう危険性がある。(まさに我が娘がこの部類だ。 世には、他者に迷惑が掛からないのならばそれは「障害」ではないとの見方もあるようだが…。 ところが「発達障害」と一旦名が付けば、それを放置しておけば脳が“退化の一途”を辿るのみであり、早期発見、そして幼少期からの支援は絶対に欠かせない。 脳医学分野の話をここで少し披露するならば、ヒトの脳とは生来的な要因に左右されるのはもちろんだが、発達期に於ける外部からの刺激(働きかけ)により目覚ましいまでの発展を遂げる可能性も秘めていて、既にそれが証明されてもいる。 要するに、人間の脳とは育つ環境により更なる「発展」を遂げ得るのだ! だからこそ、「発達障害児」の支援は今後も必須である!)  (途中大幅略)
 我が娘の話題は控えると冒頭で宣言したものの……   我が娘に関しては、我がサリバン指導に従い何のコネも無くして大学進学まで従順に歩んでくれた。 それが現在の娘自身の就職にも繋がった事は絶大なる事実だが。 それもサリバンの私が娘の“真面目かつ勤勉”なる特質を幼少の頃より見抜きつつ方向性を指南し、二人三脚で共に歩んで来たからに他ならないと自負している。 (以下略)
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 さて、冒頭写真のスマホ広告である某営利企業による「発達障害児教育テキスト」に話題を移そう。

 この広告内では随分と長~~~い漫画が掲載されている。
 その要点をかいつまんで説明するならば、「親は発達障害の子供を怒ってはいけない、とにかく褒めよう!」とのスローガンの元にテキスト購入までの段階を辿るストーリー展開となっている。

 この種の広告の共通項だが、どうやら親(特に母親)とは“子供を直ぐに叱る愚かな動物”との揺るぎない前提がある様子だ。
 “愚かな母親”であれども、発達障害の我が子を叱り続けるのではなく、とにかく褒めつつ我が社のテキストに従って子供に学習させれば必ずや道が開ける、なる内容だっただろうか……

 くだらな過ぎる広告には間違いないのだが、せっかく我がエッセイのスマホページに掲載されていた事を契機に、少しだけ元教育者である私からもアドバイスさせていただこう。

 “子どもを褒める”ことが“頭ごなしに叱る”よりも良い効果を生み出す、との事実は間違いないだろう。
 ところがこの広告が大きく勘違いしているのは、“発達障害児”の中には高度のIQに恵まれている人材等々も存在するとの、多様性分析がすっかり抜け落ちている点ではなかろうか。
 加えて、母親側の教育資質とて千差万別だ。 これに関しては、広告主としてはおそらく世の“平均的母親”(誤解を呼びそうな表現だが)を想定して漫画制作したものと想像する。

 それにしても広告漫画制作のお粗末なこと、この上無い。
 一体全体、この業者が如何なる顧客マーケットを対象として当該テキストを売らんとしているのか、私には計り知れないが、このテキストを利用して我が子の“発達障害”が改善した事例があるならば、教えて欲しい程だ。

 
 最後に原左都子から、発達障害児を抱え日々困惑している親の皆様に一つだけアドバイスをしておこう。
 褒めるのはもちろん結構だ。 ただ子供とは大きく成るにつれ“褒め方”が困難になって来る存在でもある。 特に親の能力を見据える力がある子供に対しては“褒める”との行為はむしろ反感を呼ぶ恐れもあろう。 
 我が経験からのアドバイスだが、とにかく子供さんが小学校程度までの幼いうちは「共に歩んでは」どうだろうか?
 私自身がそうして来た。 いつ何時も子供の学習机の“横”(これが肝心、決して指導者のごとく“前”に座らないように!)に座り、日々一緒に学習に付き合った。 要するに、科目にかかわらず親の自分も一緒に問題を解くのだ!) 
 音楽とて体育とて一緒に歌ったり演奏したり、公園で走ったり、ボール投げや縄跳びをしたりして子供と一緒に楽しんだものだ。

 その甲斐があったのか、我が子はその後何らの縁故にも頼らず、上述のごとく自力で大学を卒業し現在就職4年目だ。 (その間娘が蓄えた貯蓄額をここで公開する訳にはいかないが… それも“幼き頃より貯蓄趣味があった”母である我が影響力に過ぎないのだろうが。)
  
 この子、今後も自力でこの世を渡って行ける! と今現在確信させてもらえそうな程に我が教育方針は間違っていなかった!、と今更ながら感慨深いものがある。

 だからこそ、娘と2人旅のウィーン旅行を今から楽しみにしているのよ。

ウィーン・プラーター大観覧車 と ドナウタワー

2019年06月22日 | 旅行・グルメ
 (写真は、ウィーン・プラーター公園にある大観覧車Riesenrad。 旅行雑誌より転載したもの。)


