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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「self or not self」

2019年08月20日 | 学問・研究
 (写真は、今回の再掲載エッセイに記載した“免疫学”の仕事に没頭していた頃の私。 会社の社員旅行にて撮影したもの。 当時、余暇で所属企業のロックバンドボーカルを担当していたため、このヘアスタイルだ。)


 本日の再掲載ものは、我が医学業務の原点とも言える“免疫学”についてまとめたものである。

 早速、2007.10.20公開の「self or not self」を以下に再掲載させていただこう。

 私は20歳代の頃、医学部新卒で民間企業に就職し医学関係の仕事に従事していた。 医学関係と言えども分野が広いが、私が携わったのは免疫学関連の分野である。

 医学(特に基礎医学)にも“ブーム”があるが、その頃(1970年代後半から80年代以降にかけて)免疫学は目覚ましい発展を遂げていた時期だった。 当時の日本における免疫学の第一人者といえば、東大医学部教授の多田富雄氏や阪大医学部教授の岸本忠三氏(お二方とも当時の所属)などがあげられる。 その頃、私はこれら免疫学の研究分野において第一線でご活躍中の諸先生方の最新の研究成果を入手したく、(会社の出張費で)単身で全国を飛び回り諸先生方の“追っかけ”をするため、「免疫学会」や「臨床免疫学会」「アレルギー学会」等研究発表の場へ情報収集に足繁く出かけたものである。

 以下の文章は、1993年発行多田富雄著「免疫の意味論」(青土社) を大いに参考にさせていただく事をあらかじめお断りしておく。(多田富雄先生はその後脳内出血で倒れられた後も、多方面でご活躍のことと拝聴している。) (追伸だが、その後亡くなられた。)
 加えて、医学は日進月歩の世界である。 私が以下に述べさせていただく内容は、あくまでも1970年代後半から1980年代の私の免疫学体験に基づいた知識の上での話の域を出ていないものと解釈願いたい。

 免疫学を語る上での第一のキーワードが表題に掲げた“self or not self"という概念である。日本語では「自己か非自己か」と訳されている。

 「免疫」と聞くと皆さんはきっと、外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵から自分の体を守った上で、その情報を後々まで記憶しもう一度同じ外敵が体に進入してきた時に発病しないような仕組みであると認識されていらっしゃることと思う。
 その認識で十分「免疫」は説明できている。

 そこで、もう少し踏み込んで考えることにしよう。
 外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵を、なぜ自分の体が“外敵”であると認識できるのであろうか。 ここで登場するのが“self or not self"概念だ。 すなわち、外敵(病原体)が体内に侵入すると、「免疫」のはたらきによって、その病原体が持っている成分を、自分の体内成分ではないもの(異物“not self")として認識し、この成分をやっつける物質(抗体)を作り排除して自分(“self")を守るのだ。 1970年頃までの免疫学においては、上記のごとく「免疫」とは“not self"に対するシステムとしてとらえられていた。 すなわち、外敵を認識しやっつけるシステムとして考えられていたのである。

 ところが、その後の研究により「免疫」とは“self"を認識するシステムであることがわかってきた。
 すなわち、「免疫」とは“not self"を排除するために存在するのではなく(もちろん結果的には排除するのだが)、“self"の全一性を保証するためのシステム、すなわち「自己」の「内部世界」を監視する調整系として捉えられる時代に入るのである。 ところが、この“self"と“not self"の境界も曖昧だ。 それでも、そんなファジーな「自己」は一応連続した行動様式を維持し、「非自己」との間で入り組んだ相互関係を保っている。
(詳細は、上記の多田富雄著「免疫の意味論」をお読みいただくか、あるいは免疫学に関する各種論文等文献を参照いただきたい。)

 “self or not self" 、 当時の私はこの言葉に惹きつけられ、自然界のひとつである人間の体内にもこんなすばらしい哲学があることにいたく感動したものだ!

 あれから長い年月が経過した今でも、私の思想の根底にこの“self or not self" の哲学はまだ息づいている。 そんな一端を今回は少し語らせていただいた。


 このエッセイには若き男性より「トラックバック」を1本頂戴したため、それも以下に紹介させていただこう。
 
 Trackback

 自己ってなに? (ベリーロールな日々)
10年前にブック・オフで買ったままほったらかしていた本をやっと読みました。「免疫の意味論」 作者: 多田 富雄 出版社/メーカー: 青土社 発売日: 1993/04 メディア: - 理系の専門的な部分は当然よくわかってないんですが、面白かった。もっと早く読めばよかった..

 (以上、本エッセイ集開設当初の2007年10月記載バックナンバーを再掲載したもの。)



 2019年8月現在の私見に入ろう。

 その前に、くれぐれも繰り返しておくが。
 私が上記に述べた内容は、あくまでも1970年代後半から1980年代の私の免疫学体験に基づいた知識の上での話の域を出ていないものと解釈願いたい。

 とにもかくにも、この“self or not self"概念に、未だ20代前半のうら若き私はぞっこん はまった。

 社内の誰に指示されるでもなく自分から「私に行かせてください!」と積極的に申し出て、「免疫学会」「臨床免疫学会」「アレルギー学会」「臨床病理学会」等々の医学学会全国学会へと飛び回ったものだ。

 おそらく全国から訪れている医師や研究者達で溢れている学会会場で、このロックバンドボーカルヘアの私は異色の存在だったことだろう。しかも長身の私だし… いやもちろん、服装はまさかTシャツ・ジーンズ姿ではなく一応ロングスカート姿だったものの、目立っただろうなあ。 それが証拠に、学会会場で知り合いの某医師先生より「△社の〇さんじゃないですか?」とお声が掛かった事もある。

 学会参加となれば“物見遊山”も兼ねてその地に訪れる関係者も多いようだが、私は絶対的に違った!
 学会抄録を穴が開く程事前研究し、絶対にはずせない発表や特別講演、シンポジウム、ワークショップ等々へ会期中足繁く出かけたものだ。
 それだからこそ、昨年ノーベル医学・生理学賞に輝いた本庶佑先生の発表も当時の学会会場にて聞かせていただいていたため、すぐさま“あの本庶先生だ!”と認識可能だった。
 
 所属企業の業務として学会会場へ訪れているため、帰社後は「レポート報告」が欠かせない。
 その「学会報告レポート(控え)」を未だに書棚に保存してあるのだが、我が若きパワーが炸裂する内容で、今現在垣間見ても当時の“免疫学”に入れ込んでいた我が熱意が伝わってくる。


 あれから40年以上の年月が過ぎ去り、現在の「免疫学」は更なる輝かしき劇的な変貌を遂げている事であろう。 
 
 専門書を読破する能力はもはや私には皆無であろうし、疲れそうだ…。

 時間があれば免疫学関連学会会場にこっそりと忍び込み、その変貌の様子を探りたい気分になってきたぞ。
 その前にネット検索にて主たる免疫関連学会抄録を入手してみようか。 東京都内開催ならばすぐにでも行けそうだ。
 また一つ、楽しみが増えた!


