(写真は、2018.12に自宅近くの映画館にて観賞した映画「くるみ割り人形と秘密の王国」の新聞広告を転写したもの。)
さて、現在西日本を中心に台風10号被害に遭遇しているとは言えども。
未だこの国は“お盆休み”中であることに一応安堵しつつ、娯楽関係のバックナンバーである2018.12.01公開の映画「くるみ割り人形・実写版」を以下に再掲載させていただこう。
我が家は娘幼少の頃よりほぼ毎年12月のこの時期になると、クラシックバレエ公演「くるみ割り人形」を観賞しに出かけるとの習慣がある。
本エッセイ集開設初期 2007.12.02 公開の「くるみ割り人形(全幕)」に於いてその様子を綴り公開しているため、再度その一部を掲載させていただこう。
「くるみ割り人形」は、まずチャイコフスキーの音楽がすばらしい。 バレエ観賞の趣味がなくともこの音楽を聴いたことのない人はまず存在しないであろう。 「序曲」「行進曲」「ロシアの踊り」「足笛の踊り」「花のワルツ」「金平糖の精の踊り」… 全幕に渡り、名曲の数々である。
我が家の場合、娘が小学生の時にバレエ教室でこの「くるみ割り人形(全幕)」にクララの友達役で出演したことがあり、私もそのリハーサル等の付き添いで何度もお供したため、私も子どもも全幕全曲マスターしている。 音楽をマスターした上でのバレエ観賞は数倍楽しめるものだ。
さて、この時期はあちこちの国内外バレエ団が「くるみ割り人形」を公演している。
「くるみ割り人形」の中で私の一番のお気に入りは、第一幕最後の「雪の精の踊り」である。(素人好みだが、コールドバレエにこそ私は感動する。) 総勢約30名が、一糸乱れぬ踊りを繰り広げるのが圧巻だ。 ダンサー層の厚い松山バレエ団の場合、踊りが揃っているのは当然のこと、コールド全員の身長、手足の長さ細さ、顔の小ささまですべてぴたりと揃っている! 厳しい内部オーディションを実施しているものと察する。
また松山バレエ団の場合、第二幕の「ジゴーニュおばさんとピエロ」も特徴的で見せ場だ。 ジゴーニュおばさんの大きなスカートの中から子どものピエロが20人程出てきて踊るのだが、今年はこのピエロ役の子どもも厳選したと思われる。 ただ可愛らしいのみでなく演技力、技術力も伴っており、今回観客からの拍手が一番大きい場面だった。
そして今回大きく演出を変えていたのは、クララが夢から覚める前に、くるみ割り人形の王子と別れる直前の場面で二人のしっとりとした愛のグラン・パドドウの踊りを設けていたことだ。 この演出により、今回の「くるみ割り人形」は単なる少女クララのクリスマスの夜の夢の世界範囲を超えて男女の出会いと別れの切なさも描かれ、クライマックスへの感動へとつながった 。原作にはないこの演出は大成功だったのではないかと私は感じる。
(以上、「原左都子エッセイ集」開設初期のバックナンバーより一部を要約引用したもの。)
さて、今冬も何処かのバレエ団の「くるみ割り人形」を予約しようかと娘と話し合ったのだが。 結局娘の仕事の都合等々により予約を見送っていた。
そんな折に発見したのが、冒頭写真の新聞広告だ。
名作古典童話の映画化はよくある。
例えばこの私も昨年は「美女と野獣」、それよりもっと以前に「白雪姫」を映画館にて見た。
それらに比しクラシックバレエ古典名作の映画化とは、私が知る限りではこれが初めてではなかろうか?
映画「くるみ割り人形……」に関する情報は、事前に冒頭写真の新聞広告やネットでの宣伝動画等により得ていた。
今回の映画「くるみ割り人形」はディズニー社制作によるものだが、あくまでも映画館興行用に“娯楽作品”として制作された事実に関してはもちろん把握して出かけたものの…。
映画冒頭でいきなり チャイコフスキー作曲「組曲 くるみ割り人形」小序曲が流れた時には、目頭がウルウルした。 というのもクラシックバレエのみならず舞台公演に於いては、誰しも開演前から観客の皆さんは期待満載であろう。 内面から溢れ出る感動を抑えつつ開幕を待つものだ。 それ故に「くるみ割り人形」のみならず、全ての舞台に於いて小序曲の果たす役割とは絶大であろう。
ところがどうしたことか、(私に言わせてもらえば)最低限この「小序曲」に関しては全曲を流すべきなのに、なんと映画版は途中で名曲をブチ切り場面を変えてしまったのだ。 (これ、クラシックバレエファンにとってはあり得ない)作曲家チャイコフスキー氏に対する侮辱と捉えた。
その後もこれの繰り返しだ。
例えば我が娘がクララの友達役で舞台で踊った「行進曲」しかり。
私が好きな「ロシアの踊り(トレパーク)」「アラビアの踊り」「足笛の踊り」「雪の精の踊り」そして、何と言っても舞台メインの「花のワルツ」までをも、映画版では偉大なるチャイコフスキーの楽曲すべてを途中でブチ切ったり、映画ストーリーに合わせて断裁して使用しているのだ!
