◎鈴木貫太郎「余の戦争観」
昨日に続いて、鈴木貫太郎『終戦の表情』(労働文化社、一九四六)にある文章を紹介する。本日は、「余の戦争観」。ただし、その前半まで。
余の戦争観
こゝで余は余の太平洋戦争観を明らかにしで置きたいと思ふ。
余は前節に述べたやうに日米は戦ふべからずといふ議論を持してゐたものであり、余が大正七年〔一九一八〕桑港〈サンフランシスコ〉で述べた講演の内容は次のやうな意味のものであつた。
「現在日米は盛んに建艦競走をやつて居り、或る論者は日米開戦論などを言ふものがあるが、自分としてはこの両国が戦争をするといふやうなことがあつたら、一寸のことでは収まらないと思ふ。仮りに米国が日本を占領するとしても、日本には数千万の人間が居り一寸手ごたへがありますぞ、この日本人を徹底的に殺すといふやうなことになれば、米国も数十万数百万の犠牲を出さなければいけないことになる。そんな犠牲を払はれて、一体何程の得るものが日本にはあるのだらうか。日本はカリホルニヤ洲一洲のねうちもないものである。又逆に日本がアメリカに上陸したとして、果してロツキー山脈を越えてワシントン、ニユーヨークまで進軍出来ることが出来やうか、それは全く不可能なことだと思ふ。太平洋とは文字通り、安らかな平安の海だ。この太平洋に軍隊輸送の艦を走らすやうなことがあれば、共に天罰を受けるど恩ふ‥‥」(これは勿論日米両国のみが戦ふ場合のことを差して言つたのである。)
と言ふことを述べ、列席の人々から非常の賛成の意を表されたことがある。【以下は明日】