 p.s.
 我が老朽化したパソコンの不具合により、「self」の「l(エル)」が抜けておりました事、お詫び申し上げます。
 

再掲載 「お茶しよう!」

2019年08月19日 | 人間関係
 まだまだ、レトロな「原左都子エッセイ集」過去のバックナンバーが続くが…


 早速、2008.09.12 公開の「お茶しよう!」を以下に再掲載させて頂こう。

 昔、“お茶をする”という文化があった。
 この“お茶をする”というのは、喫茶店で人と会って珈琲でも飲みながらゆったりと談話することである。

 現在は、この“お茶をする”文化がすっかり陰を潜めてしまっている。そもそも“正統派”の喫茶店をほとんど見かけない。 街で見かけるのは「スターバックス」等の、飲料をセルフサービスで提供され、軽く腰掛けて短時間で飲むような外食チェーン店ばかりである。 そこには“語りの場”はないのが特徴である。
 
 私が未だ過疎地の田舎で暮らしていた頃の学生時代に、この喫茶店がよく流行っていた。

 2008年9月7日の朝日新聞別刷の「喫茶店」の記事の中でも取り上げられていたが、ちょうどフォークグループ「ガロ」の“学生街の喫茶店”が流行った頃だ。“君とよくこの店に来たものさ、訳もなくお茶を飲み話したよ♪”
 まさにその通りで特にこれといった理由もないのだが、女友達と話す時も、彼氏とデートをする時も、どういう訳がとりあえず喫茶店なのだ。

 そのうち、女友達と喫茶店に行く時は飲み物だけでなくデザートや軽食などの食べ物にもこだわった。
 当時、我が過疎地の田舎においてさえ喫茶店は多くの店が競合していて、各店が様々な工夫を凝らしていた。 珈琲等の飲料のみならず、パフェの美味しいお店があれば、ホットケーキは絶品の店もある。 夏ならばフラッペ(かき氷)がたまらない。 またピザならお任せのお店やら、ドリアならこのお店に限る等々、より取り見取りなのである。 次々と新しい喫茶店を開拓しては、日替わりで色々な喫茶店に通ったものである。
 女友達とは大学で1日中話しているのに、どういう訳かいつも帰りの時間になると「サテンに寄ってから帰ろう!」という話になるのだ。(“サテン”とは茶店、すなわち喫茶店の略語であるが。) そして喫茶店で美味しいデザートや軽食を食べて珈琲を飲みながら、1、2時間は喋り続ける。 一体何をそんなに話すことがあったのだろうかと今になっては不思議に思うのだが、きっとお互いに好きな男子の話でもして盛り上がったのであろう。

 一方、彼氏と“サテン”に行く場合は、珈琲専門の純喫茶や、ジャズ喫茶、ロック喫茶などが多かったように記憶している。あるいは、ドライブがてらドライブインの喫茶店にもよく行った。
 当時、珈琲にこだわっている男子は多かった。私など珈琲と言えば“ブレンド”しか注文しないのだが、彼氏の方は、ブルマン、キリマン、モカ、等々、彼女の前でカッコつけたい年頃だ。 そしてブレンドを注文しようとする私にも勧めてくれる。“ガテマラ”は学生時代に彼氏に教えてもらって初めて知った銘柄だ。
 そしてやはり1、2時間は語り合う。 一体何をそんなに語り合ったのだろう。お互いの将来の夢でも語り合ったのだろうか、記憶にないなあ。

 喫茶店には音楽がつきものである。 ジャズ喫茶やロック喫茶等の音楽専門喫茶店でなくとも、必ず音楽が流れている。洋楽であったり、歌謡曲であったり…。 喫茶店で流れていた音楽が、その時喫茶店で話し合った内容や自分の心情と交錯するのだ。

 この喫茶店での音楽に関して、今尚忘れ得ぬ思い出がある。 
 私が上京する直前の3月のことだったが、彼氏と喫茶店で珈琲を飲んでいた。 既に二人の関係はギクシャクしていて、私の上京と共に別れが訪れることは特に取決めを交わさずとも二人共暗黙の了解だった。
 そんな別れを目前に、それでも尚未練を引きずって向かい合っている二人の空間に流れたのが「甲斐バンド」の“裏切りの街角”だった。 “わかったよ、どこでも行けばいい♪”“プラットホーム…”“切符を握りしめ…”“あの人は見えなくなった…♪” 未練を引きずる私の壊れかかった心に、これらの歌詞がグサリ、グサリと突き刺さる…
 そして数日後、彼氏を郷里に残して私は一人で東京に旅立った…。

 “お茶をする”文化とは“語り合う”文化でもある。 珈琲を味わいながら気の合う相手とゆったりと語り合う…、何とも贅沢な文化である。 あの頃は人々の心にはまだ、そういう時間や空間を人と共有できる余裕が持てる時代背景だったのであろう。

 セルフサービスのチェーン店では、人は順番待ちをして飲み物を注文し高椅子に腰掛け一人で短時間を過ごした後、そそくさと席を立ち喧騒の街の中へと消え去っていく。
 現在は、そんな風景を日々見慣れる時代にすっかり移り変わっている。

 (以上、本エッセイ集2008.09.12バックナンバーを再掲載させていただいたもの。)



 この我がバックナンバーには、同時期に生きていたと思しき読者の皆様の心を再燃したのか、数々のコメントが押し寄せたものだ。

 それらコメント群も、以下に再掲載させていただこう。



♪しとしと五月雨プラットホーム♪なんて部分もありましたね。(江古田のヨッシーさん)
懐かしいよく歌いました。

 さて喫茶店の話ですが、クラシック喫茶やジャズ喫茶、歌声喫茶(これはちょっと古すぎ)あとマスターが物知りで、いろいろと教えてくれる。いい店がたくさんあったのに、今探すと、本当にないですよね。
ちょっと寂しいですね。こだわりのある音楽を流し、
この曲は?と聞くと答えてくれる。そういう店に私は行きたい。



喫茶店嫌いを克服したきっかけ (愛煙家)
2008-09-12 19:25:31
こんにちは

>お茶しよう!

私は喫茶店での飲食が嫌いでした。
あのインベーダーブームがなければ
喫茶店でお金を使うことはなかったでしょう
ゲームセンターでは
インベーダーゲームは満席で
仕方なく喫茶店でインベーダーゲームをするようになってしまった。
インベーダーゲームが流行していたときは
マクドナルドも単価が高かったと思います。
だから喫茶店のモーニングは魅力でしたね。
モーニングとストレスなくゲームが出来る
一石二鳥を好むようになりました。

男性なのでマスターより
ウエイトレスで店選びした記憶があります。
通えば、「いらsっしゃいませ」から
「おはよう♪」の挨拶が嬉しくてハハハ。

余談2
大阪の喫茶店はアンチ巨人当たり前なので、
報知新聞が置いてなかったり
BGMよりテレビを置いているところが多いのでテレビ見ながらお茶する感覚ですね。



そういえば (don-tracy)
2008-09-12 21:45:49
ダベる(駄弁る)という言葉を耳にしなくなりました。
かつては頻繁に同僚と飲んだものですが、それもなかなか財布が許してくれないご時勢です。
あらためてコミュニケーションの希薄な時代になったものだと思います。



ヨッシーさん、今チェーン店ばかりですよね。 (原左都子)
2008-09-12 22:26:27
私、甲斐バンドと言われて頭に浮かぶのがこの曲なんです。

喫茶店って本当になくなりましたね。どこに行ってもファストフードっぽいチェーン店ばかりで、まったく個性がありません。そしてフランチャイズで雇われオーナーばかりで、ただ単にノルマをこなすのみです。自分のお店のプライドとかポリシーがまったくないですよね。
客側にも、そういう没個性を嗜好する人種が増殖している現状でもありますね。

音楽も今やパソコン動画で聴く時代のようで、周囲と同時に共感するということがなくなったようですね。



愛煙家さん、喫茶店嫌いだったのですね。 (原左都子)
2008-09-12 22:35:24
類は友を呼ぶで、私の周囲は喫茶店好きばかりでしたので、初めて喫茶店嫌いな方に会ったように思います。

私はむしろ、喫茶店にインベーダーゲームが置かれるようになったころから喫茶店の趣がすっかり変わってきましたので、敬遠するようになりました。
その後、どんどん喫茶店は廃れてファーストフードのお店に変わって行きましたよね。

奥様と毎日喫茶店デート、それはなかなか出来る事ではありませんよ。奥様は喫茶店がお好きなのですか?