この事実こそが、クラシックバレエ舞台ファンにとってはアンビリーバボー! でしかない。
バレエの踊りに関しても。
確かに、おそらく米国のプロバレエダンサーと思しき人物達が素晴らしい踊りを披露する場面もあった。
特に映画が終焉たした後に、「金平糖の踊り」を流しつつ踊りを少しコンテンポラリーにアレンジしたがごとくのダンスが比較的長時間上映された。 (これが、クラシックバレエを比較的まともに取り上げた“唯一の”場面だったと言えよう。)
私論でまとめよう。
いや確かに、「芸術」であるクラシックバレエと「娯楽」位置付けの映画との間には今尚埋められない溝が存在することであろう。
ただ熊川哲也氏など若くしてその「溝」を埋めようと、以前より努力しておられる人材だろう。
今回の予告編でも、熊川氏による「クラシックバレエ」映画化チャレンジ風景を拝見した。 というよりも、熊川氏はご自身が主催されているバレエ団舞台の「映画化」を既に実現済みだ。(未だ「映画版」を拝見していない立場だが。)
私が素人感覚で思うに。
舞台と映画との一番の “埋められない格差” とは、その「鑑賞料金」ではあるまいか? その格差とは、実際問題数倍以上の開きがあろう。
娯楽である映画が何を制作しようと自由なのはもちろんのこととして。
常にリアルタイム勝負の舞台芸術と、幾らでも編集作成可能かつ世界中へ配信可能な映画を一緒くたにした挙句。
特にクラシックバレエとの古典芸術に及んでまでチャイコフスキー古典名曲を途中でブチ切りつつ、あくまでも“出来上がったフィルムを再現すればカネになる”映像との手段で、安易に映画制作公開している事実に異議申したい!!
(以上途中大幅略しつつ、本エッセイ集バックナンバーを再掲載させていただいた。)
現在2019.08.14の原左都子の私論を述べさせていただこう。
その後も、ディズニー映画の「実写版」等々リメイクされた作品を映画にて数本観賞した。
それらとこの「くるみ割り人形」が大いに趣旨を異にするのは、まさに「くるみ割り人形」とは世紀の大作曲家 チャイコフスキー氏による名作を古典バレエとの歴史的産物として世に発表している点だ。
今それを振り返っても、その古典名作の“冒瀆の程”が許し難い感覚に囚われる。
ディズニーは何故こんな駄作を公開してしまったかを未だに嘆かわしく思うが故に、今夜、敢えて再掲載させていただいた。
さて、現在西日本を中心に台風10号被害に遭遇しているとは言えども。
未だこの国は“お盆休み”中であることに一応安堵しつつ、娯楽関係のバックナンバーである2018.12.01公開の映画「くるみ割り人形・実写版」を以下に再掲載させていただこう。
我が家は娘幼少の頃よりほぼ毎年12月のこの時期になると、クラシックバレエ公演「くるみ割り人形」を観賞しに出かけるとの習慣がある。
本エッセイ集開設初期 2007.12.02 公開の「くるみ割り人形(全幕)」に於いてその様子を綴り公開しているため、再度その一部を掲載させていただこう。
「くるみ割り人形」は、まずチャイコフスキーの音楽がすばらしい。 バレエ観賞の趣味がなくともこの音楽を聴いたことのない人はまず存在しないであろう。 「序曲」「行進曲」「ロシアの踊り」「足笛の踊り」「花のワルツ」「金平糖の精の踊り」… 全幕に渡り、名曲の数々である。
我が家の場合、娘が小学生の時にバレエ教室でこの「くるみ割り人形(全幕)」にクララの友達役で出演したことがあり、私もそのリハーサル等の付き添いで何度もお供したため、私も子どもも全幕全曲マスターしている。 音楽をマスターした上でのバレエ観賞は数倍楽しめるものだ。
さて、この時期はあちこちの国内外バレエ団が「くるみ割り人形」を公演している。
「くるみ割り人形」の中で私の一番のお気に入りは、第一幕最後の「雪の精の踊り」である。(素人好みだが、コールドバレエにこそ私は感動する。) 総勢約30名が、一糸乱れぬ踊りを繰り広げるのが圧巻だ。 ダンサー層の厚い松山バレエ団の場合、踊りが揃っているのは当然のこと、コールド全員の身長、手足の長さ細さ、顔の小ささまですべてぴたりと揃っている! 厳しい内部オーディションを実施しているものと察する。
また松山バレエ団の場合、第二幕の「ジゴーニュおばさんとピエロ」も特徴的で見せ場だ。 ジゴーニュおばさんの大きなスカートの中から子どものピエロが20人程出てきて踊るのだが、今年はこのピエロ役の子どもも厳選したと思われる。 ただ可愛らしいのみでなく演技力、技術力も伴っており、今回観客からの拍手が一番大きい場面だった。
そして今回大きく演出を変えていたのは、クララが夢から覚める前に、くるみ割り人形の王子と別れる直前の場面で二人のしっとりとした愛のグラン・パドドウの踊りを設けていたことだ。 この演出により、今回の「くるみ割り人形」は単なる少女クララのクリスマスの夜の夢の世界範囲を超えて男女の出会いと別れの切なさも描かれ、クライマックスへの感動へとつながった 。原作にはないこの演出は大成功だったのではないかと私は感じる。
(以上、「原左都子エッセイ集」開設初期のバックナンバーより一部を要約引用したもの。)
さて、今冬も何処かのバレエ団の「くるみ割り人形」を予約しようかと娘と話し合ったのだが。 結局娘の仕事の都合等々により予約を見送っていた。
そんな折に発見したのが、冒頭写真の新聞広告だ。
名作古典童話の映画化はよくある。
例えばこの私も昨年は「美女と野獣」、それよりもっと以前に「白雪姫」を映画館にて見た。
それらに比しクラシックバレエ古典名作の映画化とは、私が知る限りではこれが初めてではなかろうか?