 娘と二人のウィーン個人旅行の出発を19日後に控える身にして、その下調べエッセイが続くが。

 本日は、(実際に行くか行かないか不明の)“プラーター大観覧車”と“ドナウタワー”に関する情報を調査してみよう。

 何故(実際に行くか行かないか不明)であるかに関して説明するならば。

 とにかく個人旅行とはいつ何時も予定外のハプニングが付き物である。
 地図を確認しつつ慎重に歩いているつもりでも、道に迷うわ…   あるいは昨夏米国旅行時の地下鉄途中バス振替輸送のごとく、予想だにせぬ交通網のトラブルに出くわしたり…  時間のロスが大きいのはいつもの事だ。
 あるいはやはり昨夏米国旅行時のごとく、私のペース中心に行動を続けていると娘の反発を食らったりもするのだ。 何分生まれ持って自分の心理状態の表出が苦手な娘である。 不平不満があろうがそれが極限に達するまで内心に秘め、決して口に出さないとの特質を抱えている。 とどのつまり“凍結状態”とのストライキを起こすのだが、これに気が付くかその予感がした時点で改善策を提案するのがサリバン(私の事)の使命である。(誤解無きよう記載しておくが、決して甘やかしている訳ではない! 娘が持って生まれた事情故に、丁寧な配慮と対応が必須なのだ。)

 そんな事も予想しサリバンの対策として、娘が喜びそうなプランも用意しておこうとの趣旨である。


 さて、冒頭写真の「プラータの大観覧車」に関して、ウィキペディア情報より引用しよう。

 観覧車(独: Wiener Riesenrad)は、オーストリア・ウィーン レオポルトシュタット区のプラーター公園にある観覧車。 映画『第三の男』に登場したことで知られる。
 イギリスの退役軍人ウォルター・B.バセット (Walter Basset Basset, 1864 - 1907) により1897年に建設された。 バセットはヨーロッパに4基の観覧車を建設したが、この観覧車はそのうち現存する唯一のもので、年次的にはイギリスのロンドン、ブラックプールに次ぐ3番目である。 形状はかつてブラックプールに存在したものとほとんど同じである。
 バセットは翌年フランス・パリに当時世界最大の観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」を建設するが、グランド・ルー・ド・パリが撤去されてからは、このプラーター公園の大観覧車が現役世界最大となった。 第二次世界大戦の戦火に焼かれ、戦後には撤去の声も上がったが、30あった客車を15に減らして輪への負担を少なくすることで耐え抜き、1981年に神戸ポートピアランドに設置されたジャイアントホイール(現存せず)に抜かれるまで、半世紀以上現役世界最大の座を保持し続けた。
 ゴンドラの定員は20名であり、パーティの開催も可能(要予約)である事が明言された。 なお、撮影当時のゴンドラ内は落書きで一杯であった。
 (以上、ウィキペディア情報より引用したもの。)

 一旦、私見だが。
 へえ、映画「第三の男」に登場した観覧車なんだ。 昔その映画をテレビにて見たような記憶もあるが、内容は忘れたなあ。
 それにしても、一基の定員が20名の観覧車に乗った経験は今まで皆無だ。(その大きさのロープ―ウェイには乗った事があるものの。) よくぞまあ、その定員を乗せた客車を15車両も連ねた観覧車が運行できるものと、不可思議でもある。 

 プラーター公園は、Karlsplatz駅より地下鉄U1路線に乗り換え程近い場所にあるようだ。
 これ、娘が行きたいと言わずして、私がこの観覧車に乗りたくなったぞ! 


 次なる課題は、“ウィーンタワー”だが。

 このタワー、まさに日本の“東京スカイツリー”のごとく(?)、ウィーンにてランドマークタワーとしての存在観を誇っているようである。
 1964年建造とのこと。 随分と古い塔ではあるが、建設当初よりテレビ塔としての役割を果たしつつ、地上252mとやや低めながらウィーンの観光名所の一つである。
 回転式展望台レストランも兼ね備え、そのレストランからはドナウ川は元より、ウィーン中心部が展望可能とのことだ。
 交通手段は、地下鉄U1路線カイザーミューレン駅にて更なる交通手段に乗り換えた後、ドナウタワー駅で下車して徒歩5分らしいが。
 その“更なる交通手段”の記載の詳細が読み取れないため、これ行くの無理かも…


 そうなると今回の案件に関しては、上記の「プラーター公園の観覧車」が優位か?!?