そう言えば、私もずっと昔大阪の喫茶店に入ったら、テレビがあって皆がテレビを見ている風景に出会ったことがあります。何だか、食堂のノリですよね。



don tracyさん、私は今は専ら居酒屋でお酒です。 (原左都子)
2008-09-12 22:47:18
そうでしょ。私も記事を書きながら今は“ダベる”なんて誰も言わないなあと思いました。

そう言えば、喫茶店が廃れかけた頃から居酒屋が繁盛してきたように思います。一時期両方が重なっていた時代もありましたかね。少し早い時間に喫茶店で待ち合わせをしてから、居酒屋に繰り出したりもしましたね。そして、3次会位まで飲んだ後、再び喫茶店で珈琲で締めくくったりもしました。



よく行きました (ドカドン)
2008-09-13 08:32:54
学生時代は、喫茶店巡りでした。男友達と・・・。
もちろんデートにも喫茶店を使いましたね。

ところで、「喫茶店のマッチを集めると、婚期が遅れる」って、よく言われたのですが、海苔のビン2個にマッチ一杯でした。
かくして、37歳の結婚だったので、当っています。



ドカドンさん、私もマッチ集めました! (原左都子)
2008-09-13 08:58:48
ドカドンさん、そうなんですよ! 私も喫茶店のマッチを集めました。行動パターンが一緒ですね。同じくお菓子の缶に何缶もきれいに並べて物凄い量でしたよ。それで、私の場合も婚期が遅れたんですね。ガッテンしました!

話が変わって夜の世界の話になりますが、バーとかクラブとかで昔はウイスキーやブランデーのボトルをキープしましたよね。そのボトルカードも集めました。ボトルをキープしてカードを作っても大抵は一夜で飲み干してしまい、カードばかりが溜まるのです。これがまた物凄い量で、その“コレクション”を友人に披露すると、どういう夜の生活をしているのかと呆れられたものです。

話をずらして失礼しましたが、ドカドンさん、懐かしい昔を思い出させて下さってありがとうございます。



お茶しよう (江古田のヨッシー)
2008-09-13 14:46:52
御茶ノ水に「ウィーン」という
クラシック喫茶があったのを
覚えている人はこの欄を見ている人に
いらっしゃるのですか?
高校時代古本屋めぐりをした後に
よく行きました。



どなたか、御茶ノ水の「ウィーン」をご存知ないですか? (原左都子)
2008-09-13 15:12:42
ヨッシーさん、残念ながら私は知らないです。
このコメント欄は現在繁盛してますので、どなたかご存知でしたらお書き込み下さい。

私は御茶ノ水は東大病院に医学関係の仕事で少し通ったのと、最近順天堂医院に子どもの付き添いで通った程度でほとんど土地勘がありません。
ヨッシーさん、「ウィーン」でクラシックを聴きながら珈琲を味わって本を読んだのですか?



ウィーン行きました (梅)
2008-09-13 22:43:00
ウィーン・マロニエ・ジロー
懐かしいです。
マロニエが一番多いです。



確かに、お茶してないですね。 (きんたろう)
2008-09-13 22:50:47
確かに原左都子さんのおっしゃるとおり、
最近は、落ち着いて喫茶店に行ってないですね。
あいにく、家の近所にもお気に入りの喫茶店が今は見当たらず、
ドトールコーヒー、スタバ、NetCafeなどに行く日々。
誰かと落ち着いた空間で話をしてみたくなりました。



古き良き時代… (mr.ichi)
2008-09-13 23:19:39
こんばんは!

またまた、

古き良き時代を

想い出させていただきました。

ありがとうございます!

彼女との初デート

徳島駅前の喫茶店でした。

待ち合わせ、飲み物の種類、会話の内容、サテンを出た後、OSグランド(映画館)までのコースの選択、ドキドキしながら、何日も前から、予行演習付きで、決めていました。

ずいぶんと記憶は薄れましたが、
確か、彼女は、ホットケーキセットでレモンティ…

それは、学生街の喫茶店の流行った頃でした。



Unknown (梅さん、「ウィーン」の書き込みありがとうございます。)
2008-09-14 10:56:57
早速、江古田のヨッシーさんにお伝えしました。

そう言えば梅さんとも、昔一緒に喫茶店に行きましたよね。
「ジロー」というのは私も何となく憶えているような気がします。

梅さんは、何でお茶の水界隈をうろついていたのですか?



きんたろうさん、家の近くに喫茶店があるといいですね。 (原左都子)
2008-09-14 11:02:17
きんたろうさん、そうでしょ。
近頃、お茶をゆっくりする機会なんてないですよね。

私も今はまだ子育てに追われ、ゆっくりと寛げる時間が取りにくいのですが、子どもが育った暁には、近くの喫茶店へでも歩いて行って、ゆっくりと音楽を聴きながら美味しい珈琲でも味わって寛ぎたいものです。
これをやるのはやっぱり喫茶店がいいですね。家は寛ぐという感覚の場所ではないですね。



梅さんへの「ウィーン」の返答は原左都子が書きました。 (原左都子)
2008-09-14 11:05:07
2つ上(↑)の梅さんへの返答は名前が抜けましたが、原左都子が書きました。



mr.ichiさん、懐かし過ぎます! (原左都子)
2008-09-14 11:19:00
いや~、同郷の私としてはものすごく懐かしいです。

徳島駅前の喫茶店って、もしかしたら「テラス」じゃないですか? あそこはホットケーキが美味しいので有名だったんですよ。若い女の子に人気の喫茶店でした。私も女友達と何度も行きましたよ。

それから、OSグランドは私にとっても初デートの場所でした。高1の時に好きな同級生の男の子と一緒に行ったんです。緊張してしまって、映画に集中できなかったことを思い出します。それで、何の映画だったのかも覚えてないのです。

この夏帰省時に耳にしたのですが、OSグランドはもうないそうですね。

ichiさんは、夜の秋田町は行かれましたか?「コンパ」や「グラスホッパー」など、学生に人気のパブによく行きました。
ichiさんとおそらく同世代ですね。



お茶しよう (江古田のヨッシー)
2008-09-14 15:09:25
梅さん、ありがとうございます。
 左都子さんのいわれる読書というほどのものではないのですが、今でも大事にしている本に「フレッド・アステア」の写真集があります。家に着くまで我慢できないので安全な「ウィーン」に行ったという訳です。今でも「いらっしゃいませ、こんにちわ」とうるさい店ではなく、神保町へ足を運ぶこともあります。
当時は地下鉄が丸の内線しか知覚を通っていなかったので、御茶ノ水から池袋それから西武池袋線で育った東長崎まで帰りました。



