◎大政翼賛会は解散、大日本婦人会も解散
この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
本日は、『原爆投下は予告されていた』から、六月一四日~二二日の日誌を紹介する(一七七~一八五ページ)。
なお、『永田町一番地』は、すでに、六月二九日までの分が紹介済である。
六月十四日 (木) 晴
午前七時、田原と一緒に朝食を食べる。熱はあるも今回は前回と比べて意識明瞭で、朝食もかなり食べられる。朝食後は眠ることが病気に一番と、また毛布にくるまって休む。
午後三時、大量の発汗で体温計三十七度六分まで下がる。衣袴を全部着替える。もう少しだ、頑張ろう。衣袴を替えてまたも横になる。
午後七時、夕食時聞に気がついたが、自分の衣袴が干してある。田中君が知らぬ間に洗濯してくれたのだ。
「おいすまんなあ」といえば、
「班長殿、まだ熱があるようで、こんど汗が出たとき着替えられるものがないので、洗っておきました」という。多謝多謝である。
午後八時、田原が下番して来た。田原に、
「明日の午前八時からの勤務はおれがつく。おれの体はよくわかるが、今回は前回より回復が早いように思う。前回と違うのは、発熱前夜、キニーネを普通一錠飲むのを三錠にした。だから、来月からはもっと対策を自分なりに考えてゆきたい。今晩ぐっすり休んで、もう一回汗を出して熱を下げれば、明日は完全によくなる」と、自分にも宣言するように言った。
「おい、勤務中、変わったことは?」と聞く。昨日はまったく聞けなかったが、今日は聞ける。田原は、
「はッ、情報としましては、昨日はニューディリー放送はありません。昨日も今日も午後七時のNHKニュースを聞きました。昨日は大政翼賛会が解散式を行なったそうです。また翼賛壮年団や農業報国会なども同時に解散し、国民義勇隊の結成を急ぐとしております。
今日のニュースでは、国内の全自動車が陸軍の所管に移されることになったと報じておりました。以上であります」
「有難う」と礼を言った。まず病気回復が先決と横になる。眠りすぎると夢を見る傾向だが、眠らねばならない。
六月十五日 (金) 曇後雨
午前六時、二度目の発汗となった。手拭で汗を拭き衣袴を着替える。体温三十六度二分。これでやっと勤務ができる。二人に迷惑をかけた。午前七時の朝食は、なんと菜も汁も佃煮も、久しぶりにうまい。
午前八時、上番。上下番の挨拶を田中候補生と交わすのも久しぶり。繰りあげ勤務して事実上は一日しか休んでないが、長いこと休んだような気がする。眠りすぎたせいだろうか。
午前十時ごろから外は雨が降って来たらしい。雨が降ったら、今日は敵さん休みだろう。
正午のNHKのニュースが流れる。
――明治以来の婦人団体が一昨日をもって解散致しました。大日本婦人会は昭和十七年二月、愛国婦人会、国防婦人会、連合婦人会の統合により結成されました。二十歳以上の婦人が加入し、軍人援護、防空訓練、廃品回収など国家政策に協力してまいりましたが、今回の国民義勇隊結成にともない、六月十三日付をもって解散致しました――と。
国民義勇隊に女子まで包含されると聞き、ただ驚く。男子も女子も国民皆兵にするというが、武器は果たしてあるのだろうか。兵隊だ、兵隊だといって、数だけ多く作って、何個師団相当の人員といったって仕方がないように思うが、そして敵の弾丸除け用に使うのは問題だ。午後も電話なく静かである。
午後四時、下番する。ちょうど雨は一休みしてやんだ時間帯のようだ。衣袴、褌、靴下など一式洗濯する。褌の枚数の多いことよ。病後だ、あんまり無理すまいと、タ食後は早く横になる。
六月十六日 (土) 曇
午前八時、上番す。下番者田中候補生は、
「田原候補生からの申し送りでありますが、昨夜午後十時のニューディリー放送によれば、米軍はB29約四百七十機にて大阪を空襲爆撃しました」と。