 いえいえそれにしても旅の計画立案作業とは、まさに“もう既に旅に出掛けたがごとく”に活性化されるものだなあ!
 これ、その担当をしている我が身こそが“お得感”を抱けることに感謝しつつ、出発まで更なる作業を続けよう。

ウィーン市街部交通網再確認作業

2019年06月20日 | 旅行・グルメ
 (写真は、ネットより転載・引用したウィーン市街部交通網。)


 7月中旬に出発する、娘と二人の“ウィーン個人旅行”だが。

 予約段階で、実は大きな失敗をしでかしている。
 ウィーン空港からの送迎プランを選択するに当たり、未だ何らのウィーン交通網調査を成していないにもかかわらず“価格感受性”の強い私は、ついつい一番安価な「鉄道混乗サービス」に飛びついてしまったのだ。
 これが、ウィーン空港からウィーンミッテ鉄道駅間の送迎だったことに気付いたのは、そのバウチャーが到着した後だった。

 参考だが、そのミッテ駅が冒頭写真の左側中央あたり。 我々の宿泊ホテル最寄り駅である地下鉄U4路線Hietzing駅へは、乗換を要する始末…
 これ、細腕で重いスーツケースを持つ身としては到底無理だ。 とりあえずミッテ駅まで行ってそこからタクシー利用にするか、あるいは「鉄道混乗サービス」権利放棄をして、ウィーン空港からタクシーに乗るのが手っ取り早そうでもある。

 そこでウィーンのタクシー事情調査だが、どうやらウィーンのタクシーは「安心・安全」であるようだ。  基本料金は €3,80- ~ と旅行本に記載されているが、まあ日本並みかやや安価だろうか? 
 そして空港から宿泊ホテルまでの直線距離が約20km超程度、そうするとそれ程高額のタクシー料金とはならないと予想出来よう。
 おっと忘れてはいけない、チップだが。 ウィーンは10%が目安らしい。


 話題を旅程3日目のスケジュールに移すと。

 この日は、朝から「ドナウ川クルーズツアー」に出かける。
 その集合場所が、Karlsplatz駅(冒頭写真中央下)近くのオペルンガッセ通り8との場所らしい。
 昨年の米国西海岸旅行時にも同様に現地ツアーを利用して「モントレー・カーメル」へ出かけたが、全てに於いて勝手が分かりにくく、集合場所でツアーのチェックインをするのに手間取った経験を思い起こす。
 とにかく、地図を頼りに娘と二人で悪戦苦闘しよう。  
 ちなみにこのツアーは英語ガイドとのことだが、さてさてこれまた昨年の米国ツアー参加同様、戸惑う事態が多発する予感もする… 
 
 ただ幸いな事には、ツアー解散場所が“ウィーン国立オペラ劇場前”であることだ。
 その日の夜には、当該劇場にてのオーケストラコンサートを予約済み。 ツアー解散後その足で劇場へ直行できるとのスケジュールである。 その前に時間があれば、近辺で娘とディナーを楽しもう。
 コンサートの帰り道は、どうやらオペラ劇場前でタクシーが列を作って待っているらしい。 (台湾にて劇場で歌劇を観賞した時も同様にタクシーが列を作っていたが、そこまで劇場員が案内してくれ運転手氏に現地語で行き先を告げてくれた記憶がある。)  この日こそは、我が“価格感受性”概念を捨て去り、オーケストラの余韻に浸りつつタクシーにてホテルへ戻りたいものだ。


 そして、一番課題の旅程4日目の“ムン(娘の愛称)・パッカ(私の愛称)フリーツアー”だが。
 
 未だその詳細のスケジュールを検討していない立場にして。
 まさに、上記交通路線図内で観光名所を巡る事となろう。
 
 忘れてならないのは、娘幼少の頃より毎年我々一家がテレビにて視聴している、年始の「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」で世界的に著名な“楽友協会ホール”見学だ。
 これぞ、我々母娘が今回のウィーン旅行を目指した原点でもある。
 今回は残念ながら我々の旅程中ちょうどすべての日が休館中とのことで、やむを得ずウィーン国立オペラ劇場にてのコンサート鑑賞と相成った。

 もし3日目のスケジュールに余裕があれば“楽友協会ホール”見学を実行したいが、それが叶わなかった場合、4日目の最初にKarlsplatz駅へ到着した時点で、当該ホール見学をこなしておきたいものだ。

 私としては2本前のエッセイで公開したとおり、ハプスブルク家王宮だったホーフブルク宮殿を見学したいが…  あの宮殿を垣間見るにせよ、丸一日あっても足りないとの情報は既に述べている。
 (参考だが、ハプスブルク家夏の別邸であるシェーンブルン宮殿は到着初日に見学予定。)