ウィーン行きました (梅)
2008-09-14 15:27:16
追加を書こうと思ったらすでに、ヨッシーさんのコメントが。

私は過去の記憶が、薄れる性格なのを前提にして下さい。

ウィーンの記憶を取り戻そうと思いにふけりました。

言われてみれば、あの様な喫茶店は、当時も今もないですね。
あのいい音量・空間・・・・
私は一人で行くことが多かったです。

音楽を聴きながら読書したり、学生でしたので勉強したり、
一人で過ごすいい空間でした。
レコードを持っていけばかけてくれると言ってました。

ヨッシーさんのお陰で懐かしい青春時代に思いを馳せる時間が
持てました。

ガロの「学生街の喫茶店」が似合う街でしたね。



ヨッシーさん、梅さん、「ウィーン」はそんなにすばらしかったのですね。 (原左都子)
2008-09-14 16:10:24
お二人のお話を拝見しておりますと、私は羨ましい限りです。

当然「ウィーン」はもうないですよね。
もし、まだあるならば是非行って、ひとりで過ごしてみたくなります。

そういう“ゆとり”は人の心を育み、文化を育てると思うのですが、マニュアルで機械的に「いらっしゃいませ、こんにちは」と言われたところでうるさいだけですよね。

そうなんですか。お茶の水は私には土地勘がなく病院しか知らないのですが、昔は(今でも?)学生にとって文化を育んだ街だったのですね。



交流の場、コミュニケーションを育む場としての喫茶店 (ガイア)
2008-09-20 13:50:24
以下に思い付くままにだらだらとコメントを記します。纏りはありません。

「ガロ」の「学生街の喫茶店」は懐かしいですね。

正統派の喫茶店を殆ど見かけなくなったことは寂しいです。街の中の憩いの空間であり、都市空間のコミュニケーションと健全さを育む場として機能していたと
考えます。

学生時代は貧乏していましたが、喫茶店にはよく行きました。上野毛の大学近くの古い喫茶店が溜まり場で、ここで学生同士のみならず、先生も交えて議論をする事が多かったです。早稲田界隈の喫茶店にもよく行きました。大袈裟な話ですが、喫茶店と言う空間が私を育んでくれたのだと思います。経済的な貧しさはありましたが、精神的に豊かな時代だったと思います。原さんの仰る人間関係、これが保たれていた、密であった、と言うことだと思います。

結婚前の土曜日は音楽好きの家内と梅田の名曲喫茶で落ち合って将来を語り合ったものです。今はその当時の事を思い出すのが恥ずかしいのか、お互いに口にもしません。

喫茶店と言う言葉が死後になったような感があります。街中で寛ぎながらコミュニケーションを育める空間と言えば、私にとりましては居酒屋です。

余談ですが、喫茶店のルーツは1650年のイギリスのコーヒーハウスにある様です。ここで新聞を読んだり、政治を論じたりと、交流の場であった様です。

日本では1878年の神戸本町「放香堂」が最初であり、1887年の東京下谷の「可否茶館」が本格的な喫茶店だそうです。上手い名前を付けたものです。

話が変わりますが、ある女子大生が「酒場の考現学」に近い書物を著していました。又、ある女子院生が
「ラブホテルの文化史」を著していました。



ガイアさん、喫茶店は“会話の文化”を創り上げましたね。 (原左都子)
2008-09-21 10:18:02
そして、人間関係の希薄化減少と共に、喫茶店は廃れていきました。
今の人々の関心は何に行ってしまったのでしょう。ネット世界ですかね? 味気ないですね。生身の人間の方がよほど刺激的ですのに…。

ガイアさん同様に居酒屋好きな私ですが、喫茶店との違いは“珈琲”か“酒”かにありますね。
今はすっかり居酒屋派の私ですが、昔は“酒”の力を借りずとて喫茶店で盛り上がって何時間でも話せたものです。あれは若気の至りだったからでしょうか。あるいは、語り合う相手と親しい間柄だったからでしょうか? 
もし今現在、大して親しくない人と喫茶店で会話しろ、と言われたらちょっと辛いかもしれません。もちろん相手の人柄等にもよりますが。それだけ、年齢を重ねたことで自分自身に“くせ”が出来て我がままになってきているのかもしれません。

話を大きくずらしてしまいました。


 以上、「お茶しよう!」に頂戴下さったコメント群を再掲載させていたたいだ。




 2019年8月現在に話題を移そう。


 この“喫茶店文化”が廃れたのは実に我が上京後のバブル期前期頃ではなかろうか?

 その後我が推測に寄れば、この世から初期の「居酒屋」文化も廃れた実感すらある。

 その後の我が国の「喫茶店文化」とは、そのすべてが“人間関係の希薄化”に対応するべく、“スターバックス”に代表されるべく安易なチェーン店化が劇的に進んでしまっている。

 純粋に“珈琲タイム”を一人で過ごしたい人にとっては画期的進化なのであろう。

 いえいえ集団嫌いのこの私にも、この進化は喜ばしい事とも捉える側面もあるのだが…


 故にそれを全面否定するつもりはないが。
 我が青春時代に味わった「お茶しよう!」文化こそが、私自身が当時の人間関係の活性化を図る一番の手段だった記憶がある事実を、懐かしく振り返る…

再掲載 「残暑の中の市場調査」

2019年08月18日 | 仕事・就職
 (写真は、本日再掲載エッセイに記載の“医学関連市場調査”業務に挑んだ30代前半頃の私。 サンフランシスコにて。 本文とは無関係です。)


 台風通過後、またまた日本列島には来る日も来る日も残暑が押し寄せている。

 こんな日に思い起こすのは、今から約30年程前に2度目の学生時代夏季休暇中に励んだ人材派遣社員としての仕事だ。


 早速、2008.09.05公開の本エッセイ集バックナンバー「残暑の中の市場調査」を以下に再掲載させていただこう。

 9月に入って尚残暑が厳しい今日のようなけだるい日の午後には、私の脳裏にある外回りの仕事の記憶が蘇る。

 私が30歳代にして再び学業の道を志し勤労学生をした経験があることに関しては、本ブログのバックナンバーで再三既述している。
 当時、私は学業の合間に様々な職種の仕事に励んだのだが、その中に医学関係の市場調査を人材派遣の身分で依頼されたことがある。 この仕事は“外回り”の市場調査だったのだが、後にも先にも私にとって“外回り”の仕事経験はこれのみである。

 この仕事について簡単に説明すると、某一部上場大手化学関連企業が医療機器分野に新規参入するにあたり、その顧客である中小開業医の要望等を聞いて回る事前のマーケティング調査との内容で、1ヶ月間限定の仕事だった。 大学の夏季休暇後半の8月中旬頃から9月中旬頃まで、私はこの仕事に挑んだという訳だ。
 私にとって“外回り”の仕事はこれが初体験であり、自由度の高さに期待していたのだが、そのような甘っちょろい期待は初日からはかなく崩れ去るのである。

