礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

海江田信義と丸山作楽

2013-04-20 18:32:27 | 日記

◎海江田信義と丸山作楽

 昨日の続きである。
 オーストリアでローレンツ・フォン・シュタインの講義を聴いた海江田信義と丸山作楽が、どういう人物だったかについて述べる。
 海江田信義〈カイエダ・ノブヨシ〉は薩摩藩の出身で、幕末に起きた生麦事件(一八六二)に立ち合い、瀕死状態にあったイギリス商人リチャードソンに、とどめを刺したとされている。桜田門外の変(一八六〇)に加わった有村次左衛門は、その実弟にあたる。海江田自身も、攘夷派、反欧化主義者として知られ、欧化主義者の大村益次郎とは、犬猿の仲であった。大村益次郎を暗殺した神代直人〈コウジロ・ナオト〉と親しく、海江田が大村暗殺の黒幕だという噂が立ったこともある。この噂の真偽は明らかではないが、神代の死刑がまさに執行されようとしたとき、弾正台の監視役としてその場にいた海江田が、職権によってこれを妨害した話は有名である。一八三二~一九〇六。
 丸山作楽〈マルヤマ・サクラ〉は、平田銕胤〈ヒラタ・カネタネ〉門下の国学者・勤皇家であり、銕胤の後継者と目されていたともいう。すなわち復古派を代表する思想家であり、運動家であった。丸山は明治初年、復古派による政府転覆陰謀に関与し、一八七二年(明治五)に「終身禁獄」に処されている(一八八〇年、恩赦で出獄)。一八四〇~一八九九。
 この二人に共通するのは、当時の極右過激派で、政府内外に、それなりに影響力を持つ人物だということである。
 なお、丸山作楽については、拙著『攘夷と憂国』(批評社、二〇一〇)で、一章を割いて論じたので、一読いただければ幸いである。本日はここまで。【この話、続く】

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