大阪も自分が神戸にいたので、ときおり足を運んだ。梅田付近、御堂筋、心斉橋、難波界隈、上六、天六とあちこち瞼に浮かぶ。聖徳太子の建立されたという四天王寺は、焼けずに残っているだろうか。ふと、先日、隊長がこれ以上国民に犠牲を強いるのは酷だといわれたことを思い出す。私もその点、同感だが、一下士官ではどうすることもできない。
正午NHKニュースによれば、
――本日午後一時より大日本青少年団は神宮外苑の日本青年会館本部で解散式を行なう予定でございます。解散のうえは学徒隊や国民義勇隊に移行することとなっておりますという。【後略】
六月十七日 (日) 晴
午前零時、上番する。下番者田原候補生の報告では、
「昨日午後五時、陽江よりB29七機が東進し、海岸線の艦船を狙って爆撃しました。五時二十分海晏に、五時二十八分広海に、五時四十七分平沙に、午後六時斗門に、六時二十八分珠海に、六時四十分香港に、と各地で艦船を爆撃致しております。香港九龍から、このB29が東進致しておりますが、その後どこも確認しておりません」
自分の勤務時間になると、どこからもベルはかかって来ない。まだ珠江界隈の大デルタ地帯を残しており、この地域の船舶攻撃に、数日後にはかならず来るだろう。注意を充分しなけれぽならない。
電灯のもと、眠さはないが、それこそ真綿で首を絞められるようにジワジワと絞めつけられる気がする。沖縄はどうなっているのだろう。沖縄もじわじわと攻められていることだろう。【中略】
どこからもベルのない静かな中を、時間ばかりが過ぎてゆく。そのうちニューディリー放送が流れてくる。もう十時に在るのかと時計を見る。
――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、本日、米軍のB29約百二十機は九州の鹿児島、大牟田などを空襲し爆撃しました。繰り返し申しあげます。…………。――
こちらは静かでも内地は大変な模様。いつも思うことだが、ニューディリー放送では、どこから飛びたった米軍B29はとの説明が一切ない。せめてもう一言つけ加えて欲しいものだ。
午後十二時、下番する。人間は二十四時間構成で生きており、また八時間後に勤務するのかと思うと、八時間おきに横になっても眠れず、非常につかれた気がする。
六月十八日 (月) 晴
午前八時、上番する。
午前九時、ニューディリー放送が流れてくる。朝の放送は珍しい。
――こちらニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべぎ情報によりますと、昨夜、B29約百機は四日市、浜松、静岡の中部方面を夜間空襲し、焼夷弾を投下致しました。繰り返し申しあげます。…………。――
夜の空襲警報では夕食、防空壕に入っていて、出て見れば火の海となったのではないだろうかと想像する。焼夷弾は爆弾のように大きくなく、手榴弾のちょっと大きいくらいだから、一機に何千と積めるので百機とは大変だったろう。今朝この時点、まだ燃えているのではないだろうか。この時間が自分の勤務時間でよかったと思った。若い静岡出身の彼らにとっては気になることだろう。後で情報記録簿を見ての感じと、ここで直接放送を聞いた感じは大変な差だ。【中略】
午後四時、下番する。上番者田中候補生に、「珠江沿いに西日を受けて上流の方から来るような気がする。来れば一時間以内だろう」と。下番しても明朝午前零時から勤務なので手拭で体をよく拭き、そのまま横になって寝る。一時間も眠ったか。
「班長殿、空襲です」といって田原が鉄甲を持って来た。
「何時か」と聞くと、「ちょうど五時です」という。多分、梧州からの珠江沿いと見たが、綏江沿いも考えられる。三水辺りで空襲警報をかけたなと思う。
もうそろそろ来てもよいと思うのに、飛行場爆撃に来ない。遠くで爆撃の音、高射砲の破裂音が聞こえ出した。と思っていたら、やっぱりやって来た。ドスーン、ドスーンという爆弾投下の音に、ドーン、ドーンという高射砲の音がつづく。時計を見れば五時二十五分だ。白雲飛行場の細長い滑走路を見て落としたくなったのだろう。