 そうすると、娘が喜びそうな“プラーター”などはどうだろう?  この観覧車とてウィーンの歴史的建造物らしい。 地下鉄U2プラーターシュテルン駅近くのようだが…
 時間があれば、ドナウタワーにも上りたいものだが。

 それを言うならば、私とて「ベートーヴェンハウス」も「モーツアルトハウス」も「シューベルトハウス」も「ハイドンハウス」も「ドボルザークハウス」も「リストハウス」も「スメタナハウス」も、そして「ヨハン・シュトラウス2世ハウス」も見学したいものだ…

 
 いやはやこのように綴ってくると、ウィーンとはまさに素晴らしき「音楽の都」であることを実感させられる。
 
 短期旅程でそれをこなすのは所詮無理難題にしても、このエッセイを書き進むにつれ我が“ウィーン旅行”実行への更なる期待が増大出来た事実に乾杯だ!   
 

自分が好む人との出会いこそが“ひきこもり”脱出の「鍵」かも?

2019年06月18日 | 人間関係
 と言ったところで“ひきこもり”の特徴とは“ひきこもって”いる事実にこそあり、人との出会いが極度に限定されている訳であり……

 ただ、“ひきこもり”の多くは自宅でネットに接しているとも見聞する。
 そうすると、とりあえずは“ネット”上で“自分が好む人”と出会える確率は少なくないとの“一抹の希望”を持てそうにも思うのだが。


 ここから一旦私見だが。

 “ネット”上の出会いも様々だが。  私のお勧めは、断然この「ブログ」だ。
 まかり間違っても心を病む人種が、不特定多数の見知らぬ相手から無責任反応が押し寄せるSNSにて人と出会うべきではない。

 12年の年月に渡り「ブログ」活動を継続している我が身だが、その年月を通して、様々な人々との出会いに恵まれて来ている実感が確かにあるのだ。
 実際にお会いしないにせよ(私の場合は我がブログファンと実際お会いした経験もあるが)、それぞれのお相手と“人となり”が伝わる関係を築けている自負がある。 ネット上の付き合いが12年に渡り続行している方々も少なからず存在する。 (有事の際に“この人”に泣きつけば必ずや助けてくれるだろう、と信じられるお相手も少なくない。 それは考えが甘いか!?!

 そのためには、ブログの“内容”の充実こそが肝心であろう。 誠意を持ってブログ記事を綴り公開すると、その記事のジャンルにかかわらず、必ずや読んで下さった方々より“プラスの反応”を頂ける感覚があるのだ。 
 私の場合「コメント欄」を閉鎖して後長年が経過している。 「いいね」反応に関しても、2,3年前にgooシステム変更処理上のトラブルにて、過去に2000本近いエッセイに多い時には1エッセイ30個程頂戴していた「いいね」が一瞬にしてすべて消え去るとの最悪経験により、その後「いいね」欄も閉鎖措置を採っている。
 それでも、ご訪問下さった方々のブログをこちらから訪問させていただく事等々により、頂いた反応の“価値”の程を実感させて頂け、“良き出会い”との(自己?)満足感に浸れることも日々数多い。


 本日何故、この手のエッセイを執筆せんと志したのかと言えば。

 現在“ひきこもり者”が関わる凶悪犯罪が次々と勃発している現実下に於いて、如何なる対応策を施せばよいのかと、私なりに頭を悩ませている故だ。

 この我が思いに関連した本エッセイ集バックナンバーが、昨日の“Popular Entries トップ10”にランクインしていた。
 以下に、そのエッセイ 2018.12.01公開の「人間不信に陥る前に、自分が好きな人とどんどん付き合おうよ!」の一部を再掲載させていただこう。