 これが大変な激務だった。 なぜならば交通機関と徒歩での外回りなのだが、とにかく時期的に暑さが尋常でない。 妙齢というにはもう図々しい年齢ではあったが、とにかく独身女性がハイヒールを履いて来る日も来る日も猛暑の中を1日中歩くのは厳しい。
 しかも当然ながらノルマがある。訪問病院数をこなさなければならない。 そして何よりも調査内容の専門性が高い。 暑さでへばっていたのでは、顧客である医師相手に対等に渡り合えないのだ。
 最悪なのは、猛暑の中やっと病院までたどり着くと、事前にアポイントメントをとってあるにもかかわらず、急患等の急用を理由に調査を拒否される門前払いのパターンが何とまあ多かった事。 これにはがっかりで暑さのみが身にしみる。
 時には患者が少なく暇そうにしている病院に行くと、医師の雑談の相手をさせられる。 中には妙齢の(?)女性である私を相手に1時間も2時間も四方山話をするご年配のお医者さんもいらっしゃる。 これなどは可愛気があり私など喜んでお付き合いするのだが、肝心の調査情報は得られずじまいで時間ばかりが過ぎ去っている。

 そんな中、大変熱心に調査に応えて下さる医師先生もいらっしゃる。これには頭が下がる思いだ。 ちょうどそういう医療機器が開発されるのを待ってました!とおっしゃり、ご自身の医療現場の有意義な情報を提供して下さる。 後で調査書に1件1件の調査内容をまとめるのも重要な仕事なのだが、用紙に書ききれず別紙で数枚のレポートにまとめて報告した程である。こういう調査に協力的な顧客はリストアップし、継続的に調査に協力いただくことになる。

 人間相手であるため嫌な思いも当然する。 ある病院では、調査に応じてくれたのはいいのだが、開口一番「女のあなたに何がわかるんだ!」とくる。 名刺を持たせてもらっているため、それを差し出し医学関係の肩書き等よりその道の専門力があることを提示するだが、専門的な話は一切させてもらえず、意地悪な質問ばかりを投げかけてくる。 そもそも調査に応える気がないのなら門前払いをしてくれた方がましだが、どういう訳か人をつかまえて自身の憂さ晴らしをする医師先生もいらっしゃるようだ。 これにうまく対応するのも仕事のひとつである。

(ここで補足説明だが、この市場調査の仕事は人材派遣としては通常の“時給制”であり“達成ノルマ制”ではなかったため、報酬としては当時の私にとって相当高い仕事ではあった。)

 この仕事において一番印象深い出来事は、実は仕事そのものではない。
 9月に入った後厳しい残暑の最高気温が35℃位の日のことである。 いつものように、うだる暑さの中汗を拭き拭きけだるく目的の病院を探して歩いていたのだが、その病院が風俗街を通り過ぎた場所にあるため必然的にそこを通ることになる。
 これがアッと驚きだ。 真昼間から“ソープ嬢”のスカウトに遭うわ遭うわ…  本当に我が腕を掴んでお店の中に引っ張りこもうとさえする。 すると、隣のお店も負けじと私の腕を引っ張りにくる。 もちろん断るのだが、とにかく店内で話だけでも、と皆さんおっしゃって離してくれない。 何とか難を逃れつつ、(こんな残暑厳しい中での外回りの仕事も大変だし、涼しい室内で“ソープ嬢”でもやる方が楽かなあ)、との思いが少し私の頭を巡る…。
 ちょうどバブル期最盛期の話である。 “ソープ嬢”も求人難の時代だったのであろう。

 長々と市場調査の話について書いてきたが、こんな残暑厳しい9月の午後に私の脳裏をよぎるのは、“ソープ嬢”としてスカウトされそうになった“バブル”の日の思い出なのである。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2008.09.05バックナンバーより再掲載したもの。)



 2019年8月現在の私見を述べよう。

 確かにその頃の私の普段の姿を一目見て、“医学関係者”であると言い当てる人は皆無だった。
 と言うのも、理系専門職ご経験者にはお分かり頂けるであろうが、職場にて業務に取り掛かる時には必ずやその専門をこなすべく適切な仕事着に着替えるのが習慣だった。
 例えば私の場合、無菌室にて無菌作業をこなしたり、RI(放射性同位元素)を扱う仕事にかかわった事もある。 その場合など頭のてっぺんからつま先までの全身に及び着替えが必要となる。

 それ故に、普段の通勤着は自由度が高いのだ。
 思う存分お洒落をして出勤しても、肝心要の専門業務がきちんとこなせれば誰に責められるはずも無い。 それを良き事として、私は日頃からいつもおしゃれを楽しむことが叶ったと言う訳だ。

 この「市場調査」の仕事にも後日談がある。

 定期的に私の派遣元の大手企業研究所を訪れ、担当者に市場調査結果を告げるのだが。
 その際に、雑談範疇でこの“ソープ嬢勧誘”の件をついでに話したところ。
 男性の担当者氏が、「とてつもなく失礼な事となって申し訳ない!」と平謝りするではないか!
 (実は既にその方面で海千山千の私側は、それ程までに気に留めてもいなかったのだが…) 更に担当者氏が付け加えて、「今後はそんな“危険な地域”を避けて訪問病院を選定するので、どうかこれに懲りずに市場調査を続けて下さるように!」
 (いや、あのねえ… ソープ嬢勧誘よりも、私にとってずっと辛いのはこの“猛暑”なのだけど…) とは言いそびれたものだ……

 更なる後日談だが。

 この派遣元企業研究所を訪れた帰りに入口の守衛室にて“タクシー配車”を申し込もうとしたところ。 
 後方から、当該企業の私よりも少し若い年代と思しき社員男性が私を追いかけて来ている事には気付いていたのだが。 その男性が「駅まで行くんでしょ? 私も行きますから一緒にタクシー乗車しませんか?」と声掛けして下さる。
 そして到着したタクシーに乗り込んだところ、男性より質問攻めだ。「本日は何の目的で当社研究所へいらっしゃたのですか?? 普段は何をされているのですか?」 ……

 男性の質問に応えていると、「もしよかったら、タクシー下車後に食事などどうですか?」とナンパに入るではないか!
 私側も、(この大企業の社員男性ならば安心!)との身勝手な判断を下し、その後食事に付き合った記憶がある。 

 残念ながら、その後のこの男性との付き合いに関しては忘却の彼方なのだが…


 それにしても、まさに未だ人間関係が希薄でなかった“古き良き時代背景”の、私にとってはある意味で実に面白かった物語を、本日公開させていただいた。
 

再掲載  「長生きは一生の得(火傷の編)」

2019年08月17日 | 自己実現
 皆さんは、今までの人生に於いて“大怪我”をされた経験がおありだろうか?


 本日は、我が幼少期に経験した“大怪我”にまつわるバックナンバーを紹介しよう。
 
 早速、2008.08.05公開の「長生きは一生の得(火傷の編)」を以下に再掲載させていただこう。

 私は幼稚園児の頃、腕にかなり大きな火傷を負ったことがある。

 昔は台所のガスコンロの燃料として(少なくとも私が住んでいた過疎地では)プロパンガスを使用するのが通常であった。プロパンガスのボンベから直接ホースを引いてコンロにつなげるという簡易構造なのだが、ある朝そのホースを幼い私は腕に引っ掛けてしまったのだ。
 コンロの上の作り立ての味噌汁を鍋ごとひっくり返して、その一部を腕に被ってしまった。その様子を目撃した家族は誰一人としていなかった。
 朝食前の忙しい時間でもあり、味噌汁を鍋ごとこぼした事を家族に叱られるのを避けようという発想しか私の未熟な頭には浮かばす、幼心に腕を負傷したことは自らのとっさの判断で伏せることにした。
 案の定、すぐさま味噌汁をこぼしたことを家族から叱られたため、尋常ではなく痛む腕のことは言えず、ひた隠したまま私は幼稚園へ行った。

