◎石井四郎中将邸は牛込の若松町電停そば
昨日の続きである。郡司陽子著『【証言】七三一石井部隊』(徳間書店、一九八二)には、七三一部隊・石井四郎軍医中将の自宅のことが描かれている。
この本の著者・郡司陽子さんは、石井四郎軍医中将と同郷で(千葉県香取郡)、七三一部隊で働いていた。敗戦後、七三一部隊とともに満洲から帰国し、その後は、石井四郎の私設秘書のような役目を果していた。以下の記述は、一九四五年(昭和二〇)の後半、たぶん、一〇月末以降のことと思われる。
新宿若松町の石井部隊長の自宅に「潜伏」する
それからまた、連絡があって、移動した。ところがなんと驚いたことに、こんどの落着き先は、隊長の自宅だったのだ。
当時、飯田橋を通って神楽坂から新宿角筈〈ツノハズ〉に抜ける路面電車があった。その電車の若松町という停留所で降りると、向いに小鳥屋がある。その横を真っすぐ入ると、やがて「トイチ」と呼んでいた東京第一陸軍病院につき当たる。病院の左側の塀にそってしばらく歩き、左に折れた先に、隊長のお宅があった。わたしは「三研」時代から知っていた。鉄筋コンクリートづくりの大きな立派な二階建ての邸宅だった。屋上もある。お宅には、おばあさまと隊長の奥さん、子どもたち、それに夫婦のお手伝いがいた。隊長の部屋は、二階にあった。二〇畳ぐらいの板敷きのホールがあって、その横の和室がそうだった。
はじめのうち、隊長は家から一歩も出なかった。なんでもロシアから、「天皇と石井四郎を出せ」という脅迫状みたいたものが来ていたらしい。二階の窓は、すべて黒いカーテンで覆われていた。隊長は、ときおり黒いカーテンをそっとめくって、外を窺っている。「まるで亡命しているようだな」と寂しく笑ったのをおぼえている。
ある時、わたしが二階にお茶をもっていくと、隊長が「近衛〔文麿〕さんも白鳥さんも自決された」と沈んだ様子でわたしにいう。〈隊長も死にたいのだな〉とわたしは涙ぐんでしまった。「多勢の人間に迷惑かけることになるから、死ぬわけにはいかんのだ」と、隊長は自分を励ますようにいった。【中略】
若干、注釈する。「若松町」というのは、当時の東京都牛込区若松町、今の新宿区若松町にあった都電の停車場の名前である。石井四郎の自宅が牛込区若松町にあったかどうかは不明。東京第一陸軍病院というのは、今日の国立国際医療センターの前身である。「三研」とは、郡司陽子さんによれば、陸軍軍医学校第三研究所の略称である。ただし、郡司さんも、これが、正式な名前で呼ばれたのを聞いたことはないという。
近衛文麿が自殺したのは、一九四五年(昭和二〇)一二月一六日である。郡司さんの記憶に誤りがなければ、石井四郎が「若松町」の自宅を離れたのは、少なくとも、近衛文麿の自殺よりもあとである。なお、「白鳥さんも自決された」とある。この白鳥さんというのは、元イタリア大使の白鳥敏夫のことではない。なぜなら、白鳥敏夫は自殺していないからである。あるいは、当時、白鳥敏夫が自殺したという風評が流れたのか。
いずれにしても、世界画報社の木村亨さんが、石井四郎邸を訪れたのは、石井が、ひそかに自宅に戻り、「ときおり黒いカーテンをそっとめくって、外を窺っている」、そういう時だったと思われる。今、手元に、『世界画報』に載ったスクープ記事のコピーがないが、以前、国会図書館でこの記事を確認し、コピーもとった。この記事を参照すれば、木村亨さんらの一行が石井四郎邸を訪れた時期も、ハッキリすると思う。
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