◎丸山作楽と神代直人
二一日からの続きである。かつて、丸山作楽〈マルヤマ・サクラ〉について調べていたとき、この人物については、信頼できる伝記がほとんど存在しないことに気づいた。全く伝記がないわけではないが、ひとつは、一八九九年(明治三二)刊、もうひとつは一九四四年(昭和一九)刊で、いずれも古い。古いから、信頼できないというわけではないが、両書とも、基礎的な事実についての記述や史料の紹介が十分でない。特に、丸山作楽が関与した二卿事件(明治初年の政府転覆事件)についての記述が曖昧である。
ところが近年、そうした丸山作楽研究の停滞を打ち破る可能性のある若手研究者があらわれた。それは、長崎史談会の盛山隆行〈モリヤマ・タカユキ〉氏である。氏は、二〇〇一年、および二〇〇四年に発行された雑誌『崎陽』の創刊号・創刊二号に、「丸山作楽の研究」という論文を寄せている。おそらくこれは、戦後になって初めてあらわれた、丸山作楽についての本格的な研究と言えるだろう。およばずながら私も、『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)で、丸山作楽について論じたが、このときは、盛山隆行氏の論文の存在に気づかなかった。今、このことを遺憾とする。
さて本日は、『崎陽』創刊号に載った盛山の「丸山作楽の研究(1)」における数行の記述に注目してみたい。同論文の三四ページには、次のような記述がある。
同(文久三年=一八六八)六月中には〔丸山作楽は〕島原を去りまたも長州山口へ入り藩主、毛利元徳に九州の世情について報告し、久坂元瑞〈クサカ・ゲンズイ〉、神代直人〈コウジロ・ナオト〉などの長州藩士や吉村徳太郎、池内蔵太などの土佐藩士と共に周防三田尻より京都に向かった。
ここに神代直人の名前が出てくる。神代直人は、後に大村益次郎暗殺事件に加わることになる人物である。海江田信義は、この神代直人と親しく、神代が処刑される際に、その処刑を妨害したことで知られる(今月二〇日のコラム「海江田信義と丸山作楽」参照)。
海江田信義と神代直人との間には接点があり、また、丸山作楽と神代直人との間にも接点がある。江田信義と丸山作楽は、のちにそろってオーストリアに憲法調査に出かけることになる。この二人の最初の接点はよくわからないが、ことによると、神代直人が両者を引きあわせたなどということがあったのかもしれない。
*「unknown」様、6月15日のコラム「大正震災かるたに学ぶ」に対するコメント、ありがとう存じました。ご指摘の箇所は訂正しました。