 長袖の園児服のゴムの袖口から腕を覗き込むと、火傷を負った腕に何個かの水脹れが出来ている。一番大きいので直径3cm程ある。 こんな異様なものが私の体に発生したのを見るのは生まれて初めてのことで、言い知れぬ恐怖感ばかりが私に襲い掛かる。 事の重大さに怯えつつも一人で痛みを我慢しつつ幼稚園での日課を何とかの思いでこなすしか手立てはないまま、やっと帰宅の時間となった。
 両親が共稼ぎだったため昼間は祖母に世話になっていたのだが、帰宅後もやはり自分がしでかした事の重大さが後ろめたくて腕の火傷の事は言えない。 早く消えてくれないかな、と水脹れを何度も見るのだが消えるどころか大きくなっているような気さえする。 痛みもまったく治まらないどころかさらに激しくなってきているようにも思える。
 その日の放課後は家での遊びにも身が入らない。 どうしても腕の水脹れが気になる。 庭にある松の葉の先でこの水脹れを潰して証拠隠滅しようかとも思うのだが、そんなことをしたらもっと事態が悪化しそうなことが当時の私は幼心にも予期できてしまい、実行に移せない自分との闘いが続く。

 夜になって母が帰宅した時に、もう隠し通せないと覚悟を決めた私は母に腕の火傷を見せた。 一日中小さな心に背負い続けていた後ろめたさや恐怖心から一気に解放された私は、母に告白した事でどっと押し寄せた安堵感で大泣きした。 母は私の腕の水脹れに一瞬にして驚き、すぐに私を病院に連れて行った。
 負傷後の措置が遅れてしまったため、火傷は治っても水脹れの跡形が腕に残ると医師が母に告げるのを、私も診察室で聞いた。

 そして、私の左腕には未だに直径3cmの火傷後が刻まれることとなった。(年数の経過と共に小さいのは消えてなくなり、3cmのもずい分と色合いが薄くなってきてはいるが。)
 小さい頃は私の腕の火傷の水脹れの後が焦げ茶色で大いに目立っていた。 私の地方ではこういう皮膚の跡形を“こと焼け”と呼んでいたようである。

 上記の負傷から間もない頃、まだ幼い私は祖母からある迷信の話を聞いた。“こと焼け”のある人間は長生きできない、と言う昔から伝わる迷信の話を…。 それで私は祖母に尋ねた。「長生きできないって言うけど、何歳くらいまでは生きられるの?」 祖母曰く「50歳くらいだと思うよ。」
 それを聞いた私は大いに安堵したものである。「50歳までも生きられるならば十分!」と。 その頃の私はまだ5歳位だった。その時の私にとっては、50歳という年齢が想像を絶する程遠い未来に感じられた。

 私は今尚、自分の左腕に刻まれている、もはや色が薄くなった“こと焼け”を見る度にこの祖母の迷信の話を思い出す。

 年月が流れ、50歳が近づくにつれ私の頭の片隅でこの“50歳”の数値の意識が強くなっていった。 5歳の頃にははるか遠い未来であった50歳が、年齢を重ねる毎にどんどんと間近に迫り現実味を帯びてくるのだ。 私の命は50歳までなのか!?? あの祖母の話は、確かに神のお告げだったのかもしれない…、と少々恐怖心まで伴ってくるのである。

 そして、その“神のお告げの”ハードルを既に何年か前に無事に越えてまだ生き長らえている今、体も程ほどに丈夫で、生活もある程度安定し、外見もそこそこ年齢よりも若く(??)、この後に及んで自分なりのポリシーも貫きつつ人生を刻み続けている我が身がここにあることに感謝するのだ。

 私にとっての“50歳の命の神話”は、あくまで神話であり迷信であったのかと少しずつ実感できるこの頃である。

 先週の新聞等の報道によると、2007年度の日本人の平均寿命は過去最高を記録した模様である。女性が85、99歳、男性が79、19歳とのことで、女性は23年連続で世界一、男性も世界で3位の長寿国であるらしい。

 何と言っても、長生きは一生の得である。
 続編で更に、これに関する私論について述べることにしよう。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2008.08.05付バックナンバーより再掲載したもの。)



 このバックナンバーを読み返す都度、私の脳裏に様々な感情が行き交う。
 そんな我が深層心理を2019年8月の今、以下にまとめてみよう。

 まずは、親の責任論だ。
 この事件、どう考察しても我が親どもの“愚かさ”が前面に出てしまう。 
 未だ幼き我が子が燃え滾る味噌汁をひっくり返したとなれば、いくら私が忍耐強い娘だとせよ、親として開口一番問うべきは「怪我(火傷)をしていないか!?」に決まっているであろうに。
 何故、我が親どもはそれを問うてくれなかったのか!? との“恨みつらみ感情”が今尚我が脳裏に燦然と存在する。
 とにかくいつもいつも「共働きなんだから」との言い訳を、一番最初に子供に押し付ける両親だった。 姉は高校生時点で、そして妹の私は20歳前半期の就職時点で親元を離れることと相成ったのも、そんな家庭環境がもたらした自然の成り行きなのだろう。

 祖母が私に告げた“迷信”を母親に話した事もあるのだが。
 これを母が完全否定して私に言うに、「あの人(祖母の事)古い時代の人間でいつもくだらない迷信を他人に告げる癖があるのよ。そんな戯言を信じないように!」

 一方、私の解釈は決してそうではなかった。
 その後私の火傷を哀れんでくれたのは、いつも私達姉妹に日頃寄り添ってくれている祖母だった。 “こと焼け”を抱える運命を背負った私を心より心配してくれているからこその発言だったと、幼き私は認識する事が出来ていた。


 そんな父方祖母は、90代半ば頃まで長生きした。

 私が上京後郷里へ帰省する都度、幼き頃日々寄り添ってくれた祖母に会いに行くと、「大きくなったね、綺麗になったね。立派になったね。」と必ずや褒めてくれたのを思い起こす……。




再掲載 「自分と他人との境目」

2019年08月16日 | 人間関係
 本日紹介する“再掲載”ものは、2009.01.16公開の「自分と他人の境目」と題する原左都子エッセイ集開設早期のエッセイです。

 ここのところ“Popular Entories トップ10”に時折ランクインしていることもあり、自分で読み返してみると。
 今から10年程前の当時の我が“思考回路”を振り返る事が可能だ。 
 2度目の大学にて自分の専攻ではない「哲学」にはまった事に関しては事ある毎に触れているが、その頃の“哲学かぶれ”から未だ脱却していない我が脳内模様がやや懐かしくもある。


 それでは以下に、当該エッセイ及びこのエッセイに頂戴したコメント群を再掲載させていただこう。

 朝日新聞(2009年)1月11日(日)別刷「be」に興味深い記事があった。
 “心体観測”のコラム、金沢創氏による「他者の心・自分の心① 他人の感覚はわかるのか」という題名の記事なのだが、私も中学生の頃、この記事の内容とまったく同様の思考が脳裏に浮かんだことがある。