今日はわりに早く引き上げた。どうやら黄埔の港から珠江大デルタ地帯の港を巡っているのだろう。なかなか解除にならない。
「おいじっとしていても、時間が勿体ない。一勤に備えて眠っておく。もし急用があれば起こしてくれ」といい、鉄帽を頭のところにおいて横になる。そのまま眠ってしまった。
午後十一時半、上番準備のために起床する。どの衣袴も洗濯する閑がないので、どれもこれも臭い。自分が決めた勤務予定だから文句はいえないが、十二時間勤務なら八時間睡眠を取っても、洗濯時間が充分できる。とにかく隊長も上山少尉も一勤の時間はおられないので、汚れた衣袴だが着ていくとしよう。
六月十九日 (火) 晴
午前零時、上番する。下番者田中候補生は、
「班長殿のおっしゃった通りB29八機は午後四時十分、梧州から珠江沿いに徳慶、肇慶、白土を経て午後五時二十分、広東上空に、その間も各地で船舶を攻撃した模様です。白雲飛行場と天河飛行場には、それぞれ四機ずつ分かれ爆撃しました。今日は飛行場の攻撃はわずかで、大半が珠江上の船舶攻撃で、黄埔のみでなく東莞、順徳、さらに中山方面まで船舶をねらって投爆を繰り返し、いったん黄埔まで逆戻りした後、東江に沿い東莞、恵州を経て河源から江西省方面に北に向かって脱去致しました。河源は午後六時五十五分でありました」
「ご苦労。ご苦労」
自分の勤務時間になってからは、どこからもベルがなく静かである。隣りの部屋は全員引きあげ、広い壕の中、ただ一人の勤務である。【後略】
六月二十日 (水) 晴
午前零時、上番する。下番者田中候補生の報告は、
「昨夜午後十時のニューディリー放送によると、一昨日(六月十八日)、米第十軍司令官バックナー陸軍中将は、沖縄南部真壁付近で戦死した旨報道されました」と。
真壁というのを地図で見ると、沖縄の南部も南部で、東南は摩文仁〈マブニ〉、南は米須〈コメス〉、西は喜屋武〈キャン〉となっており、敵の司令官がこんなところにと、敵側の進攻度におどろく。十日前に日本に対して降伏勧告をした男で、名前もよくおぼえている。それにしても、敵としては一日遅れであるがよくも発表したものだ。
逆に考えると、今日まで補給の武器、弾薬、糧秣なく頑張っている牛島中将閣下をはじめとする第三十二軍に敬意を表したい。また沖縄県民の家は焼かれ、田畑は潰され、親を失い、子を失いと悲惨な人々の数も多く、軍と共に戦い死亡した人も多いのではないだろうか。【後略】
六月二十一日 (木) 曇後雨
午前零時、上番する。下番者田中候補生の報告では、
「午後七時のNHKの放送によりますと、(一)米と代用食品の抱き合わせ配給が東京ではじまったこと。(二)焼け跡のくず鉄から手榴弾をつくるため都内に電機製鉄炉一基が設置されたことが放送されました」
「沖縄のことは何かいってたか」と聞くと、「何も放送はありません」という。沖縄戦線はその後、どう展開して行ったか気になって仕方がない。武運長久を祈るのみである。毎度のことながら今日も一勤勤務はまったく静かだ。【後略】
六月二十二日 (金) 雨
午前零時、上番する。下番者田中候補生が、
「午後七時、NHKの放送によると、戦災者北海道開拓協会では、かねてから家や職場を失った戦災者を対象として北海道への集団帰農者を募集していたところ、昨日付で来る七月六日、第一次千百人が出発することになると発表しておりました」という。
「ああこの間、募集発表を言ってたなあ。ありがとう」
こちらは雨。一勤は閑というのが定評なのに、雨が降ってはなおさらのことである。
六月に入って、もうかなりの日数雨が降る。今後どうなるかだが、この南支、やっぱり六月が雨期ではないだろうか。
情報室の日めくり、今日は夏至である。これからが暑いんだ。頑張ろう。勤務は真面目に机に対座しているのにベルはなし。いつの間にか朝となったのか。【後略】