映画「くるみ割り人形……」に関する情報は、事前に冒頭写真の新聞広告やネットでの宣伝動画等により得ていた。
今回の映画「くるみ割り人形」はディズニー社制作によるものだが、あくまでも映画館興行用に“娯楽作品”として制作された事実に関してはもちろん把握して出かけたものの…。
映画冒頭でいきなり チャイコフスキー作曲「組曲 くるみ割り人形」小序曲が流れた時には、目頭がウルウルした。 というのもクラシックバレエのみならず舞台公演に於いては、誰しも開演前から観客の皆さんは期待満載であろう。 内面から溢れ出る感動を抑えつつ開幕を待つものだ。 それ故に「くるみ割り人形」のみならず、全ての舞台に於いて小序曲の果たす役割とは絶大であろう。
ところがどうしたことか、(私に言わせてもらえば)最低限この「小序曲」に関しては全曲を流すべきなのに、なんと映画版は途中で名曲をブチ切り場面を変えてしまったのだ。 (これ、クラシックバレエファンにとってはあり得ない)作曲家チャイコフスキー氏に対する侮辱と捉えた。
その後もこれの繰り返しだ。
例えば我が娘がクララの友達役で舞台で踊った「行進曲」しかり。
私が好きな「ロシアの踊り(トレパーク)」「アラビアの踊り」「足笛の踊り」「雪の精の踊り」そして、何と言っても舞台メインの「花のワルツ」までをも、映画版では偉大なるチャイコフスキーの楽曲すべてを途中でブチ切ったり、映画ストーリーに合わせて断裁して使用しているのだ!
この事実こそが、クラシックバレエ舞台ファンにとってはアンビリーバボー! でしかない。
バレエの踊りに関しても。
確かに、おそらく米国のプロバレエダンサーと思しき人物達が素晴らしい踊りを披露する場面もあった。
特に映画が終焉たした後に、「金平糖の踊り」を流しつつ踊りを少しコンテンポラリーにアレンジしたがごとくのダンスが比較的長時間上映された。 (これが、クラシックバレエを比較的まともに取り上げた“唯一の”場面だったと言えよう。)
私論でまとめよう。
いや確かに、「芸術」であるクラシックバレエと「娯楽」位置付けの映画との間には今尚埋められない溝が存在することであろう。
ただ熊川哲也氏など若くしてその「溝」を埋めようと、以前より努力しておられる人材だろう。
今回の予告編でも、熊川氏による「クラシックバレエ」映画化チャレンジ風景を拝見した。 というよりも、熊川氏はご自身が主催されているバレエ団舞台の「映画化」を既に実現済みだ。(未だ「映画版」を拝見していない立場だが。)
私が素人感覚で思うに。
舞台と映画との一番の “埋められない格差” とは、その「鑑賞料金」ではあるまいか? その格差とは、実際問題数倍以上の開きがあろう。
娯楽である映画が何を制作しようと自由なのはもちろんのこととして。
常にリアルタイム勝負の舞台芸術と、幾らでも編集作成可能かつ世界中へ配信可能な映画を一緒くたにした挙句。
特にクラシックバレエとの古典芸術に及んでまでチャイコフスキー古典名曲を途中でブチ切りつつ、あくまでも“出来上がったフィルムを再現すればカネになる”映像との手段で、安易に映画制作公開している事実に異議申したい!!
(以上途中大幅略しつつ、本エッセイ集バックナンバーを再掲載させていただいた。)
現在2019.08.14の原左都子の私論を述べさせていただこう。
その後も、ディズニー映画の「実写版」等々リメイクされた作品を映画にて数本観賞した。
それらとこの「くるみ割り人形」が大いに趣旨を異にするのは、まさに「くるみ割り人形」とは世紀の大作曲家 チャイコフスキー氏による名作を古典バレエとの歴史的産物として世に発表している点だ。
今それを振り返っても、その古典名作の“冒瀆の程”が許し難い感覚に囚われる。
ディズニーは何故こんな駄作を公開してしまったかを未だに嘆かわしく思うが故に、今夜、敢えて再掲載させていただいた。