 さっそく、金沢氏による上記記事を以下に要約して紹介することにしよう。

 中学生ぐらいの頃、他人というものが不思議で仕方がなかった。
 私にはあの夕焼けの色が真っ赤に燃えているように見える。でも、私が見ているこのアカイロは、果たして他人が見ている赤色と同じなのだろうか。
 あるとき、この問いに関係がありそうな説明に出会った。それは「感覚を生み出しているのは脳という器官である」というものであり、私は私の脳と他人の脳をなんらかの装置を用いてつないでみたいと思った。そうすることにより、「他人が見ている色」を、直接見ることができるような気がした。
 しかしある時、その考え方は決定的に誤っていることに気付いた。その理由を詳しく説明するには数冊の哲学書が必要だが、別の意味ではたった一言で説明可能だ。それは「どううまく脳をつないでも、最後に何かを感じるのは私だから、それは他人の感覚ではない」
 この答えは当たり前そうに思えて、本当はとても過激だ。なぜなら、「他人の感覚」とは原理的に決して知ることができないという結論になるからである。
 他人の心はよくわからないもの。それはよくある常識だが、それが原理的なものとなると話は別だ。どんなに科学技術が進歩しても、それが決してできないのだとしたら。(以下略)

 以上が、金沢創氏によるコラム記事の要約である。
 そして“実験心理学”が専門でおられる同氏は、次回以降の同記事において、この実験心理学について紐解いていくことにより、心というものの不思議について考察していかれるそうである。

 実に偶然なのだが、この私も中学生の頃に「色」というものの見え方について同様の疑問が頭をもたげたことがある。 私の場合は夕焼けを見て思いついた訳ではなく、漠然と「色」の見え方についてふと思った。
 赤、青、黄、緑、…… 人はいろいろな色をその色として認識している訳だが、本当に皆同じ様に見えているのであろうか。もしかしたら私が“赤”だと認識している色がAさんにとっては私の認識の“黄”であったり、Bさんにとっては“緑”であるのかもしれない。言語で表されている対象物の認識の感覚とは、実は人により異なるのではなかろうか…。

 この命題はまさに哲学的であり心理学的である。 金沢氏が書かれているように、この命題を実証していくためには数冊の哲学書が必要であろう。 また心理学分野においてはもう既にその解明が進展しているのかもしれない。
 今のところ残念ながら私はその分野の学術知識をさほど持ち合わせていないため、ここでは専門的な話は素通りさせていただくことにする。

 それにしても、「他人の感覚」とはいつの世も捉えにくいものである。 自分と他人との間には必ずや“境目”や“隔たり”が存在するのが人間関係における宿命であるようにも思える。
 他人に対して好意を抱いたり興味を持ったりすると、自分とその他人との感覚を接近させ、その境目や隔たりを“超越”して自分の感覚を「他人の感覚」と融合させたい欲求に駆られるのが人情なのだが…。

 他人の心とは永遠に分からないものであるのか。 それとも、科学技術の進歩により「他人の感覚」が原理的に解明できる時代がもう既に来ているのであろうか。
 他人の心とはわからない方が、実は人間関係は奥が深くて面白いのかもしれない…。

 (以上、本エッセイ集バックナンバーを再掲載させていただいた。)


 
 このエッセイには、大変興味深い“コメント”を多く頂戴している。

 引き続き、それらのコメントを以下に再掲載させていただこう。



他人の感覚な~ (ドカドン)
2009-01-16 17:28:23
他人の感覚や感情が分かったら、世の中無味乾燥な世界になるやろな?
また、エロな事を考えていても、他人に分かるのならエロの感情を常に持っている私は、一生、外を歩けない。
人は、時には自分を小出しに、時には爆発的に自分を激昂させる・・・、感情豊かに自分を表現させる方法やもんね!
他人が思う「赤」が、自分の思う「黄」ではないやろか?は、私も経験しました。
感覚の違いは、あって当たり前・・・、妻が面白い映画は、必ずしも私も面白いわけではない。



ドカドンさん、エロもすばらしい感覚じゃないですか! (原左都子)
2009-01-16 20:21:49
やっぱりドカドンさんも経験されましたか。
色って、人との感覚の違いを認識しやすい概念かもしれませんね。

でも、ドカドンさんも若かりし頃には自分が好きな人とは同じ感覚を共有していたいと思いましたでしょ?

年齢を重ねてきますと、他人との感覚の違いって結構楽しめる要素でもありますよね。

で、ドカドンさんが持ち続けている“エロの感覚”はすばらしいじゃないですか!
人類をはじめ生物が代々にこの世に生き長らえるためには“エロ感覚”は絶大なパワーですし、必要不可欠な感覚ですよね。
ドカドンさん、今後も引き続き“エロ感覚”を失わないようにして下さいね!



錯角? (じぇーん)
2009-01-16 23:22:50
確かに好きな人とは多くを共有したいですよね。価値観が同じ人なので一緒にいて…など。
そう思い込みたいんでしょう。正確には。
でも歳をとって経験値が上がるとそうでないと気がつくことが多いような。少なくとも私は。
ところで個人でも幼少の頃と今とでは色の見え方は違うそうです。
目の水晶体に濁りが入って。幼い頃の白は今よりもっと白かった、と。
こちらも歳をとって失われるものですかねぇ…。



性懲りも無く (issei)
2009-01-17 00:04:04
前投稿のコメントでは低年齢層のおこずかい問題に触れず、いきなり中、高校生のアルバイト問題を一方的に語ってしまい、大きく的をはずしたコメントに大失笑された事と思います。今日も時間が無い。
私も他人を思いやる心とかをいつの頃から芽生えたかと言うようなことは記憶にありません。しかし、「あんなことをされたくないな」と言う記憶はずいぶん小さい頃からあったと思います。色と形の感覚は機械で計算どおりに表現したものを皆で見ているわけで絶対的な評価は出来ています。音については人により感じているものが違うようです。それは音の幅が大きく複雑で聴く人の顎と頭蓋の構造などによる差異が出るように思います。



じぇ~んさん、経験値が上がると他人の感覚の受容量が増えますね。 (原左都子)
2009-01-17 11:36:58
そうですね。
年齢を重ね経験値が上がっていく程に他者の感覚の受容量が増えて、他者との感覚のズレを楽しむ余裕ができてきたりもしますね。

そして、加齢と共に感覚的なものの見え方が変化するのと平行して、実際の体の機能の低下による老化と共に実際に見える風景も変わってくるというのは、生命体にとって合理的な身体と感覚の変遷であるのかもしれません。

今後は、既に霞がかかった頭で霞がかかった風景を楽しみたいものです!



isseiさん、問題なしです。 (原左都子)
2009-01-17 11:45:54
isseiさん、何もお気になさいませんように。
私の方こそ、返答コメントを書かせていただくときに、的外れであったり独りよがりであったりする事がしょっちゅうです。(この前も、isseiさんへの返答コメントで失敗をしでかしたばかりですが…)
特に、沢山のコメントを一度に集中して頂き、それに対する返答を一気に書かせていただく時に、上記の失敗をよくやります。
書き直せば良さそうなものですが、ついついそのままにしてしまっています。
常連のコメンテイターの皆さんは皆さんお心の広い方ばかりでいらっしゃり、お叱りも受けずにまた新記事にコメントを書きにいらして下さいますので、ついつい甘えさせていただいております。

音に関しては実際に聞き手によって受容している感覚が違うというのは興味深いお話ですね!



