◎アメリカ軍MP、石井四郎邸を連続訪問
昨日の続きである。引き続き、郡司陽子著『【証言】七三一石井部隊』(徳間書店、一九八二)を紹介する。
昨日のコラムで、次のように書いた。
郡司さんの記憶に誤りがなければ、石井四郎が「若松町」の自宅を離れたのは、少なくとも、近衛文麿の自殺よりもあとである。
あとから、これが、不要な一文であったことに気づいた。なぜなら、郡司陽子さんは、そのすぐあとで、「昭和二一年の新年」を、石井四郎の自宅で迎えたと書いているからである。
以下に引用するのは、昨日、引用した部分の最後から、四ページあとに始まる記述である。
自宅での石井部隊長とマッカーサー司令部との秘密交渉
昭和二一年の早春(何月のことだったか思い出せない)のある日、三人のアメリカ軍のMPが、隊長の家にやってきた。いつも雑巾がけをしてピカピカにひからせている玄関の黒御影石を土足で踏みつけると、ズカズカと靴のままで、二階に上っていった。MPは、しばらく二階で隊長と話をしていたが、その日は、そのまま帰っていった。
この時、わたしは、アメリカ兵をはじめてみたのだった。大きな身体にピッチリした軍服を着て、プリプリした感じで、気味が悪かった。こわいという気はしなかった。
MPが来たことは、なぜかさほど異常なことに思わなかったが、土足のまま上がられるのには腹が立った。それで、いそいで奥さんと、三号木綿で紐のついた靴袋をつくった。ちょうど靴がすっぽり入って、上を紐で縛って包みこむことができる大きさのものだ。
二、三日して、またMPがやって来た。今度は、通訳とつばのある軍帽をかぶった偉そうな将校、それに若い将校が一緒だった。マッカーサー司令部から来たとのことだった。
全員に、例の靴袋を履いてもらった。彼らの物腰は、ていねいだった。二階へ上がり、しばらく隊長と話して、引き揚げる。
それから、アメリカ兵の一行は、午前中、だいたい決まった時間にやってくるようになった。二、三日おきに、七、八回は来たと思う。わたしは、その時間になると靴袋を玄関にならべるのだった。アメリカ兵が来ると、奥さんとわたしだけが玄関に出迎えた。
彼らは、短い時で二時間ぐらい、長くても半日以上はとどまらなかった。二階から降りてくると、丁重にわたしたちに挨拶して帰る。
この間、隊長は、具合が悪いということで、二階の自室に寝ていた。彼らが来ると、わたしは、お茶の葉をこして色をつけた水を薬壜につめて、隊長の枕元に運んでいった。
隊長は布団を敷いて寝ている。その周りにアメリカの将校が椅子に腰かけていた。書類のようなものを前にして、アメリカの将校が、静かに英語で何かを言うと、隊長も英語で答えていた。それは訊問というより事情聴取といった雰囲気に思われた。
七、八回目を最後に、アメリカ兵は、ぱったりと来なくなった。わたしたちは、「終わったな」と思った。隊長もホッとした様子だった。
その後、家族全員と隊長それにわたしとで、新宿に揃って出かけた。こんなことは、いままで、考えることもできないことだった。何をしたかもうおぼえていないが、みんな楽しそうだった。隊長も上機嫌で、「身体のためにはカボチャがいちばんだ。それから大根の葉も栄養があるから捨てちゃいかん」というようなことを一言って、帰りに大きなカボチャを一個、買ったのが印象に残っている。
七三一部隊の元部隊長・石井四郎と、アメリカ軍のMPは、どういう交渉をしていたのか。言うまでもない。七三一部隊がおこなった人体実験などの資料を提供するかわりに、部隊関係者の戦争責任を追及しない、という取り引きがおこなわれていたのである。
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