◎廣田対ソ提案の骨子はポーツマス条約廃棄
この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
本日は、『永田町一番地』から、六月四日、八日、一八日、二二日、二九日の日誌を紹介する(二一〇~二一三ページ)。この間、飛んでいる日の日誌は、同書においてにも飛んでいる。
六月四日
このころ、特に陸軍側からの要求であるが、佐藤〔尚武〕駐ソ大使を更迭すべしとの意見が再び抬頭した。これに対して東郷〔茂徳〕外相は、戦局が急速調で展開しつつある今日の情勢で、駐ソ大使を交替するのは時間的に不利であるとの見解である。それで日ソ関係打開のため、外相は廣田弘毅氏の意見を質した〈タダシタ〉。廣田氏の意見は話の持ち込み方次第では日ソ国交調整の緒が開かれるかも知れない。ただ大使としてモスコーに赴くことは免じてもらひたい。その代り、今後とも別様の手段で、援助協力を吝まない〈オシマナイ〉といふのであつた。
廣田弘毅氏は、東郷外相と協議の結果、マリック駐日ソ連大使と折衝を行ふことになり、昨日と今日、目下強羅〈ゴウラ〉ホテルに疎開中のマリック大使と星一〈ホシ・ハジメ〉氏別荘で会談した。廣田氏は日ソ国交調整に対する意見を丹念に説いた。会談の後、マリック大使は日本側の具体案提示を求むるに至つた。そこで廣田氏は東郷外相にその旨報告、外相と協議した上で、わが方の具体案をマリック大使に提示した。
廣田対ソ提案の骨子はポーツマス条約廃棄を主とするもので、
一、漁業権の割譲
一、その代償としての石油の対日輸出
一、満洲の中立化、即ち日本の満洲よりの撤兵
一、以上を基礎とする日ソ友好条約(期間三十年)の締結
等である。其の外日本側よりはソ連の希望する如何なる問題に付ても、これを討議するに吝か〈ヤブサカ〉でないことも付加、説明された。
六月八日
陛下御臨席の下に、最高戦争指導会議が開かれた。今日の会議では、日本の綜合戦力についての詳細な報告が行はれた。それに基き、会議の意見は、戦争継続困難といふことに一致した。然し、戦争打切りとの結論にはならなかつた。
戦局の悪化に対し、誰も今後に自信を持ち得ないまま、戦争継続に決定したのである。
六月十八日
東郷外相は今日、陛下に拝謁、対ソ国交調整について詳細に説明、併せて戦争終結に関し内奏申し上げた。その際、陛下には「右は真に結構である。速かに戦争を終結することに取計らふやう希望する」旨の思召し〈オボシメシ〉を述べられた。外相は恐懼〈キョウク〉して御前を退下した。
六頭会談の決定たる対ソ方策は、情勢上、(A)、(B)より実質的に(C)〔ソ連を仲介とする和平〕の方向に進み始めたのである。木戸〔幸一〕内府からも、陛下に対し、戦争終結に関し意見が具申された。
六月二十二日
陛下から、改めて最高戦争指導会議構成員に対し、参内すべき旨のお召しが下つた。さきに東郷外相に対し戦争終結の御意思を明かにされた陛下の御発意によるお召しである。全く前例を見ないことであつた。
構成員に向つて、まず陛下より、この前(六月八日)の最高戦争指導会議で、戦争継続と決定したが、この戦争を終結に導くようにせよ、との思召しがあつた。鈴木〔貫太郎〕首相は思召にそふやう努力する旨奉答、米内〔光政〕海相は、綜合戦力の状態から言つても、戦争継続は事実上、不可能と考へる旨の発言をなした。東郷外相は、我方が戦力の余祐を存する間に戦争を終結するを可とする、との意見を述べ、和平の仲介について奉答した。梅津〔美治郎〕参謀総長は、戦争終結は慎重に行ふべきであるとのお答へをなした。「さらに言ふべきことはないか」との陛下の御発言に対し、構成員よりの発言なく、陛下は入御せられた。
六月二十九日
廣田・マリツク強羅会談の結果が爾後、一向進捗を見せないので、ソ連の回答を督促すべき旨の訓電が佐藤駐ソ大使に飛んだ。