感覚と言語 (ガイア)
2009-01-17 17:11:07
冒頭から変な話ですが、私は、私の中にもう一人の私という他人が同居しているように思えます。ですから、自分の事さえ本当は分からないのです。

ましてや、他人の感覚など捉えようがありません。だからと言って他人を無視したり、付き合いをしない、という訳ではありません。

寧ろ他人の感覚を掴みたいとイマージネーションを拡げます。それが人間の人間たる所以ではなかろうか、と思います。

想像力(又は創造力でも良いと思いますが)を働かせて他人の感覚と自分の感覚が一致した時、そこに共有する慶びと価値が生まれます。言葉に言い表し難いインスピレーションの様なものを感じます。

金沢創氏が今後どの様な展開をされるのかは分かりませんが、数冊の哲学書が必要だ、とされているのはこの辺りのことを指しているのではないでしょうか。

ところで、感覚を色のみに限って言いますと、色は言語に置き換える事が多いのですが、言語に置き換えた時、他人とズレが生じるは当然です。同じ赤と言っても赤い色は無数にあります。

この無数さには民族の違いや色を職業として扱う人とそうでない人との間では大きな開きがあります。

例えばイヌイット。雪や氷に伴う色が沢山あり、それらに対応する言語もデリケートな程沢山あります。

例えば、画家やデザイナー。彼らは魔術師のように色を操ります。色に関してはそれを扱い表現出来るように徹底的にトレーニングを行います。美大の基礎科目ではデッサンと共に色彩構成の課題が嫌と言うほど課せられ、それによって色を覚えてゆきます。でも、使っていないと色を忘れ、表現できなくなります。この辺りは音の感覚と似ています。

拡大解釈をすれば言語や文章の感覚も同じだと思います。

感覚を言語に置き換えると難しいですし、ズレが生じます。言語は便利であっても、時には不便であり、無力です。

コメントの観点があらぬ方向に行ってしまった様です。



感覚の共有? (ドカドン)
2009-01-17 18:55:28
>>若かりし頃には自分が好きな人とは同じ感覚を共有していたいと思いましたでしょ?
若い時に限らず、今も普通にそう思いますよ。
好きな人との共有が、たどり着くのが結婚の様に思いますね?共有の中には、感情や感覚、生活用品から金銭まで全てを含むのでしょうね?

若い頃の共有は、肉体的な快楽に走りそうですが、本来肉体関係の前には、心の共有があるべきなのに、性欲がその手順を狂わせてしまいます。

今の風潮は、心の共有を持ち合わさない快楽至上主義で、恋愛を進行させている様に思えるのです。
心情、感情、感覚の共有は、若い時に限らず常に持ち合わせる本能の様な部分ですが、これが出来た時、次の肉体的な共有(結び付き)に進める様な恋愛に、戻そうよと思います。
質問の趣旨から、また脱線ですかね?



Unknown(abstra)
2009-01-18 01:18:59
こんばんは。
私は、人間には他人とリンクする能力があると思っています。ただ、それを自由に操ることができないだけなのではないか、そんなふうに思います。

全てのものは、きっとどこかで繋がっている。そもそもが、それぞれ個別に存在しているという確証は何もない。

物にも感情があるように感じるときがあり、そんなときにこんなようなことを考えちゃいます。
哲学でもなんでもなくて、ただの個人的な感覚にすぎませんが。



Unknown (ガイアさん、私もそうです。)
2009-01-18 11:38:10
ガイアさん、私なんか何人もの私が心の中に内在していますよ。その一人ひとりがいろんな場面で顔を覗かせます。別に多重人格者という訳ではないのですが、そういう人間の多面性を常に味わいながら生きております。

若かりし頃は、他者に対してこういう感覚の持ち主だと決め付けてしまうことが多かったように思うのですが、加齢と共に、他者の持つ感覚の多面性を観察するキャパシティが備わってきて、人間関係の幅が広がりますよね。
そして、感覚の相違からたとえ一旦ギクシャクしても、また違った側面から別の魅力を見出す事も出来て、関係を修復する能力も備わってくるように思います。

感覚を言語で表現することは、本当に至難の業です。私など、これで失敗ばかりしているようにも思うのですが、さしあたっての表現方法として言語は便利ですので、他に表現手段を持ち合わせていない私の場合はこれを用いることになるでしょう、



訂正とお詫び (原左都子)
2009-01-18 11:39:30
上記(↑)のガイアさんへの返答コメントは名前が抜けしたが、原左都子が書かせていただきました。



ドカドンさんて、まっすぐに生きていらっしゃるイメージがあります。 (原左都子)
2009-01-18 11:54:59
こちらこそ本文の趣旨からはずれまして恐縮ですが、いつもドカドンさんのコメントを読ませていただきますと、ドカドンさんて、本当にまっすぐに真剣に生きていらっしゃる方というイメージがあります。

ドカドンさんと対比して我が身を振り返ってみますと、歪みの大きい人間であることをいつも思い知らされます。

肉体的な快楽への欲求が心情、感情、感覚の共有の手順を狂わせる…、確かにそういう恋愛も多いのかもしれません。ただ、人間とは肉体のある生命体であり、心と肉体は切り離せない部分もあると思うのです。そういう意味では肉体的な快楽も恋愛の重要な要素であり、それが先行してしまう場合もありうるのか、とも思います。
もちろん、売春や風俗など、それのみが目的である行為は私も否定しますが。

確かに、恋愛においてたとえ肉体的快楽が先行して場合も、お互いの心を、感覚を、確かめ合うことは重要ですね。



abstraさんのおっしゃる通り、全てのもののつながりが世の中を構成していますね。 (原左都子)
2009-01-18 19:56:43
abstraさんから私のブログにコメントをいただけるのは、2度目のことと認識させていただいております。
abstraさんのブログのファンである私にとりましては、とてもうれしいことであり、また、何だか返答を書かせていただくことに緊張すら感じる一瞬でもあります。

全ての存在が個別ではなく、そしてまた個別であることを信じたい私です。

もう既に年老いた私にとりましては、“個別”とは内面から欲する言葉であります。この“個別”を求めて旅する人生であるようにも感じます。

ところが、abstraさんがおっしゃる通り、生命体は決して個別には生きられません。
個別を欲する人間など、そもそも生き方を誤っているのでしょう。

それでも個別を愛する人間が存在し、それを誤った事とも認識しつつ、ちぐはぐな人との繋がりを求め彷徨いつつ生きていてもいいのではないかと、私のような未熟者はいつも思いつつ生き永らえております。

また、是非コメントを書きにお越し下さいますように。

 (以上、本エッセイ集2009.01.16付バックナンバーを、頂戴したコメント群と共に再掲載したもの。)



 最後に、2019年8月現在の我が心境を語ろう。

 現在コメント欄を閉鎖している関係で、過去の“コメント欄の栄光”を振り返ると、いつも過去の「原左都子エッセイ集」を羨望してしまう私だ。

 ならばコメント欄を再開すればよい、との結論には達しにくい。

 この10年間のうちに、「ブログ」を取り巻く環境が大きく変遷した気がする。
 ブロガー間のマナーが向上したとの利点と並行して、ブロガー同士の関係性が希薄化している感を抱く。

 この10年で私自身も年齢を重ねた。 10年前の“新鮮味”が私の内部に未だ存在するのかどうかも疑問だ。
 
 コメント欄を閉鎖している現在の「原左都子エッセイ集」とて、もちろん“悪くはない”。
 これはこれでブログ上の対人関係という“面倒臭さ”も無く、執筆の自由度が高まっているとも解釈可能だ。

 とにかく、今はこれで納得しよう。