 この原左都子など、当「原左都子エッセイ集」」バックナンバーにて過去に取り上げたエッセイを振り返るだけでも…  我が人生に於いて、現実世界で2度も「お前が嫌いだ!」と直訴された経験があるよ。
 一度目は小学6年生の時。 クラスの男子から、「お前みたいにクラス内で反発ばかりしている奴は大嫌いだ!! お前のせいでクラスがまとまらない!」ナンタラカンタラと怒りをぶちまけられた経験がある。 敢えて反論はしなかったが今でも多少根に持っていて、アイツに今後会う機会があればこの件で「議論」を再燃したい!と虎視眈々と狙っている。 (その男子は警察官の息子でやたら正義感の強い奴だったなあ。 きっと真っ当な人間としてこの世で活躍している事だろう、とも想像するよ。)
 二度目は20代後半期の職業人時代、職場の同年代女子社員が“寿退社”でほとんどいなくなった後の話だ。 少数の“売れ残り”組女子社員の一人から、面と向かって「貴方が嫌いです。」と比較的冷静に告げられた。 (そうだったんだ。)程度の感覚で特段の不都合も無いどころか、その宣言のお陰でその女性と社内外で一切付き合う必要が無くなり、その後自分の仕事がし易くなった記憶がある。
 と言う訳で「嫌いだ」と直訴されたとて、私側は決してへこたれてなんかいないぞ! 
        (途中大幅略)
 私、原左都子から朝日新聞“悩みのるつぼ”相談者である未だ20代かつバイト先との“狭い世間”の中で人間不信に陥ってしまった女性へ応援メッセージを贈ろう。
 私の場合、当然ながら、今回の回答者であられる姜尚中氏のごとく決して著明人ではない。 かと言って、我が20代は相談者が現在置かれている環境のごとくの小企業でのアルバイト身分でもなく、一応現在大企業に成長している職場の一部門にいて“職場長”の立場で20代後半期を過ごしている。
 その職場環境が大いに食い違う事を勘案しつつも…。
 たとえば、この相談女性は仕事がオフの日には如何に過ごしているのだろうか? この私など週休2日制や長期休暇を利用して、仕事外の活動にも専念したものだ。 その活動や旅先等に於いても “人との出会い” とは花咲くものでは無かろうか?
 私の場合は独身を30代後半まで貫いた立場だが。 いつ何時如何なる行動をしようとて、“(良き)人と出会いたい”なる願望が自分自身にある限り、素晴らしい出会いがあると信じて私はその行動を継続している。 
 自分にとって「良き人」とは、実際いつの時代も何処かに存在するものでは無かろうか? それを信じられる自己のポリシーこそが、「良き人」との出会いを叶えてくれている感覚が私にはあるのだが…
 ただ実際問題、現世は“ハラスメント概念”等々の歪んだ発展により、人と人との関係がギクシャクしている現状は私とて認識しているものの。
 そんな「良き人」(イコール“自分が好きな人”)と出会いたいなる夢を“プラス思想”の下持ち続けつつ生き続けられるならば、必ずやその「夢」は叶えられるものと私は信じ、日々実行している……
 要するに、自分の方から興味が無かったりましてや“嫌な奴”など軽視・無視して、“良き人(自分が好きな人)”を優先する生き方をすればどうか? とのアドバイスだ。
 何だか結果として、姜尚中氏のご解答内容と大差が無かったような気もする事実を、20代相談者女性にお詫び申し上げねばならないかもしれない……。
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 最後に現実に話題を戻そう。

 ただ残念ながら、メディアにて“ひきこもり事件”に触れると。
 “ひきこもり”者ご本人の精神構造や心理状態が、社会や周囲に対する“うらみ・つらみ”や“絶望感”で充満してしまっている感を抱く。 既にそのマイナス感情に支配されるままにコントロール力を失い、ただただ呆然とした廃退感のみにとりつかれてしまっている様子であることに気付かされる。
 そんな精神状態の人達に向かって、「自分が好きな人と出会え!」と言ってみたところで、空虚感のみが漂ってしまうのだろうか…

 ニュース報道に接すると、“ひきこもり”さん達は自分の親が嫌いであるにもかかわらずその親の家に住んでいる場合も多そうだ。 経済的理由等もあるにせよ、これが私にとっては到底理解し難い。
 何故嫌いな人物がいる家になど、いつまでも住んでいるんだ!?  少なくとも、その嫌いな親からカネを分捕ってでも、外に自分の住居を見つけてそこで“ひきこもる”べきではなかろうか??(その行動力すら失っているって??)

 この原左都子も、生まれ持って根っからの“集団嫌い”“天邪鬼気質”であり、「右向け右」と命令されたら「左」を向きたい性分の人間だ。 (その気質と“ひきこもり”とはジャンルがまったく異なるとの指摘が専門家から届きそうだが… )

 それでも、こんな私でも本当に正直なところ、ブログを通じて自分が好む相手と交流することにより、どれ程心が癒され日々の生活を活性化させてもらっていることか。
 だからこそ、もし叶うならば“ひきこもり”の皆さんにも、ネット上でよいから“自分が好む人”を見つけ交流を持って欲しい思いを、今回伝えたかったのだが…

 それより優先するべきは。 
 上記記述通り、自分の方から興味が無かったり、ましてや“嫌な奴”など軽視・無視するに限る! 
 そして“良き人(自分が好む人)”を優先する生き方を実行する事こそが、我が生涯に於ける信条であることには間違いない!